一夜の過ちなんて良く言ったものだ。
  そんなものが果たして本当にこの世にあるのか、マッドは疑わしく思っていたし、事実この歳に
 なるまでそんなものをお目に掛かった事はない。
  もしかしたら、と思う事はある。もしかしたら、西部に来る事無くあのまま生き続けていたなら、
 何らかの形でその味を舐める事があったのかもしれない。例えば何処かの令嬢と。或いは町の片隅
 に生きる娘と。
  けれどもマッドは西部に来た。
  荒野の広がる大地では、一夜の過ちなど何処にもない。
  女の数が少なく、女が貴重なものであるこの大地では、一夜の過ちは一夜の夢となる。その夢を
 売る娼婦達なら、何度も抱いた。彼女達はそれを重々承知しており、それらは決して表立って許さ
 れはしないものの寛恕されている事であったので、やはり過ちと言うのは不適切だろう。
  きっと、西部には一夜の過ちなんてものは存在しえないのだ。
  よほどの事がない限り。
  けれども、そのよほどの事が、まさか自分に振りかかるだなんてマッドは思ってもみなかった。




  Wrongdoing





  賞金首サンダウン・キッドに抱かれた。
  どこぞの伯爵令嬢だとか、どこかの人妻だとかを抱いたのではない。マッドが、男に、抱かれた
 のだ。
  どうしてそうなったのか、は、実はマッドにも良く分かってはいない。
  抵抗しようと思えばできた。確かに相手のほうがマッドよりも体格は良く、マッドよりも強い。
 けれども、マッドの手の届く範囲には依然として銃があったし、その気になれば刺し違えてでも抵
 抗する事は出来た。
  だが、それをしなかったのは、マッドの中にもその行為を受容する部分があったからだろう。
  いや、もしかしたら、最初からその気があったのかもしれない。
  でなければ、自分と敵対関係ではないにしても相容れぬ関係であるはずの賞金首という存在を食
 事に誘うはずがない。わざわざ食事を作ってやるから、なんて面倒な言い訳にも等しい誘い文句を
 口にする必要もない。
  けれども、例えその誘い文句を口にしたとしても、サンダウンが顔を顰めればそれで終わりだ。
 むしろ、その可能性のほうが高い。マッドが手料理を作ってやると言って、それでのこのこ信じる
 ほうがおかしいのだ。
  だから、実際にマッドがその台詞を口にした時に、サンダウンが無表情のまま頷いて、そのまま
 のそのそとついてきた時には、マッドのほうが面くらったものだ。
  面喰ったまま、慌ててサンダウンを近場の塒に連れて行き、適当に料理を準備して、二人で食事
 を取った。
  そして、当然のようにアルコールを口にしたのが、いけなかったのかもしれない。
  大人が食事をする際に酒を飲むのは、よほどの下戸でもない限り、普通の事だ。おまけに、サン
 ダウンもマッドも、世間一般よりも十分にアルコールに対しては強い耐性を持っている。だから、
 多少羽目をはずしても、ほろ酔い程度で終わるのだ。
  が、そのほろ酔い程度のアルコールがまずかった。酒を飲むと皆開放的になると言うが、ほろ酔
 いだろうがなんだろうが、それは一緒だ。
  ふにゃふにゃとした気分のまま、サンダウンに口付けた。何を思ってそんな事をしたのか、それ
 はマッドにも分からない。けれど、例え口付けたところでそのままベッドに入る必要性は何処にも
 ない。それを止める為の歯止めは、何処にでも転がっていた。何よりも、口付けられたサンダウン
 がマッドを突き飛ばせば、それで終わりだ。
  酔っ払いのふざけた行為だと思えば良い。それで溜め息を吐くか、顔を顰めるかして、そのまま
 マッドを放り出しておけば良いのだ。サンダウンが酔っ払ったマッドを放り出す事が出来なかった
 のだとしても、酔ったマッドをベッドに放り込んでそのまま眠らせるだけで良い。賞金首と賞金稼
 ぎという間柄を考えれば、それだけでも十分すぎる。
  サンダウンが、わざわざマッドと同じベッドに潜り込む必要はない。もしかしたら、サンダウン
 は久しぶりにベッドで眠りたかったのだと思ったかもしれないが、けれどもそれならばマッドに背
 を向けてしまえば済む事だ。 
  だが、サンダウンはそれらの何れもしなかった。
  マッドを放置する事もなく、マッドを一人寝させることもなく、マッドに背を向ける事さえしな
 かった。
  いきなり口付けてきたマッドに眼を見開きはしたものの、すぐにマッドの腰と後頭部に手を添え
 て、口付けを深めてきた。それは、マッドが気紛れのように、ふざけたように仕掛けた口付けより
 も、ずっと深い。
  マッドが思っていたものよりも深い口付けに、けれどもマッドは逃げなかった。それどころか、
 きゅっとサンダウンの服に掴って縋るように身体を支えていた。口付けが解かれた後も、頬やら耳
 朶やら首筋を唇で辿っていくサンダウンの行為に身を捩りながら、一切の抵抗をしなかった。
  サンダウンは、マッドが抵抗しないのを良い事に、マッドの身体からジャケットを引き抜いてい
 た。首を締め上げていたタイは解かれ、床の上に払い落されている。無防備に曝された首筋への口
 付けに、マッドは過敏に反応して仰け反ったけれども、腰を捕まえられている所為で逃げる事は全
 くと言って良いほど出来なかった。
  食事を終えたばかりの、テーブルに空のグラスや皿が残っている状態の前で、マッドはサンダウ
 ンに愛撫され続けた。完全に服は脱がされていない状態で、マッドは絶え入るような吐息を零すま
 でに高められた。くたりと弛緩した身体は、そのままベッドの上に投げ込まれ、そしてすぐにサン
 ダウンが圧し掛かってきた。
  その際に、耳元で熱っぽく、名前を呼ばれた。
  この男がそんな声を出すなんて、信じられなかった。何にも執着しないような飄々とした表情で
 荒野を渡っていく男に、そんな声を出させている事が信じられなかった。そして、その夜は、延々
 とその声が、焦がれたように自分の名前しか呼ばなかった事が。
  今まで、そんなふうに、名前を呼ばれた事なんかなかったから。
  眼が覚めたら一人きりだったから、夢かと思った。
  でも、全身に残る気だるさと腰の重みと痛みが、その夜の出来事が夢ではなかった事を物語って
 いた。
  同時に悟ったのは、その夜こそが紛れもなく一夜の過ちであったという事だ。
  何せ、相手は男だ。賞金首だ。そしてよりにもよってサンダウン・キッドだ。
  自分の中に微かでもあの男を引っ掛ける希望のようなものがあったとしても、それが思惑通り事
 が進んだのであったとしても、或いは全くの無自覚で欲望の捌け口であったとしても、どんな言い
 訳をしようと、過ちは過ちだ。誰にも言えないし、言わなかったとしても、そこには些かの夢も希
 望もない。
  そんな物事は、一夜の過ち以外の何物でもない。
  まして、マッドが眠っている間に消え失せたサンダウンを思えば、サンダウンがマッドを抱いた
 事を後悔している事は火を見るよりも明らかだ。やはり、サンダウンにしても、あれは過ちでしか
 ないのだ。
  そのばずだと思っていたのだが。

