暗がりの中で、なお暗い闇が蠢く。
 足音もなく、ひたひたと滑らかな木の床の上を駆ける。周囲からはぽろぽろと明かりが零れ、時折
さざめくような人の声が聞こえるが、それらの大半がどうでも良いばかりのもの。目的の声を、耳を
澄まし息を殺し、無数の音の中から選び出す。
 二階。
 静かに交される声を聞き取り、在処を、そう判じる。
 獲物は、二階にいるのだ。この国を混沌に追いやろうとする輩。数百年以上に渡り続いてきた秩序
を、大砲の一つで突き崩そうとする奸賊。
 この夜、その首を一刀のもとに刎ねてやらねばならない。
 とりとめのない会話が振り落される。時には、笑い声まで聞こえてくる。ある者はそれを魅力的だ
と言い、この先々を担うに十分だと言う。
 馬鹿な、と主は言った。
 この国を包囲する海が割れ、数千年の長きに渡って培われてきた神聖なる呪いが解けようとしてい
るのに。それをやり遂げようとしているあの男の声は、なるほど耳に心地良いかもしれないが、しか
し故に甘言なのだ。
 その口を封じねばなるまい。
 呪いの声を、これ以上は吐き出せぬように。
 二階から、誰かが降りてくる気配がする。酔った男のようだ。獲物の客人で、でっぷりとした体躯
を重たそうに揺らして、階段を降りてくる。
 みし、みし、という足音を追いかけ、それが最後の段を踏み締めるや否や、まずは露払いとして、
その首を貫く。
 う、と呻き声がした。しかし喉を突かれたその声は、二階には到底届かない。
 ずるりと崩れ落ちた身体を音が出ぬように静かに床に降ろす。この身体を隠すのは困難だろう。誰
かが此処を通りがかる前に、獲物を屠らねば。
 定めると、行動は早い。
 先程と同じように、ひたひたと足音を殺したまま、階段を駆け上がる。階段を上るにつれ、男と誰
かの会話が耳につく。間違いはない。獲物は、これで間違いない。
 確証のまま、閉ざされていた襖を躊躇いなく開く。
 さあ、と零れ出る部屋の中にあった行燈の光。眩しいとは思わぬ光の中で、獲物を見つけるのは容
易かった。
 眼を見開き驚愕する男に、抜刀の暇さえ与えずに、一飛びで歩を詰め、その眉間を叩き割る。
 はずだった。
 次の瞬間に視界に飛び込んできたのは、獲物ではなく、獲物を遮るように頭上より舞い降りてきた
少年と言って差し支えない者だった。
 分かるのは、己と同じ、日向を行く者ではなく影を行く者であるという事。そして、その者の背負
う刀が、間髪入れずに抜き放たれた事。
 肩から鳩尾にかけて、灼熱の痛みが横ぎった。 
 斬られた、と思った。
 同時に、ふつりと意識が失せた。






「坂本殿、お怪我は。」

 少年である忍びが、まだまだ年若い声で問うてくる。声だけを聞けば、その身体が返り血で真っ赤
であるとは想像もしないだろう。
 一太刀で賊を切り伏せたおぼろ丸に、坂本は小さく溜め息を吐く。

「ああ、なんちゃない。」

 この少年を己の誘いに惹き入れてからというもの、坂本が怪我を負う事は目に見えて減った。
 襲われる事は、今更だ。
 混沌とした時代である事は、誰もが知っている。長らく続いてきた武士の時代が、激しく揺さぶら
れ、崩れるかも分からぬ時だ。そこから何処に向かうべきか、信念の違う者達が、激論し、言葉だけ
では足らず、刃物を持ち出す事があるだろうことも、重々承知している。
 坂本は、今ある武士の時代を壊し、今までとは丸きり違う方向に国を進めようという考えの持ち主
だ。旧体制にしがみつく連中には、さぞかし眼の上のたん瘤だろう。
 だから、というわけではないが、とある命を狙われた事件の一つの折に知り合った忍びを、己の護
衛として従わせるようになった。この忍びは若いが優れた腕前を持っており、坂本に暗殺者を寄せ付
けない。
 今回のように暗殺者が目の前まで忍び寄ったとしても、その一太刀で切り伏せるのだ。

「また、お主の世話になったのう。」
「それが拙者の役目故……。」

 冷血とさえ思えるほどに物事に動じぬ忍びは、しかし、と珍しく眉根を寄せる。

「今回の者は、随分と手練れであったよう。拙者もこれほどまでに近づかれるまでに気づかぬとは。」
「余程の大物が仕掛けてきたのかもしれんちゅうことか。」

 今回の会合の事も何処からばれたのやら。
 もう一度坂本は溜め息を吐こうとして――血を吐いた。

「あ?」
「え?」

 間の抜けた声が零れる。同時に、坂本の身体は、どう、と崩れ落ちた。額から夥しい血と脳漿を吹
き上げながら。

「さ、坂本殿!」

 おぼろ丸が絶叫した時には、坂本は既に絶命している。びゅくびゅくと噴水のように溢れ出る血の
向こう側に、たった今までいなかったはずの黒い影が高く聳え立っていた。
 坂本の背後に立ち昇った影に、おぼろ丸は驚愕する。
 気配もなく、足音もなく、そしてそもそもそこに人が入り込む隙間などなかった。けれども、確か
にその男は、いた。
 乾き切った気配を醸し出し、黒々と聳え立つ影の中で、双眸が青々と光っている。

