「待てよ。」

 時空を超える直前、マッドに呼び止められた。黒い銃を手の中で弄ぶ男は、やる気がなさそうに、
しかしその眼に鋭い光を宿して告げる。

「ちょっとばかり気を付けたほうが良いぜ。」
「そんなことは。」

 分かっている。
 言いかけて、老師は口を閉ざす。
 そう、そんなことは分かっていることだ。いちいち指摘する間でもないことは、派遣員である自分
達は重々承知している。だが、それを敢えて口にしたマッドの真意は、分からないながらも明確な忠
告の色を放っていた。
 意図を問おうと振り返ると、マッドは既に口を開いていた。

「狙われたんじゃねぇのか。」

 するりと斬り込むような素っ気なさで放たれた言葉に、老師は一瞬立ち竦んだ。何を言われている
のかが咄嗟に判断できなかったのと、判断を拒みかけた所為だ。

「それは、」
「育成者のお前が、狙われた可能性があるって言ってるんだ。」

 黒い眼が瞬き、宿っていた鋭い光が微かに和らぐ。そして未だ年若い彼は、自分よりもゆうに年上
である老師に言い聞かせるような、可能な限り穏やかな口調になって言った。

「時空犯罪者にとって俺らは眼の上のたんこぶだろうが。俺らが奴らを狩っていることは、奴らも知
っていることだ。俺らの本来の目的が、時空の歪を治めることであるってこともな。もちろん俺達の
情報は他のテンプルの部署には知られていねぇ。だが、それでも漏れることってのはあるだろう。お
前が育成者だってことを知ってる輩がいたっておかしくねぇんだ。」

 育成者ってのは嫌でも狙われるぜ。
 言ってから、いや、とマッドは首を横に振った。 

「一番最初に狙うのはお前じゃねぇ。適正有と見做されてテンプルに入るまで、何も知らされない、
お前の弟子達だろうよ。」

 自分達を捕まえようとする連中が、その範囲を拡大することを、時空犯罪者は良しとしないだろう。
ならば、庇護の必要な雛鳥を、誰もが真っ先に狙うだろう。

「俺ならそうする。」

 俺が追っている奴も。
 マッドの言葉に、老師は眼を剥く。思わず唾を飛ばす勢いで、その顔に問い質した。

「まさか、お前の仕事がこちらに絡んでいると言うつもりか?」
「分からねぇ。だが、その可能性がゼロじゃねぇ。特に、ここ最近の乱立する歪は、もしかしたらと
思わなくもない。奴は、何処へでも行き、何処へでも種を撒く。」

 あらゆる時代、あらゆる場所に存在し、そして歪を生み出すことを至上の喜悦とする輩。
 マッドは、まあ気を付けるんだな、と言い置いて、ひらりとジャケットの裾を翻して踵を返した。






 結論から言うなら、マッドの杞憂通りになった。
 生き残った唯一の弟子が、崩れた道場の冷たい床に膝を突いて呆然としている。冷たい床の上には、
既に事切れている二人の弟子。
 この時代、老師は三人の弟子を見出した。全員がテンプルに加入できるとは限らなかったが、しか
し全員が見どころのある若者だった。いつかこのうちの誰かに時空の歪について語らなくてはならな
いことを、躊躇うほどに。
 しかし、その躊躇いごと全ては打ち砕かれてしまった。
 三人のうち二人が、削り取られてしまった。
 破壊しつくされたあちこちから漂うのは、紛れもなく時空が捻じれたことによる軋みだ。大きくは
ないが、しかしだから、老師は気づくことができなかった。ワタナベが破壊されるその時まで。
 老師は、ぎり、と歯噛みする。
 老師自身はテンプルの中でも決して弱い存在ではない。むしろ、後進の育成を頼まれるほどのベテ
ランだ。けれども、つい先程の1994年代の出来事といい、今回といい、犠牲者を出し過ぎた。七
人と、今回は二人、しかもテンプルの次代となり得た存在だ。
 むろん、老師の責任ではない。
 微かな歪というのは、何度も言うようだが時代に溶け込むが故に、ワタナベが破壊されるまで気づ
かれぬことが多いのだ。故に犠牲者が増えてから、ようよう派遣員が向かうということも少なくはな
い。代わりに、普通の人間でも対応できる場合が多い。事実、派遣員が向かわずに治まった歪もある。
 しかし、だからといって弟子達の死体を突きつけられた老師の心中が慰められるわけでもない。
 義破門団の文字が書き殴られた壁や床を見つめ、老師はますます苦い気分になる。義破門団となの
る流派を知らぬではなかったからだ。
 奴らの拠点である屋敷は、一見すれば豪奢で金の有り余る格闘家の道場に見えたが、その実態は町
の不良共を掻き集めたヤクザ者。しかしそれさえも隠れ蓑に過ぎなかったわけだ。