 「はぁ?」

  あの夜以来、久しぶりに顔を合わせた賞金首の言葉に、マッドは呆気にとられた。
  そんなマッドに焦れたのか、何を思ったのか、サンダウンは同じ言葉を繰り返した。

 「チーズが欲しい。」
 「そんなもん、どっかで買ってこいよ。」
 「何処に売っているのか知らない。」
 「ああ?」

  チーズなんか、その辺の町の店に行けば売っているだろう。
  そう言うと、サンダウンは珍しい事に、表情に焦れたようなものを浮かべた。

 「この前、お前がハムで巻いていたチーズが欲しいんだ。」

  その台詞に、マッドは内心でうろたえた。サンダウンの前でハムをチーズを巻いた事など、一度
 きりしかない。酔ったマッドがサンダウンを誘って、そのままサンダウンに抱かれた、一夜の過ち
 の時だ。それを思い出したのだ。
  が、サンダウンは些かの戸惑いもない。あの夜のチーズが食べたいと、繰り返している。
  と言っても、あの時のチーズなど、それこそその辺に売っているようなチーズだ。別段特別なも
 のでもない。そんな事、サンダウンだって分かるだろう。それとも、サンダウンの味覚は産地まで
 嗅ぎ分けるほどの鋭敏なものなのか。
  勿論、あの夜に食べたチーズを売っていた店を教える事はできる。だから、マッドはその店のあ
 る町の名前と場所を口にした。
  すると、サンダウンがますます焦れたような表情を浮かべた。

