既に地面には如何なる闇も落ちていない。砕け散った黒刃から沸き上がっていた闇も、ない。それ
どころか刃の欠片一つ存在していない。
 代わりにあるのは、ただ、黒々とした闇色の背中だけだ。短く刈った黒髪は、冷たい岩肌剥き出し
の異形の巣窟であっても、一本多利とも微動だにしない。にも拘らず陽炎のように揺らめいて見える
のは、その背中化から圧倒的な気配が迸っているからだろうか。
 サンダウンからは、マッドの顔は見えない。
 しかし、その気配だけで、マッドが凄惨な笑みを湛えて獲物を睨み付けている事は、容易に想像で
きた。
 そして、マッドが心の底から不愉快である事も。
 王女の額を撃ち抜いたマッドの手は、そのまま伸びて王女の顔を鷲掴みにする。王女の顔を掴んだ
マッドの手は、銃を扱うとは思えないほど繊細で指は長く、しかしその見た目と相反して指からは、
じわりじわりと黒い何かが立ち昇っている。目を凝らせば、その黒の中に、無数の口が生えて獲物を
喰らい尽くそうとしているのが見えた。

「マッド、貴様………!」

 絞り出された王女の声は――顔はマッドの手にに隠されてほとんど見えないが――はっきりと何よ
りも驚愕を物語っていた。しかしそれよりも気になったのは、王女の声が、女とは思えぬほどにしわ
がれ、低く低く堕ちていることだ。
 それは、オルステッドという魔王が、ある瞬間瞬間に朴訥さが消えて、得体の知れぬ何かに切り替
わった時と同じ気配を醸し出している。
 ODIO、とマッドが呼んだ。王女の名前が――いや、王女の中にいる、そして魔王の中にいた、
誰かの名前が、それであるのか。そしてそれは、あの薄暗い亡者の集う通路で出会った、鈍色の髪の
若者が呟いた言葉でもある。
 あの若者も、王女を見て、ODIOと言っていた。

「てめぇの言った事は合ってる。エリアルは歪を断ち切る刃。この世界から歪を切り取り、引き裂く。
そしてブライオンは、歪を押え込み、封じる刃だ。そしてお前の予想通り、ブライオンはそれだけじ
ゃない。」

 飲み込んでいた闇を、吐き出したあの光景。

「ブライオンは、押え込み封じ込み、そして喰らい続けた歪をそのまま力として行使する事が出来る。
それにより、相対する歪を――歪だけではなく、その場にある全てを食い散らかす。」

 光も闇も、関係ない。ただひたすらの深淵が、そこにはある。それはある意味、オルステッドが求
めた公正な世界と、図らずも一致しているが。
 けれども、それだけでは、ないらしい。
 それだけならば、マッドが今此処にいる理由が、分からないのだ。
 ストレイボウの亡霊が語ったところを信じるならば、マッドはODIOから一撃を喰らっているは
ずだ。だから、自由に動けなかった。サンダウンにわざわざ請いに来た。
 では、此処にいるマッドは何なのか。
 マッドは一度、サンダウンが自分の手で撃ち殺した。けれども再び現れて、そしてサンダウンに請
いに来た。そして三度現れたこのマッドは、何なのだろうか。そもそもマッドが何者であるのか、サ
ンダウンは何一つとして知らない。
 あの荒野にいた、サンダウンが撃ち殺す前のマッド・ドッグの事でさえ、サンダウンは賞金稼ぎで
ある事以上の事を知らないのだ。

「ブライオン。勇者の剣、或いは歪を喰らい尽くす剣。それが、一体いつ何処で生み出されたのか、
お前は疑問に思わなかったのか?」

 それとも、とマッドの王女の――いや、ODIOの顔を鷲掴む手に力が入る。立ち昇るマッドの黒
の隙間から、ODIOの顔がマッドの気配に負けて蒸発しつつあるのか、奇妙な匂いが漂ってきた。
 しゅうしゅうというODIOの顔が立てる音の合間合間に、マッドが囁いた。

「敢えて、ブライオンからは遠ざかっていたのか?なあ?何せ、あれは『牢獄』だからなあ?」

 俺と、お前が、閉じ込められていた。
 マッドが言うや否や、マッドの、ODIOを掴んでいないほうの手から何かが滴り落ちる。真っ黒
な、覗きこめばそこに吸い込まれてしまいそうなほど、果てしなく混沌とした雫が、ぽたりぽたりと
地面に落ちているのだ。
 それは地面に吸い込まれる事無く、鍾乳石のように――鍾乳石よりも遥かに速い速度で、ただただ
漆黒に、そこに積み重なっていく。
 やがて現れたのは、一振りの刃だった。
 ブライオンと呼ばれていた、砕けたと思われたはずの、それ。砕けて闇を生み出し、そしてそこか
らマッドを生み出した剣。

