『老師の帰還を確認しました。』

 機械音と光の点滅する空間で眼を覚ました老師の耳を打ったのは、キャプテン・スクエアの無機質
な機械音声だった。
 眼の前には既に弟子の姿はなく、冷たいリノリウムの床と、モニターが埋め込まれた暗い壁が広が
るばかりだ。モニターの中で点滅する光はキャプテン・スクエアの作動を示しているのだろうが、こ
の人工知能は今は人の姿を模そうともしていない。

『老師、マッドから派遣員に招集命令がかかっています。速やかに管理室に移動してください。』
「弟子の動向を見届けなくてはならない。」
『それならば三十九秒前に完了しています。オディワン・リーは破壊され、歪も治まりました。』

 素っ気ない機械音声だったが、しかしそれでも老師は安堵する。弟子は、たった一人残された弟子
は、一人で歪を撃破する事が出来たのだ。
 安堵と誇らしさが込み上げるとともに、弟子をすぐにでもテンプルへ加入させられない事がもどか
しい。老師の接続状態は不安定で、今すぐにあの時代に戻る事は出来ないのだ。老師が戻るまでの間、
弟子は一人、崩れた道場で己の身に何が降りかかったのかを自問自答するしかないだろう。
 だが、それもまた、必要な時間であるかもしれない。 
 そう言い聞かせ、老師はキャプテン・スクエアに聞き返す。

「マッドが呼んでいるって?」 
『はい。貴方の道場を――育成者によって育成された者を襲った歪について、話があると。』

 老師はすっと姿勢を正す。
 老師が戻る前に、マッドが吐き落とした懸念。そして言葉通りになった。事態を重く見て、マッド
が皆を呼び集めるのは当然のことだろう。 

「他の派遣員は全員集まっています。老師も、速やかに移動を。」 
『分かった。』

   頷くと同時に、白く光っていたリノリウムの床から、徐々に光が鎮まり、老師が部屋から出ていく
時には、誰もいないその部屋は完全に闇に包まれていた。


 



 管理室には、マッドを始めとする五人の派遣員が集まっていた。部屋の壁に埋め込まれたモニタに
は金髪の青年が形作られている。キャプテン・スクエアも、人の形を取って参加しているのだ。
 老師が席に着くなり、誰ともなく溜め息を吐いた。事態が事態だけに、溜め息を吐きたくもなるも
のだ。

「まったく、やれやれだな。」

 いきなり呼び出されたご褒美がこれだなんてな、と無法松が呟く。二十一世紀全般を担当している
彼は、今現在、かなりの長丁場の任務を一つ請け負っているところだ。なかなか抜け出しにくい任務
で、今回の呼び出しも相当無理をしてやってきたに違いない。

「全員に呼び出しがかかるっていうんだから余程の事だろうと思ったけどよ、大事にもほどがあるん
じゃねぇのか。」
「育成者を狙った歪っていうだけでも随分なんだが。」

 眼鏡をかけた赤髪の若者は、ちょっとデータを確認しに戻ってきただけらしい。こちらも長丁場―
―というか、その属性上、一つのところに長々といなくてはならない任務だ。時空犯罪者が故意に、
あるいは時空旅行者が迂闊にも落としてしまった、その時代にはあるべきではないもの――所謂オー
パーツの回収を請け負っているざきは、今は原始時代に流れ着いた遺物回収をしているのだ。無法松
に比べると、まだ動きやすいだろうが、しかしのんびりできるほど暇ではない。

「それがオディオだなんて。あの時空犯罪者が本当に現れたっていうのか?」

 ざきの問いかけに、老師は頷く。

「ああ、おそらく間違いないだろう。私が弟子を育てていた時代に生じた歪――その根源であるリー
は紛れもなくその時代の人間だ。だが、その人間にオディオは乗り移っていた。」

 正しくは、オディオに乗り移られたからこそ、リーは歪となったのだろう。

「リーは確かに素行の良い輩ではなかった。だが、奴に時空犯罪者が接触した形跡はない。確かに、
その時代の人間が自然に歪となることはある。しかし、彼らは我らの存在を知り得ない。にも拘わら
ず、リーはこちらの事を知っていた。」
「つまり、リーって野郎が、オディオじゃないにしても誰か――時空犯罪者に精神を乗っ取られて操
られたって可能性が高いわけだ。まあ、俺はそんな芸当が出来る野郎は、オディオしか知らねぇが。」

 皮肉げな笑みを添えたマッドは、キャプテン・スクエアに画像を出せ、と命じる。途端、金髪の青
年の姿は掻き消え、代わりにリーの悪人色に染まった顔が映し出される。老師と相対した時の画像だ。

「良く見てみろ。」

 リーの顔を拡大し、瞳も巨大に映し出される。その瞳の周り。縁取るように何か文字が書いてある。
それを読み取った途端、鈍色の髪の青年が、弾かれたように呟いた。

「ODIO……!」
「ああ、奴のサインだ。」

 瞳孔を取り囲むように羅列された文字は、延々と【ODIO』の文字を繰り返している。それは、あら
ゆる時代あらゆる場所問わず現れては歪を引き起こす時空犯罪者のサインだった。そしてそれは、テ
ンプルに対する宣戦布告。

