マッドの言葉に、その場にいる全員はぽかんとした表情を浮かべた。何を言っているのか分からな
い、という表情だ。間抜けな顔が並び立つのを、喉の奥で笑いながら、マッドはもう一度言った。

「俺達と同じ、テンプスに入って歪を斃す存在になれば、記憶を失う必要はないって言ってるんだ。」

 何も難しい事を言っているわけではない。
 そもそも、マッド達はそのつもりで動いてきた。新しいメンバーを加入させる時を見計らっていた。

「テンプスってのは慢性的な人手不足でな。」

 無法松が何度目かの溜め息を吐く。

「少人数であらゆる時代あらゆる場所の歪に対処してる。激務中の激務だ。何年もかかる事もあるし
な。」

 お前らの時代のように、と呟く無法松に、アキラが何とも言えない顔を作った。自分と共にいた時
間が、相手にとってはただの仕事でしかなかったというのだ。作り上げる表情も困るだろう。

「そんなわけで、俺達は新しいメンバーをずっと探してるわけだ。なんせ誰でも良いってわけじゃね
ぇ。一度歪になって、そこから元に戻った奴じゃねぇといけねぇんだ。」
「それが、俺達だってのかよ。」

 少年の声に、無法松はしばらくその顔を見ていたが、ゆっくりと首を横に振る。

「いや、いや。正直なところ俺はお前をテンプスに入れるつもりは微塵もなかった。お前が歪を飲み
込めるとは思っちゃいなかったからな。俺は、テンプスに入るなら能力的にもお前の妹のほうだと思
ってた。」

 アキラが息を呑む音が聞こえた。それは、自分が眼を掛けられていなかった事に対する衝撃からな
のか、それとも自分の妹が巻き込まれようとしていたからなのか、判断はつかない。無法松もまた、
その判断を着けようとはしなかった。

「カオリは正直なところ、お前よりもずっと超能力の腕は上だ。お前は全然気づいちゃいねぇだろう
が、ありゃあいつか俺よりも強い超能力者になるだろうよ。」
「松よりも……どういう事だよ。」
「俺が超能力者だって話だ。だが、そんな事はどうでも良いだろうが。今はお前がテンプスに入るか
どうかって話だ。俺の希望とは裏腹に、お前が歪を飲み込んだんだから。」

 歪に触れた者は皆、歪になる可能性が多かれ少なかれあり、そしてその中の誰かが、もしかしたら
歪を飲み込んでみせるかもしれない。そういう人物を、探している。

「サモ、お主だけは違うんじゃよ。」

 老師が、眼を伏せて呟いた。太った若者の愛嬌のある顔の中に、戸惑いが浮かぶ。己の名前を唐突
に出され、狼狽えたのだろう。

「お主と、レイとユン。お前達だけは、テンプスに入れようと、儂が修業し、育て上げたのじゃよ。」

 いずれは歪と対峙させ、歪を超え得る存在になり得るか見極めるつもりだった。尤も、その前に、
三人のうち二人が、歪によって殺されてしまったけれども。

「それで、お前達はどうするんだ?」

 マッドは口を閉ざした、候補生達に問う。

「……待て。」

 低い声がマッドの問いを遮った。
 サンダウンだ。
 マッドは片眉を上げ、誰よりも歪になり得た男の顔を見上げる。

「歪を斃す存在になる、というのは、歪とやらと戦って命を落とす危険がある、という話だけではな
いだろう。でなければ、勧誘にそれほどまでに慎重になるわけがない。」

 もっと何か別の、勧誘を躊躇わざるを得ない理由があるのではないか。
 サンダウンの言葉に、マッドは口元に薄く笑みを刷いた。一切の感情が読めぬアルカイック・スマ
イルは、マッドがこれから残酷な言動を振り下ろす際に、よくよく使用する。
 ああ、とマッドは頷いた。

「言っただろ。テンプスには色々と規律が多いって。だから、テンプスになるにも、それなりの制約
があるんだ。大前提はさっき無法松が言ったように、一度は歪に呑まれていないといけない事。もう
一つは……。」

 黒い双眸で、一人一人の顔を眺める。

「お前達それぞれの時代にいるありとあらゆる存在と、お前達は未来永劫別れを告げる必要がある。」

 ひゅっと沈黙の音が、誰かの喉の奥から零れた。

「親兄弟親友恋人それだけじゃない。その時代にいる全ての存在から、お前達は別れを告げなくては
ならない。別れ方はそれこそ様々だ。手っ取り早いのは、俺達がお前達の前から姿を消した時のよう
に、死んだ事にしておくことだ。その先、当然お前達は、彼らに会ったとしても自分である事を知ら
しめてはならない。」
「ばっ……。」

