懺悔も許しを請う言葉も、どちらも口を吐いて出る事は出来なかった。
 
 異教徒のように聖書を踏み躙る気はない。神への祈りを否定したいわけではない。

 だが、どう考えても自分の中にある罪は、見えない光に燃やしつくして貰うようなものではない。

 むしろ、誰よりも跪いて許しを請うべき相手がいる。

 しかし、彼らに許しを請うても、その言葉が余りも虚ろに漂うだけの口先のものであることを、マッドは自覚していた。




Tacitum vivit sub pectore vulnus.




 ゴースト・タウン。

 ゴールド・ラッシュの波に乗せられて、束の間賑わった町。

 それは波が通り過ぎ去ると、まるで置いてきぼりをくった砂地の貝殻のように、生命感のないものへと翻る。

 メイン・ストリートがあるだけで、通りに面してまるで箱庭のような家々が立ち並んだ町は、それがにわかにつくられた
 ものである事を物語っていた。

 
 金の輝きは、大勢の人間を惹きつける。

 鉱山師や砂金採りだけでなく、賭博師や娼婦、犯罪者も多く流れ込む。

 人が集まれば集まるほど、町は大きくなり、そして摩擦によって生まれる熱も上昇し、爆ぜるのだ。

 町の中心にはホテルや保安官事務所、銀行が立ち並ぶ。

 最終的には教会まで造られたところを見ると、この町は開拓が一段落し、本当に人々が行き交う町として機能しようとし
 ていたのかもしれない。

 だが、鉱脈から金が取り尽くされると、人々は用無しとでも言うように町を立ち去るのだ。

 根付くまで後一歩のところで、この町は人々に見放されたようだ。

 旋風とタンブル・ウィードだけが、舗装もされていない埃っぽいメイン・ストリートを時折転がっていく。

 人がいても泥と埃で噎せ返りそうだが、人がいなくてもカタカタと板張りの簡素な家の壁を叩く風によって、見捨てられ
 た町は埃と黴に塗れた臭いを運ぶ。

 こうしたゴースト・タウンは、時として犯罪者や流れ者が隠れ家を求めて雪崩れ込むのだが、この廃墟に限ってはそうし
 た無体に曝されずにすんでいるいるようだった。

 
 ―――いや。


 薄い壁に撃ち込まれた夥しい黒い穴が、決してこの町が平和に眠らなかった事を示している。

 襤褸雑巾のような様相をした家壁は、一つや二つではない。

 中には無残にも窓硝子という窓硝子、扉という扉が破壊し尽くされた家もある。

 まるで、戦争が通り過ぎたような跡の残る通りの先にある、奇妙な静寂さを保った教会から、その奇妙さの原因とも言え
 る気配が立ち昇っていた。

 廃墟に残る古傷を癒すように落とされた気配は、同時に神聖な結界を張り巡らせるように弓の弦の様な震えを齎している。


 誰も参拝することのないその教会の前に、黙示の四騎手を乗せるような闇色の馬が氷のように佇んでいた。

 何事にも動じない黒い瞳は、奈落の深淵をそのまま切り取ったかのようだ。

 しかしそんな蒼褪めた馬でさえ、立ち昇る気配よりも大きくなる事はせず、ひたすらその時を待っている。


 薄く、簡素な取り急ぎに造られた神の家は、それでも他の家とは一線を画すように絨毯が引かれ、賛歌を受ける為に両脇
 に幾つもの祭壇が並んでいる。

 誰も踏みしめる事のない絨毯の先、十字に打ちつけられた救世主の下。

 顔を吹き飛ばされた救世主の足元には相応しくない、艶めいた指先が黒くくすんだ骨を撫でていた。

 都会の空気をそのまま織り込んだようなジャケットや帽子は投げ出され、その中に隠されていた極上の絹で編み立てられ
 た色の髪が露わになっている。

 もしも今この瞬間、欲に飢えた無法者が雪崩れ込んできたならば、忽ちの内に何もかもを奪われてしまいそうな姿形。

 だが、男の眼を見た瞬間、彼らは逃げ出すか腰を抜かすかして、二度とこの廃墟には現れないだろう。

 表に立つ馬が黙示録に記された馬だというのなら、男は正しくその騎手だ。

 無敗の冠を戴く、西部一の賞金稼ぎの名は、決して飾りものではないのだ。

 現に、この町の至る所にある銃撃は、彼が無法者を引き裂いた爪跡の一つだ。   
 撃ち取った賞金首の数は知れない。
 
 その内何人が、銀の銃弾によって命を絶たれたのかも分からない。

 だが、男はそんな事を自分の罪だとは思っていない。

 
 傷だらけの、しかしそれを差し引いても切子硝子のように透明感のある指が、くすんだ黒の上をなぞる。

 厳めしい黒光りする銃よりも、くすんではいても女の身体を模したその冷たい表面こそ、その手には相応しい。

 だが、その滑らかな黒い身体の下に隠された、湖の底に沈んだ骨のように白い鍵盤に触れかけた時、なぞる指は罪の意識
 に震え、止まった。

 思わず動き掛けた指のそれは、遠くに押し殺した旋律だ。



 遠く遠くに追いやった、今はもうない南部の楽園。

 苦労も何も知らず、逆らわぬ奴隷と、柔らかな甘い身内だけが暮らす世界。

 太陽の光が燦々と差し込むバルコニーや、父親が手間暇をかけて作り上げた革表紙の並ぶ書斎。

 最後の貴族が住まう場所とさえ言わしめた、南部の暮らしは、きっと西部の乾いた荒野では想像もつかないものだろう。

 広大なプランテーションが広がる屋敷は、何もせずとも金が生まれる。

 一日の暮らしに汗水垂らす西部とは大違いだ。

