いつか、必ず
眼の前で蹲り、悪魔のように囁き続けている男は、マッドが此処に来る前からこの場所にいたようだ。
どれくらい長い間此処にいたのかは知れない。
しかし、男の纏う衣服は、マッドのいた世界からはとうに排斥された――一部の教会などでは使われているかもしれない
が――神官服に似ていた。
ヨーロッパのいずれかの国の中世時代のローブを纏う男は、俯き、今も何事か呟いている。
夜明け間近の空の色をそのまま映しこんだかのような長い髪は、力なくだらりと垂れ下がり、顔はそれに隠されて見えない。
見れば、神経質そうだが酷く端正な顔立ちをしている事をマッドは知っていたが、同時に、美しい髪と顔に、所々残され
ている腐敗臭にも似たどす黒い斑点にも気付いていた。
病的に細い指が空を掴み、そしてその指先はマッドへと伸ばされる。
そして、悪魔の如き囁きを呟くのだ。
Vive memor mortis.
何もない空間だ。
生命の気配など何処にも感じられず、ずっと見つめていれば盲目になりそうな色ばかりが続いている。
死後、人は天国か地獄に逝くのだと聞かされてきた人間にとっては拍子抜けの世界だ。
心底それを信じてきた人間ならば、拍子抜けどころではないかもしれないが、少なくとも神にそこまでの敬意を払ってい
ないマッドにしてみれば、
広がる空間は期待はずれの代物だった。
しかしそれはすぐに、当然のものとして受け入れられたのだが。
死者に多くは必要ない。
マッドはそう思っている。
それ故、この、何も――誰かの気配さえない――世界は、当然のようなものに思えた。
寧ろ、自分の中に胸が疼くような痛みが残っている事が不思議ですらあった。
尤も、マッドが居る場所は終着点でないらしかった。
この、何もない空間は、現実と終着点の狭間にあるらしい。
詳しい事はマッドにも分からないが、昨日までいたはずの人間が、ふらっと何処かに消えてしまう事がある。
それはどうやら、終着点とやらに向かったという事のようだった。
何千人の人間が現れ、消えていく。
しかし同時に、なかなかその場を離れようとしない者も大勢いた。
この場所は何もない空間ではあるが、辛うじて現実に繋がる場所でもある。
時として現実世界を眺める事も出来るし、力があれば現実世界に迷い込む事もできる。
最愛の人間を置いてきたと嘆く者は大抵此処に残り、最愛の人間が心変わりするか、この世界を訪れるまで、終着点に向
かおうとうはしない。
そして、マッドもまた、この場所に残り続けている。
しかし、それも、今日で終わりだった。
ある種の覚悟を持って、マッドは現実世界を見つめる。
マッドの黒々とした瞳には、一人の男が映っていた。
いや、これまでずっと、この男しか映して来なかった。
これからもそのつもりだが、しかし、この場所で眺めている事はもう出来そうにない。
生前と変わらぬ姿で立ち尽くすマッドの背に、やけに乾いた声がぶつかった。
「生き返らせてやろうか?」
声の持ち主は、御伽噺にでも出てきそうなローブを纏った男だった。
中世時代の衣服を身につけた男は、顔を長い髪で半分以上隠しながら、薄い笑みさえ浮かべてマッドに近づく。
「生き返れば、あの男を救う事が出来るんじゃないか?」
魔術師然とした男――ストレイボウは、その細い指をマッドに絡めようとして、失敗する。
彼の指は、マッドに触れる直前で恐れるように立ち止り、悔しそうに唇を噛んだ。
病める魂は、死して尚世界を背負う姿には触れられないのだ。
それでも囁き続けるのは、もはや現実では満たせない己の欲望を満たす為としか言いようがない。
世界を背負う魂を、穢し、貶める。
現実世界に残したものが大きいほど、自分の囁きがどれほど甘美に聞こえるか、ストレイボウは気付いていた。
だが、マッドはそれを冷然として跳ね除ける。
「興味ねぇな。」
その眼に憐憫の情さえ浮かべ、マッドはストレイボウを見やった。
「てめぇこそ、いい加減、さっさと逝ったらどうだ?」
自分よりも遥かに長い間此処にいる男。
だが、この男が待つ者はもはや何処にも存在しない事を、マッドは知っている。
この世界に来て、何千人といる魂の中で、真っ先に眼に留まったのがこの男だった。
周囲に比べて時代錯誤な格好をしていた所為もある。
だが、それ以上に立ち昇る気配が生々しかった。
話しかけても返って来るのは冷笑ばかりで、しかしその裏にあるのは憐れなほど矮小してしまった魂だった。
ストレイボウが冷笑の狭間に微かに話す言葉から、そして現実世界に残る僅かな手掛かりから、マッドはこの男の身に何
が起きたのか理解した。
数少ない現実世界を行き来できる存在――マッドがそれだ。
死後も世界へと舞い降り、見て回る。
