マッドが、ブライオンを地面から引き抜いた時、世界は完全に澄み渡っていた。
 視界を覆っていた灰は一欠けらたりとも見当たらず、くすみもない晴れ渡った空が頭上を覆ってい
た。岩肌の上に落ちているのは、月の光を浴びて長く神秘的に伸びた石ころの影だけだ。
 マッドは一つ、剣を露払いすると、カシャンと澄み切った音を立てて腰にあった、刃の色と同じく
らい黒い鞘にそれを治めた。
 と、同時に、彼の姿は荒野の賞金稼ぎだった頃のものと同じに戻る。
 黒のジャケットの裾を翻して、後ろを振り返れば、そこにはルクレチアに呼び出された、各時代の
面々が立っていた。それぞれがここ数日の間に、テンプスと知らず知らずのうちに関わり合い、歪と
戦い、そしてODIOに眼を付けられ――最後にマッドが唾を付けた連中だ。
 悉くが歪に飲まれ、しかし歪にはならずに、自我を確立している。
 まあ、最後の最後でODIOに足元をすくわれかけたが、それもマッドにしてみれば予想通りの結
果だ。
 強いて、後悔を告げるとすれば、ODIOの最後の一欠けらを喰らい損ねた事と、ストレイボウの
事くらいだろうか。
 そんな事を瞬時のうちに思ったマッドの耳に、しばらくぶりに――実際は数時間とて経っていない
のだろうが――聞く、同じくテンプスの派遣員の声が響く。

『マッド、聞こえるか?』

 ざきだ。遺失物を探す事に長けた彼は、ODIOから弾き出されたこの世界を、どうにかして繋ご
うと今の今までモニタの前を陣取っていたのかもしれない。

「ああ、聞こえるぜ。」

 微かな笑みを孕んで答えてやると、イヤホンんの向こう側から安堵にも似た気配が流れ込んできた。

『無事のようだな。ODIOはどうなった?お前がそうやっているところを見ると、消滅したか、尻
尾を巻いて逃げ出したか、どちらかだと思うが。』
「後者のほうだな。ルクレチアの歪は幸いにして全部消え去った。ここを隔離する必要はない。」
『そうか……。』
「だが、まだ、後始末が残ってるんだが。」

 マッドは、こちらを奇妙なものでも見るかのような眼で見ている、この世界に呼び出された英雄達
――正確にはテンプスの候補生達に小さな苦笑を浮かべる。
 そう。ODIOが立ち去って歪を間近で見た彼らを、このまま何もせぬままに彼らの時代に帰して
やる事はできない。記憶を消してからではないと、元の時代には戻せないのだ。
 或いは。
 くるりと一人一人の顔を見まわすマッドの耳に、ざきの声が届く。

『そうだな……。お前一人に説明を任すのもあれだ。無法松と老師をそちらに送る。』
「そうしてくれ。」
『何人、こちらに残ると思う?』
「さあな。期待はするな。」

 喉の奥でそう呟いたマッドに、おい、とアキラが声を荒げた。
 ODIOの策略で、たった今、歪になりかけたばかりの少年が、眼をぎらつかせて肩を怒らせて、
こちらを威嚇している。その眼は、こちらの心を読むつもりだろうか。そんな事しても、無意味なの
に。

「あんた、何者だ?」

 斜に構えたアキラに、マッドは薄く笑った。

「俺か。俺は時空犯罪者を取り締まる者。テンプスの派遣員だ。」

 そして、今すぐには理解できないであろう言葉の羅列を紡ぐ。今現在、テンプスにいる者全員が、
一番最初はこの言葉の意味が理解できなかった。
 案の定、アキラは眉を顰め、他の者達も怪訝な顔をしている。ちらりとサンダウンに眼を向ければ
こちらも、常よりも難しそうな顔をしていた。

「なあ、あんた、俺を馬鹿にしてんのか?分かる言葉で話せって言ってんだよ。」
「一応、分かるようには説明してるつもりだぜ。ただ、分からなくたっててめぇは人の心が読めるん
だから、それでどうにかすりゃあ良いんじゃねぇのか。なあ、アキラ?」

 途端、アキラの顔が引き攣った。自分の名前を言い当てられた上に、超能力についてまで言及され
たのだ。身構える少年の強張った顔を、マッドは鼻先で嗤う。すると、それを咎めるように脇から口
を挟む者がいた。
 たった今まで、誰もいなかった後隣から聞こえた声に、マッドは顔色一つ変えない。

「マッド、あまり人をからかうものじゃない。」

 伸びた影としわがれた声は、マッドよりも細く枯れ木のような老人のものだ。ただし覇気と張りの
ある存在感が、ひしひしと伝わってくる。振り返らずとも分かる存在感に、驚いたのはマッドではな
く、アキラのすぐ傍にいた太った若者――サモだった。
 肩を怒らせているアキラをいつも宥めていたサモは、老人を見て脂肪が弛んだ顎を、落としそうな
くらいに呆然としている。

「お、お師匠様?!な、なんで……!」

 分厚い瞼から眼を零すのかと思うほどに大きくそれを見開いた弟子に、老師は小さく溜め息を吐く。
 その隣で、同じように溜め息交じりに姿を現したのは、筋骨隆々とした男だった。

「やれやれ……。アキラ、おめぇはそうも喧嘩っ早いのがいけねぇ。」

 首を横に振る無法松に、マッドは、てめぇも人の事は言えねぇぜ、と呟く。
 マッドの心の呟きを他所に、今度愕然としたのは身構えていたアキラだ。こちらも顎を地面につけ
る勢いで、がたがたと振るえる指を無法松に向けている。