「き、貴様………。」

 砂色の髪と青い眼。この国の人間ではない。
 異人だ。
 だがそれはどうでも良い。おぼろ丸にとって、この男は己の守るべき者を殺した、憎悪に値する存
在だ。
 怒りに眦を決したおぼろ丸を、男は少しだけ眼を細めて見る。そして、ぼそり、と何事か呟いた。
しかしそれも異国の言葉で、おぼろ丸には理解できぬ。
 ただ。
 おぼろ丸は先程賊を切り捨てたばかりの、血を纏った刀のままで男に飛び掛かる。
 ただ、おぼろ丸の中で、この男の何かが記憶の片隅に引っかかったような気がした。が、それは終
ぞ思い出せない。 
 男は、深い溜め息を吐いて、無言のまま、おぼろ丸の眉間を撃ち抜いた。そして、僅かに身をずら
す。
 主と同じく、額から血を吹き上げるおぼろ丸の身体は、その息の根を止めたまま、しかし誰かを屠
ろうとする勢いのまま、壁に突っ込んだ。

「………任務完了。撤収する。」

 おぼろ丸の身体が壁に突き当たって、首を奇妙な形に折り曲げたのを見届けて、男は――サンダウ
ン・キッドは小さく呟いた。





  「よお。上々の結果だな。」

 返ってきたサンダウンを、無法松が呼び止める。そして、微妙に眉間に皺を寄せたサンダウンの顔
を見て、うお、と声を上げた。

「なんつー顔してんだ。あれか。知り合いをやっちまったからか。」

 おぼろ丸はルクレチアに呼び出された人間の一人だ。彼は元の世界に戻る事を選んだ為、ルクレチ
アの事はもとより、サンダウンの事も忘れるよう、記憶改竄されてしまっていたようだが。

「だがな。あそこで坂本龍馬が死なないと歴史は変わっちまう。そうなると歪が生まれる。それはO
DIOの思う壺だ。」
「………分かっている。」

 マッドに誘い込まれてこの世界にやって来た時から、叩き込まれた真理だ。それについて、今更文
句は言うまい。

「それとも、まさかなんで自分がこの仕事をしないといけないのか、何てこと考えてねぇだろうな。
だとしたら答えは簡単だ。他に手が空いてる奴がいなかったから、だ。」 

 慢性的な人手不足の中、何処までやり切れるか。この仕事は嫌だ、なんて我儘を言っている暇など
ない。

「それに、だ。今回のマッドの采配は間違いじゃねぇと俺も思うぜ。ああ、昔の仲間――仲間でなく
とも、短い時間とはいえ共にいた奴を、きちんと断罪できるようなら、一人前だ。。」
「……マッドの采配に、間違いはない、か。」
「あいつも当然間違うけどな。そういう場合は、大抵が。」

 無法松が一つ、息を吐いて。

「誰かの意見を聞き入れた時だ。先の、ルクレチアみたいにな。」

 だから、あんまり文句は言ってやるなよ。
 そう言う無法松に、サンダウンは視線だけを向ける。

「マッドは?」
「任務の真っ只中だ。ま、もうすぐ返ってくるとは思うが。」

 無法松の言葉が終わらぬうちに、管理室からマッドが姿を現す。普段と変わらぬ、笑みを微かに湛
えて。

「よう。元気そうだな、てめぇら。」 

 悲嘆のない声は、荒野にいた時と、微塵も変わらない。
 無法松が、マッドに答える。

「おう、マッド。このおっさんが、お前の采配に文句があるってよ。」 
「あん?あの忍者を始末する件か?」

 聡いマッドは、すぐに気が付いたようだ。それとも、サンダウンが文句をいう事も、計画に入って
いたのだろうか。
 底知れない眼でサンダウンを見たマッドは、鼻で笑う。

「なら、早いとこ、俺に意見できるくらい偉くなってくれ。」

 カラカラと笑い、そこに、警報が鳴り響く。
 スクリーンにに警告の文字が点滅し、キャプテン・スクエアの機械音声が響き渡った。

『1600年代において、ワタナベの破壊を確認。歪が出現します。派遣員は即座に対応を。』
「やれやれ、休む暇もねぇなあ。」

 マッドは呆れたような声を上げて、出てきたばかりの管理室に再び入り込んだ。その後を無法松と
サンダウンが追う。
 二人が管理室に入った時、マッドは既に時空転移の準備に入っていて、

「キャプテン・スクエア。状況の報告をしろ。」
『ワタナベからのデータの解析を完了。イタリアにおいて、貧民窟より貴族に成り上がった男がいる
ようです。その背後に、指名手配中の時空犯罪者が潜伏しています。』
「そいつの顔を転送しろ。歪の規模はどれくらいだ?」
『データの送付完了。歪はカテゴリCと判断します。』
「大層な輩じゃないだろうが、既に一人の人間を改変している以上、抹消する必要があるな。転送の
準備は?」
『完了。いつでも可能です。』
「OK。なら、さしずめ、こちらも貴族の面してそいつの所に行くかね。」

 マッドが人の悪い笑みを浮かべ、見る間に、その姿が消える。

『マッド・ドッグの転送を完了。これより、サポートに入ります。』

 キャプテン・スクエアの声が、テンプスの任務が開始された事を告げる。