 だが、それらを確かに懐かしいとは思いこそすれ、戻りたいとは思わなかった。

 大体、それらは戦争の炎の中に投じられ、一切合財消えてなくなったのだ。
 
 戦争に負けて一変した生活の中、彼らが必死だった事は分かっている。

 そんな中で自分を育てた事は、まさに血を吐く思いだっただろう。
 
 けれど、彼らを平気で切り捨ててしまったのだ。



 今頃、どうしているのだろうか。 
  

 
 誰にも触れられなくなって久しい鍵盤に、触れるか触れないかの位置で指を彷徨わせる。

 同じように誰にも触れられない過去は、蓋を開いても冷たい空気だけが包み込む。



 こんな乾き切った世界では生きていけそうにない人達だった。

 光輝く広大な敷地で、綿花畑を見下ろして、奴隷達が持ってくる紅茶を啜る事が出来る場所でしか、生きていけないので
 はないかと思うような人達だった。

 出来かけの鉄道に乗って、見知らぬ、原住民が横行するような土地に向かう息子を止めようとはしても、ついてくる事は
 できなかった。

 いや、繊細な旋律を弾くためだけの指を持って生まれた母親には、この土地は毒のようなものだろう。

 ついてきたとしても生きる事はできないし、生かしてやる事も困難を極める。

 敗戦の混乱を、養育だけに命を注いで切り抜けた彼らは、その命を注ぎ込んだ生命に見捨てられて、その後生きて行けた
 だろうか。

  


 ―――羽が生えれば、親鳥を捨てるのは当たり前だろうが。



  
 いつだったか見た台詞。

 それを言い訳にして、荒野を駆け巡っている。

 けれどその台詞を見たのは父親の書斎だ。

 そして、そこで培われた全ては、全てを捨てた今となっても身に染みついて剥がれ落ちない。

 どれだけ粗野な言葉遣いをしても、乱暴に蹴り飛ばしても、西部の風に身体は芯から染まろうとしない。

 それは自身で気付くだけでなく、周囲の好奇と好色に濡れた視線が、否応なしに物語る。

 今にも鍵盤を叩きそうな指先を舐めるように見られた事もあるし、身体を弄るためだけに路地裏に引き摺りこまれた事も
 ある。

 それは単純に、この身が西部にはない貴族的な空気を織り込んでいるからだ。



 しなやかな指が、鍵盤の上で引き結ばれた。

 今にも打ちつけられそうだった拳は、だが、柔らかな曲線を描いて再び黒い骨の様な外装の上に降ろされる。


 
 笑えてくる。

 どれだけ見捨てたつもりで、切り捨てたつもりになっても、身体は全てを覚えているし、心も忘れるつもりがない。

 西部一の賞金稼ぎの名前が聞いて呆れる。

 賞金首に恐れられても、内面は結局その辺にいる人間達と同じだ。

 肉親の情一つ切り離せない。

 そのくせ、戻ってその安否を確認する事さえしようとしないのだ。

 これでは、どこぞの不良息子と同じではないか。
 
 だが、浅はかな自分は、きっと彼らが幸せだったなら、その瞬間に肉親の情から解き放たれてしまうだろう。

 そんな権利を持たない癖に、自分で自分の罪を許し、罪の意識も消し去って、そして笑いながら地獄に転がり落ちるのだ。
 
 罪を罪と感じなくなる事を恐れて、誰よりも近い血と肉を持っているはずの彼らに会う事ができない。
 
 それほどまでに、自分の情は軽く、罪に対する性根は浅ましい。

 上っ面だけの情で罪を騙る自分など、地獄に落ちるどころか、この瞬間に硫黄の塊に胸を撃ち抜かれてしまえば良い。

 目の前にある黒いピアノ一台に、くずおれてしまうほど心を掻き乱されている癖に。

 けれど人前ではそんな姿決して曝さないのだ。

 誰の眼も光らない廃墟でだけ、溜め込んでいた澱を吐き出すように蹲り、それでも懺悔はしない。

 それがより一層、罪深い。 



 磨かれる事のない黒い肌に顔を埋め、大きく息を吐く。

 澱んだ空気は、きっと吐き出した澱の所為だ。

 コールタールのように重いそれに身を委ね、今しばらく罪を映しこむ鍵盤に指を押し当てる。

 触れるだけの指は、それだけで焼き鏝を押し当てられたように熱い。

 一つの音も立てられない事が、恐ろしく悲しく、辛かった。



 音を立てない指の代わりに、静寂を剥ぎ取ろうとする夜明けの足音が聞こえてくる。

 夜が明ければ、また、荒野を駆け巡る為の表情を作らねばならない。

 そこにいるのは、西部の賞金稼ぎであって、間違っても南部の貴族であってはならないのだ。

 

 だが、夜が明けるまでは。
 

 押し当てた指は、まるで溶接されたかのように鍵盤から解けない。


 夜が明けたら、必ず。


 零れる釈明は誰に向けてのものなのか、自分でもよくわからない。

 
 ただ、ひたすら繰り返すだけだ。


 





 最後に一つ、短く高い音が落ちた。



 




 夜明けと共に、黒馬が人気のないメイン・ストリートを駆け抜ける。

 その背に乗った人影も、突き抜けたように黒い影を纏っている。

 口元に乗せられたのは薄い、皮肉げな笑み。

 瞳には、曇る事など知らない光が惜し気もなく迸っている。

 一陣の風となって、走り去る身体には些かの憂いもない。

 賞金首を求めて、軽やかに荒野を縦横無尽に駆け巡るのだ。


 


 ただ、その背後で、小さな音を立てて鍵盤の蓋が閉ざされた。














 もの言わぬ傷が胸の中に息づいている