「ま、松?どういう事だ?!」
「さて、それを説明しに俺は来たわけなんだが。」

 驚愕に満ちたアキラに、無法松は落ち着いた大人を演じて応える。一方のアキラは、幻でもねぇし
幽霊でもねぇどういうこった、と頭を抱えている。残りの者達は、アキラとサモの様子に、戸惑いつ
つ、此方を見て身構えている。
 いや。
 マッドは、サンダウンに視線を落とす。
 サンダウンだけは、身構えもせずに此方を見ていた。ただ、青い視線が微かに険を帯びている。マ
ッドを敵だと認識しているのではなく――怒っているのだ。
 賞金首に様子に、マッドは喉の奥で笑い、しかしこれ以上彼らの様子を面白がっている暇もないと、
切り替える――世界には、未だ歪が蔓延っているのだ。

「さて、感動の再会も、もう良いだろう。俺達は間違いなくお前らの記憶の中にある『誰か』であっ
て、そこに一部の狂いもない。死んだはず?ああ、その通り。俺達は、そうやってお前達の記憶の中
にある、俺達の存在を誤魔化してきた。」
「マッド、そんな分かりにくい言い方では、分かるまい。」

 老師が額に手を当てて溜め息をもう一度吐くと、時空の中に置き去りにした彼の弟子とその仲間を
睥睨する。

「といっても、マッドの言った事には確かに一部の狂いもない。我々の事を知っている人物は、この
中にいるだろうが、我々は死に別れた。だが、見ての通り、実際には死んだわけではない。」
「な、なんで?」

 未だ動揺抑えきれぬサモが、どもりながら師に問う。そして、淡い期待を。

「お、お師匠様が生きているって事は、ユンやレイも生きているっちか?」
「残念ながら違う。」

 微かに眼を伏せ、老師は答えた。

「お前達の前で死に別れたように見せかけたのは、我々テンプスのみ。ユンとレイは、テンプスでは
なかった。」
「だから、そのテンプスってのが分からねぇよ。あと、なんで死に別れたように見せかけるなんて、
まどろっこしいことしたんだ。」

 睨み上げるアキラを、無法松がいい加減にしろ、と小突く。

「それを今から説明してやるって言ってんだ。お前はちょっと黙ってろ。」
「うるせぇよ!死に別れるだって?俺達が、あんたが死んだ時、どんな思いだったのか分かるっての
か?!」

 言い返されて虚を突かれたような表情の無法松に、マッドは小さく笑みを刷いた。その笑みに気づ
いた無法松は、苦々しくあらぬ方向に視線を向ける。

「死に別れたように見せかけたのは、それが俺達テンプスの規則だからだ。てめぇらの中には――ア
キラ、てめぇは色んな媒体から色んな架空の物語を見たことがあるだろう。その中に時空を題材にし
たものだってあったはずだ。時空を超えて時代を行き来し、それ故に発生する犯罪と、それを取り締
まる連中。俺達は、そういう、時空犯罪者を捉え、混乱した時空を正す存在に近しい。」

 有り得ないとか言うなよ、とマッドは開きかけたアキラの口を遮る。

「有り得ないのなら、今この瞬間、お前達がこの場に呼び寄せられたこと自体が有り得ねぇんだから。」

 黙り込んだアキラに一瞥をくれ、更にもっと分かっていなさそうな残りの連中に、噛み砕いた言葉
を送る。どれだけ噛み砕いても、分からないだろうけれども。

「簡単に言えば、俺達はお前達と同じで別の場所、別の時代――過去、現在、未来からやって来た。
ただしお前達と違って自分の意志で様々な場所、時代に行くことが出来る。この国を滅ぼしたオルス
テッド――ODIOのような連中――俺達は奴らを歪と呼んでいるだが、そいつらを斃す為にな。」

 だが、その為の制約は無数にある。
 その時代の人々の記憶に残ってはならない。残ったとしてもそれはテンプスであるという痕跡が、
記録されないものでなくてはならない。そしてその場合、去り際はごく自然な分かれ―― 一番良い
のは、死に別れである事が、望ましい。

「俺達も、ある意味ODIOと同じ、時代から逸脱した存在だからな。やむを得ず、俺達がテンプス
であると――その時代にはそぐわぬ存在であると、周囲から判断された場合は、そいつらの記憶を消
す。今回の事案は、それに当たる。」

 その瞬間、全員がぎょっとしたようだった。

「俺達の記憶を消すだって?!」
「ああ。」

 アキラの喧嘩腰の問いかけに、マッドは頷く。アキラが無法松を見れば、無法松も無言で頷く。サ
モが見やっている老師も同じだ。

「今回のルクレチアの事案は、記憶されてはならない事案だ。そもそもルクレチアは下手をすれば全
ての時空からも隔離されなくてはならないくらい、歪の親交が酷かった。まあ、それは何とかなりは
したが、それでも一夜で国が滅んだんだ。周囲の国への記憶改竄は必要だろうし、ましてこの時代に
呼び出されたお前達の記憶は、猶更だ。」

 これは、お前達が記憶している必要のない出来事だ。
 尤も、とマッドは人差し指を伸ばす。

「記憶を消さずに済む方法も、あるにはあるんだが。」

 そしてそれこそが、マッド達の――テンプスの目的でもある。
 今までいつか問わなくてはならないと思っていた問いかけを、今、此処で成す。

「てめぇらが、俺達と同じ、歪を斃す存在になればいい。」