眼を覚ますと、強烈な日差しが瞼を射抜いた。赤々とした己の血潮を日に透かされ、その赤に狼狽
えながらも閉じていた眼をゆっくりと開く。
 薄らと開いた瞼の隙間から見えたのは、鮮烈なまでの白。はっきりとした熱を感じる日光に、眉根
を寄せた。
 不機嫌そのものの表情で、むくりと身を起こせば、ぱらぱらと身体から乾き切った砂が零れ落ちる。
 むっつりとした顔で辺りを見回すと、そこに広がっているのは不毛の大地、青みの強い空。
 アメリカ西部の荒野であった。
 サンダウンは、砂が風に舞う光景を何処ともなく見つめて、記憶を辿る。
 夢を見ていたのか。
 霞みがかった記憶の向こう側に広がるのは、眼の前の光景とは対照的な、深い森に囲まれた町だっ
た。ただし、荒野が不毛でありながらも力強い色味を帯びているのに対し、緑豊かであるはずの森は
ただただ灰色がかって生気がない。
 死者のような灰色は辺りに膜を張り、世界中を侵食しようとしていた。
 思わず手を見下ろす。
 夢の中では、小指の先から徐々にサンダウンを飲み込もうとしていた灰の虚無。しかし当然の事な
がら、手には一つの灰もなく、年相応、それ以上にかさついて武骨な手があるだけだった。
 夢だ。
 脳裏の片隅に漂う光景を思い出しながら、サンダウンは視界には荒野を映す。
 けれども、何処から。
 何処からが、夢だったのか。
 くすんだ色で満たされた世界と、その境界にあった部分は果たして夢だったのか。撃ち殺したはず
のマッド・ドッグが目の前に現れたあの光景も、白昼夢だったのか。
 問うたところで答えが返ってくるわけでもない。
 マッド・ドッグは自分が殺した。それは他でもない自分自身が一番良く知っているではないか。
 マッドが実は生きていて、あのくすんだ世界で灰に呑まれかけていた自分の目の前に、闇を伴って
現れたなど、夢以外のなんであろうか。そもそも、あの世界自体が、この世には存在しえない場所だ
ったではないか。誰かの夢物語にしか語られない、お伽噺の世界だ。
 マッドが、この世の枠から放たれた存在であるという事も、世界の枠外にそうした規律が作られて
いるという事も、世界にある歪みが世界を食い潰す存在であるという事も、夢のまた夢の中の話だ。
 まして、その世界にサンダウンも誘うなど。
 それとも、この世界に既に見切りをつけているサンダウンだからこそ、次に自分が求められている
場所を望んで、見た夢なのだろうか。
 もともとが、人を護る側に立つ人間だった。
 それが、サクセズ・タウンで再燃した。
 人を護る事の偉大さは十二分に思い出した。
 けれども、ただ、再びその場に立てるかと問われれば、無理だと答えるだろう。サンダウンが賞金
首に身を窶して長い時間が経つ。その名を返上したところで、賞金首として生きていた事が払拭され
るわけではなく、むしろ更なる混乱を呼び寄せるばかりだろう。
 影の世界で人を護る事も出来るだろうが、賞金首としての顔がそれなりに売れてしまった以上、や
はりそれも難しい。それに、それこそが賞金稼ぎの役割でもあるだろう。
 だから結局、サンダウンはどれだけ人を護りたくとも、己が選んだ道故にそれはできない状態に追
いやられてしまっているのだ。 
 人との繋がりを心の底で何処かで求めているから、自分を知っている世界とはまた違う世界に行く 
という都合の良い夢を見たのかもしれない。

「夢を見るような齢でもないだろうに。」
「やっぱり、あんたは覚えてるんだな。」

 サンタウンの自虐に満ちた声は、張りのある若い声に掻き消された。 

 ぎょっとして、しかしそれ以上に先に身体が動いて振り返ると、真っ黒な馬を引き連れたマッドが
腕を組んで葉巻をふかすという、夢の前の夢と、微塵も変わらぬ姿をして立っていた。

「まあ、テンプスになれるとしたら、あんたくらいなもんだとは思ってた。それにあんただと、別に
家族もなんもない根なし草だから、事後処理が楽だし。」

 ぷかあ、と口から煙を吐き出すマッドを、サンダウンは文字通り死人を見るような眼で見る。
 これも、夢か。
 青い眼を極限まで開いて凍り付くサンダウンに、マッドは、あ?と怪訝な顔をする。

「あんた何おもしろい顔して固まってんだ?」
「マッド………?」
「ああ?ははあ、あれだな。あんたは俺が生きてるのを夢かなんかだと思ってるんだな。あのライト
は、なんだかんだ言いつつ記憶がある人間の意識を失わせて元の時代に戻すからな。そりゃあ、まあ、
夢だと思われても仕方ねぇんだが。」