「俺とお前が閉じ込められ、お前が逃げ出した場所だな。お前が眼を背けたくなるのも分かるがな。
それともまさか、本当に気付かなかったとでも言うつもりか?それだけ、浮かれていたと?てめぇの
事だ。案外そうかもしれねぇなあ。でなけりゃ、他の牢獄を開くなんていう、ブライオンの餌になる
ような事はしねぇだろうからな。」
「マッド、貴様……!」
「なんだ?さっきからてめぇ、それ以外の台詞言わねぇなあ。てめぇだって、俺があの程度でやられ
ただなんて思ってないだろうに。俺が何か仕込んでる事くらい予想してただろ?大体、俺がどうやっ
て『牢獄』から出てきたか、考えた事はなかったのか?三年前、てめぇの前に現れた時に?」

 語るマッドの言葉は、やはり難解だ。サンダウンとは別次元の場所で立っている。ただ分かるのは、
マッドが昔、何処かに囚われていたという事だけ。そこから逃げ出したのか、それとも釈放されたの
か、それとも。

「食い潰したか……!」
「気づくのが遅ぇ!」

 マッドの手に握られたブライオンが、眼にも止まらぬ速さで閃いた。ぎらつく黒光りが、今更なが
ら、マッドがいつも腰に帯びていたバントラインと同じ色合いである事に気が付く。
 硬質で厳めしい、そして艶めかしい濡れ羽色の一閃。
 既に崩れつつあった王女の顔が真っ二つに割れる、と同時に漆黒の刃の表面に瞬く間に吸い込まれ
た。喰われたのだ。
 が、その瞬く弾指、奇妙な気配が割れた王女の頭から滑り出て、海蛇が泳ぐ姿さながらに何処かへ
と逃げ出す。
 白く靄のような、まるで亡霊としか言えない姿。それがODIOであるとサンダウンは本能的に理
解した。おぞましい、しかし確かに自分の中にもある、感情の一部。全ての人々の醜く凝った部分が、
更に寄り集まった存在。
 それは、確かに人間の気配だった。
 その気配を、やはり生々しい気配を帯びたマッドが追撃する。漆黒の刃はマッドの影からも生え、
無数に鋭くODIOに追い縋る。
 マッドが剣を手にしたまま跳躍する。
 見上げたその姿は、いつの間にかブライオンの刀身に映しだされていた時と同じ、擦り切れたロー
ブを身に纏っている。翻ったローブの内側は、信じられない程澄み切った、夜空と同じ闇だった。
 追撃から逃れるODIOという名の亡霊は、激しく追い立てる針山のようなマッドの牙を、ODI
Oはその隙間を掻い潜って、するすると逃げていく。
 そのまま巨像の内部まで入り込んだその瞬間、針山を掻い潜ったその直後。ちょうどその真上に跳
躍していたマッドが、音もなくODIOに覆いかぶさるようにして飛び降りてきた。剣の向きは、当
然の事ながら、真下。
 塗れ羽は、蛇と化したODIOの首元を、無音のまま貫いた。
 貫かれた蛇は、微かに痙攣した後、硬直し、悲鳴も上げない。
 硬直した蛇の背後から、無数のブライオンの一部である針が追いつき、悉く食い千切る。ODIO
の破片全てを飲み込まんとして。
 が。
 剣に貫かれた首から上。蛇の頭部が、それだけで動いたのだ。
 逃げるのではない。
 向かったのは、マッドの首。最期、一矢報いようとしてだろうか。しかしそれは、黒刃によってす
ぐさま叩き落され、頭蓋を砕かれ、呆気なく丸呑みされる。
 しかし、マッドが吐き出したのは舌打ちだった。
 ち、という音が追いかける方向を見れば、蛇の毒牙一本が、床に転がり、そのまま地面に浸み込む
ように消える残像があった。 

「野郎……また逃げやがったか。」

 呟いたマッドの横顔には、しかし言葉とは裏腹に、左程の苦々しさはない。むしろ、微かに笑みを
刷いている。

「まあ、あれだけ削ってやったからな。……次は、仕留められるだろう。」