 「………お前が買ってきてくれ。」
 「あ?!なんで俺が!」

  この俺を使いっぱしりにするつもりか、このおっさん。
  マッドがむっとしていると、サンダウンは焦れた表情のまま言う。

 「私が普通に店で買い物ができるとでも思っているのか。」

  確かにこの男は賞金首だ。普通に考えれば普通の店で買い物する事はできないだろう。
  けれども、それでも普段、ちゃんと必要物資を揃える為に店に出入りしているはずなのだから、
 買い物の一つや二つくらいできるはずだ。百歩譲って、マッドがチーズを買った店がサンダウンの
 ような賞金首に厳しい店であったとして、けれども先だっても言ったようにマッドが買ったチーズ
 は何処ででも変えるチーズだ。それならばサンダウンがいつも物資を購入しているような場末の店
 で買えば良いだけの話だ。
  けれど、サンダウンは譲らない。お前が買ってこい、と繰り返す。

    「なんで俺がてめぇの為に、んな事しなきゃならねぇんだよ。」
 
  冗談じゃねぇ、と言うと、何故か急にサンダウンが傷ついたような表情をした。
  なんだ、この、さっきから妙に感情表現の豊かなサンダウンは。

 「ハムで巻いたチーズが食べたいだけだ。」
 「んなもん、自分で作れ。」
 「……あの時の酒も飲みたい。」
 「自分で買えば良いだろうが!」

  なんだ、この図々しい男は。
  まさか、マッドがサンダウンに抱かれた事で、マッドが自分の思うようになるとでも思っている
 のか。
  あれは一夜の過ちだ。それをネタに、たかられるなど、冗談ではない。
  じろりと睨み上げると、サンダウンはますます傷ついて、焦れたような表情を浮かべる。が、普
 段から無表情な男の顔は、筋肉が固まってしまったのか、それ以上の何らかの表情を紡ぎだす事は
 なかった。
  酷くもどかしい時間だった。
  その時間に耐えられなかったのは、サンダウンだった。何か決然とした色を眼に込めて、再び口
 を開く。

 「お前の作った料理が食べたいんだ。」
 「はぁ?!」

  言っている意味がまるで分からなかった。
  確かにあの夜、マッドはサンダウンの為に料理を作った。それは料理とは言えない料理だったけ
 れども。それをした理由は、未だにマッドも分かっていない。サンダウンを引っ掛けたかったのか
 どうなのか。
  けれども、マッドの心の内がどうであれ、サンダウンにとっては過ち以外の何物でもないはずだ。
  それとも、違うのか。
  サンダウンは焦れたようにマッドを見て、マッドは唸り声を上げる犬のようにサンダウンを睨み
 つける。
  再び、耐えられなかったのはやはりサンダウンだった。マッドから眼を逸らした男は、今にも何
 かに当たり散らしそうではあったが、表情は焦れているもののそれ以上は動かない。
  その様子に、マッドはこれ以上は話は進まないと判断した。もともと、サンダウンと会話してい
 る時に場を動かすのはマッドの役目だった。けれども、サンダウンの意図が分からない以上、マッ
 ドにもこれ以上の話の発展を推し進めるのは無理だった。
  だから、踵を返してサンダウンに背を向けたのだが。
  その瞬間、静かではあるが、はっきりと明確に、サンダウンが慌てる気配がした。そして、恐ろ
 しい勢いでマッドに掴みかかってくる気配が。ぎょっとして振り返った途端、茶色い物体に身体を
 覆い尽くされた。サンダウンに抱き締められているのだと理解した時には、あの夜と同じくらい深
 い口付けを仕掛けられていた。
  そして、色々と些細な望みを何度も繰り返していたサンダウンは、ようやく本当の本質的な望み
 を口にした。

 「……お前が、欲しいんだ。」

  チーズでもハムでも酒でもなくて。

 「お前が、欲しい。」

  それは、あの夜と同じくらい焦がれた声だった。