「とうとう姿を現したのか。」

 鈍色の髪の青年の言葉に、マッドは頷く。

「もしかしたら今まで引き起こされた歪にも、奴は絡んでいたのかもしれねぇが、此処まで大々的に
姿を見せたのは久しぶりだ。お前の担当している時間軸でいうならば、二十年ぶりか。」

 口元にはっきりと笑みを刻んだマッドの眼が、鋭さを増している。紛れもなく獲物を見つけた時の
猟犬のそれだった。
 当然と言えば当然だ。
 オディオは、二十年前――マッド達の時間ならば三年前、マッドが、そして鈍色の青年ストレイボ
ウが取り逃がした時空犯罪者だった。
 オディオ。
 あらゆる時代あらゆる場所に現れ、人々にその時代にあってはならぬ物をちらつかせ、富と権力を
与え、混乱を巻き起こすことを至上の快楽とした犯罪者の名前だ。目的は、ただただ時代を混乱させ、
存在しえぬ未来を生じさせ、時空そのものを狂わせること。それを眺める事こそが、望み。
 歪とは時空を越えることにより時空の不一致――例として挙げるならオーパーツや預言など未来を
知ること――が発生して起こる。または、その時代からは逸脱した存在によって自然に発生するもの
の二種類があるのだが、オディオはその両方だ。オディオが時空を超える事で時空の不一致が発生し、
オディオそのものが時空を逸脱している。
 オディオは歪の中心に存在するのではなく、歪そのものだ。
 そして如何なる歪とも異なる。
 歪は伝播するが、伝播した相手の意思までは奪い去らない。オディオは、明確に相手を乗っ取るの
だ。リーにそうしたように。オディオが存在すれば、意思はオディオに従って動く。まるで、オディ
オという存在が、人間の中にある一つの感情であるかのように。

「三年前、俺に痛い目見たってのに、凝りてねぇって事だな。そんな気はしてたんだが。」

 マッド、とストレイボウが長い髪を振り乱してマッドを見る。

「奴は、俺が!」
「落ち着け。はっきり言って、お前が意気込まなくても、奴がこの中で次に狙うとしたら、お前か俺
だろうよ。」

 三年前に、オディオに辛酸を舐めさせ、逃げ出させるというところまで追い詰めたマッドか、その
場にいたストレイボウが、狙われる可能性は高い。
 とは言っても、とマッドはオディオのサインの残った画像を消し、派遣員を見回す。

「此処にいる全員が、オディオにとっちゃあ獲物だろう。奴は歪。歪が何処にいるのか、そして歪に
なりやすい人間が誰なのか、俺達よりも分かっているはずだ。そしてその近くに俺達がいる事も。」
「俺達が今当たっている任務に、オディオが介入してくる可能性がある、と?」

 ざきの問いかけに、マッドは頷く。

「もしかしたら、案外奴は既に潜んでるかもしれねぇ。ここ最近連続してワタナベが破壊されてるの
も気になる。奴が、肩慣らしでやらかしてる事かもしれねぇからな。」
「っていっても、気を付ける、以外に出来る事はねぇんだがな。」

 無法松の言葉に、マッドは苦笑した。その通りだったからだ。

「とにかく各人気を付ける事。特に歪化しそうな奴にはワタナベを貼り付けるくらいの事はしろって
ことだな。」

 呟く無法松は、既にそれをしている。ワタナベ父が、じりじりと壊れていく事態を無法松は見つめ、
歪が発火する時を待っているのだ。
 ざきも頷きながら立ち上がり、何か妙なものが流れ着いたら連絡する、と告げた。

「オディオが流している物が手に入るかもしれないからな。特に生き物である場合は注意するとしよ
う。」

 ゆっくりと派遣員達は頷き合い、それぞれが管理室から出ていく。
 残ったのはデータ処理を行うキャプテン・スクエア、接続が復旧するまで時間が空いた老師、そし
て何かを耐えるような表情をしたストレイボウだ。

「どうしたのかね?」

 凍り付いているストレイボウに話しかけると、彼ははっとしたように顔を上げる。そして、慌てて
首を横に振った。

「いいえ、なんでもありません。俺も早く戻らないと。」

 いそいそと立ち上がったストレイボウは、老師を振り返りもせずに部屋を出ていった。





「おい。」

 管理室から出て、接続ルームへと移動するストレイボウに、甘やかだが鋭い響きを湛えた声が投げ
つけられる。ストレイボウが振り返れば、そこには案の定、今にも十九世紀アメリカ西部に向かおう
としているマッドが立っていた。

「念の為に言っておくが、オディオを取り逃がしたのは自分の所為だ、なんて思うんじゃねぇぞ。そ
んな責任転嫁は願い下げだ。あの時はテンプルに加入もしてなかったてめぇに、責任を擦り付けたな
んて俺の沽券に係わるからな。」


 三年前――ストレイボウの派遣された時代軸で言うならば二十年前と同じ立ち姿に、ストレイボウ
は何かを幻視したかのように虚を突かれた表情を浮かべ、やがて弱々しく笑った。

「分かっているよ。」
「分かってねぇから言ったんだ。」

 極め付け、マッドは身を翻す。黒い残影が、ストレイボウの視界を弾丸のように過った。