マッドは、とある教会の、うず高く積った書物に押し潰された、もはや原型すら留めていない紙切れから、ストレイボウ
の名を見つけ出した。
そして、対のように書かれた名前を。
そしてその名はもはや存在しない事にも。
「あんたが待ってる奴は、もう、来ねぇよ。」
些かの思い遣りも孕まない声でマッドは告げた。
ストレイボウの待ち人は、マッドが此処に来る遥か昔に、此処に来ているはずだ。
一夜にして国を滅ぼし、魔王と称された青年は、しかし確かに打ち倒されたと書物には示されていた。
書物の全てを信じるわけではないが、もしもまだこの世に佇んでいるのならば、誰かが――自分が――気付いているはずだ。
マッドが待っている者と同じ、特異な魂の持ち主に気づかぬはずがない。
気付かぬという事は、もはや存在しないのだ。
ストレイボウが知らぬ間に此処へ来たか、それか此処に来る事も叶わぬほど魂を粉砕されたかの、いずれかだ。
「黙れ!」
ストレイボウの髪が、蛇のようにのた打った。
何もない世界に広がる醜い感情。
しかしマッドはそれを無視する。
その表情に更に激昂したのか、ストレイボウは叫んだ。
「貴様なんぞに、オルステッドの、俺の、俺達の事が分かって堪るか!」
「分かりたくもねぇ。」
ストレイボウの叫びを一蹴して、マッドは現実世界に眼を向ける。
そこにいるのは砂色の髪をした男だ。
それを見た瞬間、マッドの眼には痛ましげな色が宿る。
ストレイボウも、長い間の遣り取りで、冷然としたマッドの唯一と言っていい柔らかな部分を知っている。
「てめぇこそ、あの男を置いて一人で逝く気か?ああ?」
詰め寄る顔に凄惨な笑みを浮かべ、ストレイボウはマッドに詰め寄る。
「あの男は、てめぇの所為で死ぬに死ねないんだろうが!なぁ?何度も見たよな?あの男が自分で自分の頭を撃ち抜く瞬間を!
でも、死ねない!てめぇの所為だ!」
だから、とストレイボウは再び悪魔の囁きを口にした。
「生き返らせてやろうか?」
分かってるんだろ?
魔術師はマッドの考えを――そしてそれは真実を突いている――見抜いて、囁く。
「あの男は、てめぇ以外に殺せない。死神の鎌でもな。他でもないてめぇが望んだから、あの男はそれを叶えようとしてる
んだ。なのにてめぇは、あの男を見捨てて、一人逝こうとしてやがる。無責任にもほどがあるぜ。」
「ほざけ。」
マッドは、短く言い捨てた。
口元に皮肉げな笑みを浮かべて、悪魔に魂を売り渡した魔術師に、それ以上の囁きを放つ。
「だったら、てめぇが生き返って、オルステッドとやらを連れてきてみせろ。それも出来ねぇ魔法使いが、何言ってやがる。
大体、てめぇは俺に指一本触れられねぇだろうが。」
ストレイボウが気色ばんだ。
しかし、彼が何かを言う前に、ストレイボウとマッドの間に、茶の毛並みの馬が滑り込む。
その背に跨り、マッドはストレイボウを一瞥する。
「言っとくが、俺は一人で逃げるわけじゃねぇ。」
他に手がない。
だから、逝く。
そして、次こそは、必ず。
しかし、その前に。
マッドは、最期に一度、現実世界へと身を投じた。
夜明けが近い。
ストレイボウの髪の色と似た空の色は、どこか不吉だ。
その不吉な色合いの下に広がる荒野で、引き裂かれた獅子のような身体をマッドは見下ろした。
茶の毛並みの馬から降り、その米神を見て顔を顰める。
こびりついた血の跡。
投げ出された手が、同じく赤に汚れた銀の銃を手にしている事から、何が起きたのかは一目瞭然だ。
――また、撃ったのか。
マッドの背後で凛として佇む馬が、崩れるように眠る男のもとを去って久しい。
その日から、もともと危うかった男の均衡は、まるで枷を失ったかのように一気に崩壊したのだ。
狂ってしまったその身体の時間は、どれだけ望んでももはや元に戻らない。
マッドでさえ、再び同じように紡ぎ直してやる事は不可能だ。
他の魂よりも強い色を持っているとはいえ、マッドは所詮只の死者だ。
にも関わらず、自分で自分を撃ち抜き、しかし何度も目覚める男が捜すのはマッドなのだ。
男の中では、もはや、マッドでしかその命を絶つ事が出来ないと定まってしまっている。
そして、その定めを真実にしてしまうだけの力が、マッドの預かり知らぬ場所でこの男の中で育まれていた。
この男は、マッドがいなければ、死ぬ事すら、出来ないのだ。
マッドは、血がこびりついた男の米神にそっと指を伸ばす。
触れる事は出来ない。
しかし、それでも指を伸ばす。
何度も何度も、この男が銃で自分を撃ち抜く様を見てきた。
その度に、這うように身を起こすのを。
そして時間を止めてしまった身体は、置いていかれた迷子のように、姿形が変わらない。
――生き返らせてやろうか?