 生憎とこの俺様は生きてるし、本物だぜ。
 マッドはずかずかとサンダウンの目の前まで歩み寄り、サンダウンの顔に葉巻の煙を吐きかける。
 噎せ返るほどの甘ったるい独特の香りに、サンダウンはようやく見開いていた眼を細め、眉を顰め
た。その表情に、マッドはくくっと笑う。
「まあ、夢だと思ってるんなら夢だと思ってりゃあいい。永遠に醒めやしねぇがな。あんたがどう思
おうが、あんたに出来る選択肢は二つだけだぜ。」

 マッドの提示する選択肢を、サンダウンは既に知っている。 

「全てを捨てて俺と一緒に来るか。俺の事を忘れてこの世界に留まるか。」

 マッドの眼は夜空のように煌めいて、ただただ黒い。夢とは思えぬほど、別人ではあるはずもない。
その顔を無言で見つめ、やがて、マッドの問いかけに、サンダウンは問いかけて答えた。
 夢の間――マッドがこの世から離れた存在になったという事を知った時から、そうなるには全てを
捨てるしかないと聞いた時から、持っていた疑問だった。

「お前は、その選択に迷いはなかったのか?」

 全てを捨てる事に、なんら戸惑いは。

「なかったな。」

 答えにも、なんら迷いはなかった。

「何故、」
「俺が、そうしたかったからさ。」

 こつ、とマッドが葉巻を軽く叩き、灰を落とす。じり、と赤い火種が燻ぶる。

「ODIOの息の根を止める事が出来る。だから、俺はこうなったのさ。」

 それはまるで、マッドが賞金稼ぎを演じていた時に、サンダウンを遮二無二追いかけていた時のよ
うな、いや、それ以上にぎらつく眼差しをしていた。
 奴は、お前の、なんだ。
 以前も、同じような事を問うた気がする。その時はサンダウンには、マッドの語る言葉の羅列は理
解できなかったが、今ならば、理解できる。だからこそ、問える事が出来た。

「奴は、お前の、何なんだ。」
「俺を破壊しに来たテンプスさ。」

 答えは予想外だった。

「何年前だったかね。俺は歪と判定され、テンプスに破壊される事になった。だが、まあ、勿論そう
簡単にやられてやるつもりはなくて、散々抵抗してやったら『牢獄』に隔離されちまった。その時に
俺を『牢獄』に閉じ込めて、一緒に閉じ込められたテンプスが、ODIOだ。」

 しかし『牢獄』に閉じ込められ、延々歪に曝され続けたODIOはかつて歪を呑み込んだであろう
にも拘わらず、あっさりと歪に舞い戻った。マッドを破壊できず、『牢獄』に閉じ込められ続けた事
についての恨み辛みが溜まりに溜まった結果だったのだろう。
 歪化したODIOは『牢獄』を打ち破り、歪として世界を荒らす存在になった。
 そしてマッドは。

「『蔓延している歪ごと、『牢獄』を呑んでやった。その時の『牢獄』は、外から見たら剣の形をし
て煌めいていたらしい。だから、『牢獄』の外の連中からは、ブライオンと呼ばれていた。俺は、そ
の剣を飲み下したのさ。だから、俺は『牢獄』でもある。」

 マッドの腹の底では、閉じ込められた歪が呻いているのだ。

「そんなわけで俺は歪からテンプスに昇格。で、任務をこなしながらODIOを殺す瞬間を待ってる
ってわけだ。」

 サンダウンは、自分の腹の中に底知れない闇が蠢いていると思っていた。だが、眼の前の賞金稼ぎ
のほうが、遥かに黒々とした闇を抱え込んでいる。いつ、暴発するとも分からない闇。

「何故、歪になった?」
「分からん。言っとくけど時空犯罪者じゃねぇぜ俺は。俺はただ、戦争の真っ只中に産まれただけだ。
だから、たぶん。」

 マッドの手が背後に立っていた黒い馬にかかる。見覚えがあるその馬は、もしやO.ディオだった
ものか。

「こいつと、同じ存在なんだろう。」

 知らず知らずのうちに憎しみを背負わされ、変容した存在。
 ただ、O.ディオとマッドの違いは、O.ディオが斃されなければ元には戻らなかったのに対し、
マッドは危険ながらも歪を飲み下して見せた。
 いつ、どうなるかも分からないが。

「だから、俺は新しいテンプスも探してるのさ。」

 何かあったその時に。

「俺を、砕ける存在を。」

 悲嘆のない声で、マッドはサンダウンにそれを請うた。