「行くぞ……二人の仇を討つために。」

 老師は、唯一残された弟子の涙が乾かぬうちに、死した二人の墓前で低く言い放つ。
 もはや育成などを口にしている暇はなかった。今すぐにでも義破門団に向かい、その中央に坐して
いる歪を根こそぎ潰してしまわねば。
 もしも、もしもこれが本当に、マッドの言った通りに自分達を――歪に対抗する者を狙ったものだ
としたら、悠長なことをしている暇はないし、義破門団をたった一人でも見逃すわけにはいかない。
見逃せば、再び同じことが起こる可能性がある上に、こちらがどのような存在を弟子にしようとして
いたのかという情報をばら撒かれる恐れがある。弟子の情報をばら撒かれれば、こちらが求めるよう
な人員をスパイとして近づけてくるかもしれない。
 一刻も早く、奴らを潰さねばならなかった。
 そして歪を沈める為には、この時代を生きる弟子が必要だった。弟子が、最終的にテンプルに加入
するかどうかは、もはや問題ではない。
 いつかは、その選択を迫るのだろうが。
 自分の人生を歩むか、世界の為にその身を捧げるか。
 テンプルに加入した者は、己のいた世界すべてに別れを告げなくてはならないのだ。その存在を失
うことに整合性が取れるのならば、他の人々の記憶はそのままに。それが不可能ならば周囲の記憶を
消して。
 だが、今はまだ弟子に対してはその選択を迫るべき時ではない。
 例え、弟子の耳に今初めて、時空を超えるという言葉が入ったのだとしても。

「そうだとも、目障りな貴様らの芽を摘む為に、貴様の弟子とやらを殺したのだ。そして残るは貴様
と、そこにいる半人前のみ!」

 リーと名乗る歪の中心が、きっぱりと明言した。
 狙いは紛れもなく自分達――自分であったのだと。時空犯罪者の眼の上のたんこぶであるテンプル
の後進と、その育成を潰える為に襲ったのだと。
 マッドの懸念は眼に見えるものとなった。
 言っている意味が分からないという表情のまま、身構えた弟子を背後に、けれどもと心の裡で疑念
を呟く。
 リーが心底からの時空犯罪者であり、入念にテンプルを潰える計画を立てていたのだとしたら、何
故これまでの間、自分の中にある歪に対する直感が働かなかったのか。
 直感が鈍っていた?
 いいや、まさか。ワタナベは歪に特化したシステムであり、それほどではないにせよ明らかにテン
プルを狙った大掛かりな歪には、絶対に気が付く。それがテンプルの派遣員の定めだった。
 歪は伝播する。
 伝播した歪は惹きつけ合う。
 テンプルの派遣員もまた、その摂理に従う存在なのだから、膨れ上がった歪には必ず気づく。

 ――元々が歪であった自分達が、気づかぬはずがない。

 では、何故、今回気づかなかったのか。
 まさか、このリーという男はこの時代の人間でありながら、時空と歪という概念に気が付いたのか。
 それとも。
 まさか。
 老師の額に、じわりと汗が噴き出した。
 マッドの、もう一つの杞憂。
 にやりと、リーが笑う。端正な顔の中で、口だけが醜く裂ける。

「やっと気が付いたのか?」

 マッドの、もう一つの懸念が、現実となる。

「貴様……!」

 あらゆる時代、あらゆる場所に存在し、そして歪を生み出すことを至上の喜悦とする輩。
 あらゆる歪に乗り込んで、時空を乱す者。
 歪の最たる存在。
 今回は、老師を別流派として適しているリーに、偶々乗り移ったのか。
 大笑する男は、一気に間合いを詰め、老師の腹を蹴り飛ばした。この時代の人間とは思えぬほどの
素早さと力。老師でなければ、死んでいたかもしれない。
 だが、死にはしなかったが、意識を時空の果てに引き戻すほどの力が込められていた。一瞬ではあ
ったが視界が歪み、確かにその瞬間、老師の意識は吹き飛びテンプルの中央管理局に接続する。すぐ
さま戻ってみたが、その時には弟子が、絶叫しながらリーに飛び掛ろうとしていた。
 弟子のその身体には、老師が持てる全ての能力を注ぎ込んだ。ならば、おそらく奴に乗っ取られて
いるとはいえ、人の身体の域を出てはいないリーには勝つことができるだろう。
 しかし、その後、すぐに弟子をテンプルへの加入の有無を問いただすことはできそうにない。

『老師、老師とこの時代の接続が、先程の攻撃で不安定になっています。おそらく、あと数刻でテン
プルに帰還せざるを得ないかと。』

 キャプテン・スクエアの機械音声が無機質に耳に響く。
 一度接続が途絶えると、復旧にしばらくかかるだろう。数刻でテンプルや時空犯罪者、そして歪に
ついて、弟子に教えるのは難しいだろう。

『老師、貴方は此処で弟子と【死に別れる】ことになります。死体については義体で代用します。』
「……義体を通じてこちらに意識だけを飛ばすことは?」
『現状、意識の接続にも復旧が必要なため、不可能です。』
「わかった。」
『弟子が戦いに気を取られている間に、貴方の身体と義体をすり替えます。速やかな帰還を。』
「了解……帰還する。」

 最後にちらと、弟子がリーに猛然と立ち向かう背中が見えた。