ストレイボウの言葉は、あまりにも甘美だ。
生き返って、この男を撃ち抜いてやれたなら、どれだけ救われるだろうかと心底から思う。
だが、マッドは蘇りなど望まない。
仮に蘇ったとしても、それは果たしてマッド本人なのだろうか?
その恐怖と、蘇りという罪深さが、マッドにストレイボウの言葉を跳ね除けさせている。
男の腕が、何かを求めるように突然動いて宙を掻く。
触れられる事などないのに、思わずはっとして後退った。
伸ばされた手は、先程までマッドがいた場所を確かに掴んでいる。
そしてその手の奥では、青い双眸が鋭い光を放っていた。
はっきりとマッドを見据える眼差しに、いつもの事ながら、見られているのではないかという思いがもたげる。
しかし、それはいつものように杞憂に終わり、男は拳を一際強く握り締めると、地面に叩きつけた。
片腕を重そうに持ち上げ、何かを耐えるように眼を覆う。
隠される直前の瞳に灯っていたのは、今にも狂気に転じそうな苦しみだ。
「………マッド。」
乾いた風に掻き消されるような僅かな声で、だが、狂気に呑まれる事に抵抗するかのように、名を呼ばれてマッドの胸に
残されていた痛みが、突き上げるように疼き出す。
死者が生者よりも強い存在であってはならない。
死者が生者を縛り上げてはいけない。
それはマッドが望むところだ。
しかし、マッドの望みは叶えられず、死者であるマッドがこの男を苦しめている。
再び魘されるように伸ばされる手に、思わず、そっと触れた。
その瞬間、跳ね起きる身体。
マッドを見据える碧眼には、しかし悲しい事にマッドの姿は映らない。
それでも、もはや本能だけに縋って男の手はマッドをすり抜け、弄る。
「マッド………。」
そこに、いるのか?
―――いたよ、ずっと。
この男の手で殺された、けれどこの男が何よりも心の寄る辺としていた二つの魂はずっと待っていた。
なのに、この男は此処に来る道を自分で閉ざして、後戻りさえ出来ないのだ。
此処に連れてきてやりたくても、ストレイボウの言う蘇りを望まないマッドにはその術がない。
そうなれば、残された方法など一つしかないのだ。
この男がマッドの居る場所に来れないというのなら、マッドがこの男の場所に行けば良い。
もっともそれは、蘇りなどという胡散臭い方法ではなく、魂としては真っ当な、しかし気が遠くなるほど長い時間を要す
る方法だ。
その為には、此処に留まらずに、逝かなくてはならない。
それをストレイボウは逃げだ、無責任だというが、マッドには確信がある。
時間は掛かるし、その間この男は一人苦しむだろうが、再び見える事はきっと出来る。
ふらりと立ち上がったマッドの気配を感じたのだろう。
男の腕がマッドを掻き抱こうと動く。
男がマッドの気配をまだ覚えている事に安堵して、マッドはするりと腕を躱す。
行くな、と告げる眼を見返して、小さく笑う。
安心しろよ、また、追いかけてやるから。
花になっていたら身体に刺と毒を持って刺し貫いてやろう。
鳥だったなら生きたままその肉を啄ばんでやろう。
人間だったなら――今度こそ、撃ち殺してやるから。
必ず逢いに行く。
必ず待っている。
だから、
お前も、見つけ出せ。
俺を、