 ばっかじゃねぇの。
 アキラが声を荒げた。こちらを睨み付ける視線には、マッドの言葉などあってはならないという怒
りが込められている。

「そんなわけのわからねぇ天秤に、俺の過去を乗せろってのか。冗談じゃねぇや!」
「だから、てめぇらの時代に未練があるんなら、テンプスに入らなけりゃあいい。」

 だから、テンプスのメンバーは増えないのだ。
 余程の思いがなければ、行く宛がそこしかなければ、テンプスに入ろうなどと、普通の人間は思わ
ない。どれだけ時空が歪もうとも、それが自分達の世界からは遠ざかったのだと分かるや、いつか訪
れる再度の破綻よりも、己の培ってきたこれまでを誰もが選ぶ。
 マッドが、手の中にある小さなライトを翳した。

「それでも俺は敢えて問うぜ。俺達と共に来るか、それとも自分達の時代にあるやり残した事にしが
みつくか。てめぇらの心を引き摺る何かが、何処にあるのか良く考えるんだな。」

 俺達の場合、自分達の時代には心惹くものがなかったのだ、と。
 そう告げたマッドに、彼らは眼を剥いた。
 何を驚く事があるのか。自分達の時代に未練がないからこそ、こうしてマッド達は時空と時空の間
を渡っているのだ。あらゆる時空に存在し、干渉することを許される代わりに、如何なる時代にもそ
の痕跡を残せない。
 それでも良い、と思えるほどに、世界には未練がなかったのだ。

「まあ、お前の親父や藤兵衛みたいに別の世界に未練が出来て、結局処分されるって事もあるんだが。」

 近しい者の事を口に出され、アキラの表情がますます凍り付く。無法松が、おい、とマッドを諌め
たが、それを掻き消す勢いで割り込む。

「おい!どういう事だよ!俺の親父や藤兵衛があんたらと同じだったってのか?それで処分されただ
って?」
「お前にこれ以上を話す義理はねぇよ。俺達内々の問題だからな。」
「卑怯だぞ!知りたきゃてめぇらの仲間になれって事かよ!」

 思わせぶりに話しを打ち切ったマッドに、アキラは頬を紅潮させて食って掛かる。
 少年の言い分に、マッドは小さく溜め息を吐くと、低い声を出す。

「己惚れんじゃねぇぞ、アキラ。俺は別にてめぇに加入して欲しいだなんて思っちゃいねぇ。さっき
無法松が言ったように、てめぇの妹のほうが能力的には欲しいところなんだ。てめぇみたいな事があ
ればすぐに歪の力を使おうとするガキには、正直テンプスとしてやっていく事は難しいだろうよ。」

 一度歪化したものは、何度でも歪となる事が出来る。そうやって、隔絶したルクレチアに捻じ込ん
だマッドのように。
 だが、それを当然の力として行使することは危険なのだ。ODIOに挑発されただけで、無自覚に
歪を使う事は、猶更。
 それを律する為の研修期間もまああるにはあるのだが、それは今は関係のない話だ。本当にテンプ
スとして生きようと考える存在だけが知っていれば良い。それに、今、いくら歪の力を行使する事が
危険であると告げたところで説得力はないだろう。
 マッドの掲げるライトには明かりは灯っていない。しかし、マッドの細い指先は、そのスイッチに
手がかかっている。

「このライトが何か分かるか?お前達の記憶を改竄する為の光を出すんだ。お前達には、この世界の
事も、この世界で起こった事も、この世界に来た事も、全部忘れてもらう。お前達が覚えているのは、
この世界に来る前の事だけ。お前達が俺達について覚えているのは、俺達の死についてだけだ。」

 自分達の生存は、一欠けたりとも記憶には残らない。残るのは命が奪われたという騙りだけだ。悲
惨だけしか、残さない。
 サモが、そんな、と老師を見つめる。老師は首を横に振る。

「それともう一つ、このライトには特殊な能力があってな。能力、というか欠陥とも言えるんだが。
心底から俺達と共に来る者の記憶は消せねぇんだ。だからもし、このライトの光を浴びて、お前達が
其々の世界に戻って、それでも記憶が残っているのなら。」

 その時は、迎えに行ってやる。
 言い残して、マッドは誰の答えも待たずに、ライトのスイッチを押した。
 信じられないほどの閃光。
 灰から元に戻ったルクレチアが、今度は真っ白に漂白される。あらゆる色を根こそぎ奪った光は、
けれども一瞬のうちに治まり、その時にはこの世界に呼び出されていた連中は消え失せている。
 影一つない事を確認し、無法松がやれやれ、と肩を竦めた。

「誰か一人でも、加入してくれたらいいんだがな。」
「あの様子では難しそうじゃな。」

 めっきり老け込んだ様子で、老師が答える。

「皆が皆、自分の世界でまだやるべき事があるという眼をしていた。なかなか難しいじゃろうて。」

 自分の過去と、よく分かりもしない世界の危機とを秤に掛けたところで、大抵の場合が自分の世界
を守る方向に向かう。時空なんていう小説やアニメの中くらいでしか出てこない言葉に、自分の全て
を懸ける人間はそうそういないだろう。

「それよりもマッド。お主にも処分が下されるぞ。」

 いくらOIDO撃退の為とはいえ、完全に歪に戻ったのだ。マッドが歪になるのは危険だと言った
ところで、今は説得力がないと考えたのは、マッドが彼らの目の前で歪化した為だ。
 本来ならば、それは、処分されるべき事象なのだ。

「しばらくは歪化は勿論、世界にも干渉できないだろう。実質、任務は出来なくなる。」
「この人手不足の時によぉ。」

 無法松のげっそりした声に、マッドはそうだな、と頷く。

「ストレイボウもいなくなっちまったしな。」

 ぐ、と二人が言葉に詰まった。二人とも、ストレイボウが死を迎えた事は知っている。マッドが遺
体を、時空を捻じ曲げて無理やりに管理室に送り込んできたのだ。
 彼の遺体は、当然の事ながらODIOに操られた存在として、抹消される。皮膚の一欠、血の一滴
さえも残らない。
 ストレイボウは、故郷であるルクレチアに――それが良き故郷ではなかったとしても――骨を埋め
る事も出来ないのだ。
 そしてそれは、ある意味、テンプスである彼ら全員にも言える事だ。時空に干渉出来る存在になっ
た以上、彼らには骨を埋める場所はおろか、還る場所もない。

「実は少しだけ安心してんだ、俺は。」

 無法松が呟いた。

「アキラの奴もカオリの奴も、テンプスには入らねぇだろうからな。」

 ストレイボウのような末路を、彼らは決して歩む事はないのだ。それは、あらゆる意味で幸いな事
だった。
 テンプスになって別れを告げれば、あとは忘れ去られるだけだ。生きた痕跡として、墓はあるかも
しれないが、そこには何一つとして祀られておらず、ただただ空虚な祈りばかりが漂っている。その
祈りに声を掛ける事は許されない。

「どうだかな。」

 無法松の安堵に対し、マッドは小さく呟く。
 マッドは知っている。ODIOに身体を奪われ死したストレイボウの魂が、確かにルクレチアを彷
徨い、そして先に川を越えた事を。
 あれを魂と名付けるのは間違っているかもしれない。あれはODIOが自分の意識をネットに漂わ
せて、ありとあらゆる場所に介入しているのと同じものだ。
 ただ、ODIOとは異なるのが、ODIOが未だ何処かで生きており、ネット上のODIOの断片
も生きているのに対し、ストレイボウのそれは残された彼の断片が、彼の行動を模倣しているにすぎ
ない、ということだ。
 ルクレチアの、あの亡者の群れは、そういう断片化した人々の記憶だったのだ。
 そして、ストレイボウの断片は、今やネット上には何処にもない。
 それを、魂が浄化されたと比喩表現すべきかどうか。ただそれでも一つ言えるのは、ストレイボウ
の断片は、ルクレチアという国でデータ再生されている間に、消え失せたのだ。彼は、少なくとも、
その痕跡を故郷に持ち帰る事が出来た。

『マッド・ドッグ。』

 雑音のない、クリアなキャプテン・スクエアの声が耳に届く。

『貴方に召喚命令があります。至急、帰還を。』

 おそらく、叱責と処分だろう。だが左程重い処分にはなるまい。今回は、これ以外に手がなかった
事は、誰もが知っている。
 キャプテン・スクエアの声に頷いたマッドは、ふと振り返る。そこに広がるのは、澄み渡った空の
下と、深い森だ。鳥と獣の遠慮がちな声が戻る中、人の声は決して戻らない。
 穏やかな風が、一つ吹いた。
 それに向けて、マッドは微かな笑みを湛えた声で別れを告げる。

「じゃあな、ストレイボウ。」

 マッドは黒い裾を翻した、かと思うや、その姿は宙に掻き消えた。