脳漿と血をぶちまけながら転がったオルステッドの背後には、改めて見ればストレイボウの影など
何処にもない。代わりにあったのは、サンダウンの影が黒々と山頂に伸びているだけだった。オルス
テッドは、サンダウンの影を、己の親友と見間違えたのか。
 そんなことがあるのか。
 サンダウンは、微かな疑念が沸き起こる。そもそも、これほどまで明瞭に、影が地面に映る事など
この国に来てから、あっただろうか。
 そう。サンダウンがオルステッドを撃ち抜くその瞬間、灰は晴れており、サンダウンの背には白々
とした月が照っており、だからサンダウンの影は伸びる事が出来た。灰を吸い込んだのはブライオン
だろうが、月が背後にあったのは、偶々だ。
 偶然に生み出された影に、虚を突かれ、オルステッドは撃ち抜かれたのだ。
 鬱金色の青年は、肉色の翼を別の生き物のようにはためかせて、どう、と硬い岩肌に倒れ込み、人
間とは思えぬ痙攣した動きで、呼吸に合わせて血を吐き出していたが、それもやがて止まる。
 停止したオルステッドの世界で、空は涼やかに晴れ渡り、西部の荒野と同じくらいの澄み渡った星
のさざめきを振り落していた。銀色の顔をした月は、既にこの地から、オルステッドの絶望が立ち去
った事を沈黙のうちに物語っている。
 ただ、オルステッドが静かに灰と塵に還るその間、澄み渡った空とは対照的に、岩肌冷たいオルス
テッドの血溜まりが浮かぶ地には、未だそこかしこに奇妙に混沌とした闇が散らばっていた。それは、
オルステッドを貫き霧散した、ブライオンの欠片達だ。
 ブライオンの欠片が落ちた部分だけ、明らかにこの世のものではない気配が蠢いている。
 そこから眼を逸らすべきなのか、サンダウンには分からない。だが少年達の何人かは無視する事に
決めたようだ。いやそれとも、最初からブライオンの欠片に気が付いていないのか。ようやく光をと
り戻したエリアルによって、眼が眩まされてしまったのか。
 サンダウンが鬱々とした物を腹の中に抱え込んで、オルステッドがつい今しがたまで立ち尽くして
いた場所を見つめる。
 肉色の翼で覆われてしまい、そして背後にルクレチアの薄淀んだ空を背負っていた所為か、酷く禍
々しく見えていた巨像は、改めて見ると巨像と言い切るにはこじんまりとした石像に過ぎなかった。
澄んだ空の下では、禍々しさよりも何か不思議な荘厳ささえ帯びている。
 だが、それらも何か捻じ曲がっているような気がするのは気の所為だろうか。
 これで終わった、と背を向けて良いのだろうか。
 いや、そもそも何処に背を向けて前を見れば良いのか。
 サンダウン達を呼び寄せたオルステッドは確かに死んだ。サンダウンが撃ち殺した。だが、サンダ
ウン達は、誰一人として元の世界に戻れていない。
 嫌な、予感がする。
 オルステッドは、最初から誰一人として元の世界に戻すつもりなどなく、己の欲望を満たす為だけ
に、己の主義主張をしたいが為だけに呼び出し、それ以降の事など考えていなかったのでは。
 そう考えれば、澄み切った空の下が、一瞬にして顔色が違ってみる。
 オルステッドを撃ち殺したとしても、何一つとして解決せず、サンダウン達は薄っぺらい涼やかな
世界に閉じ込められたままだ。

「ええ、その通りです。」

 サンダウンの心に答えるように、巨像の胸元から声がした。
 ぎょっとしてそちらを見れば、巨像に埋め込まれるようにして、女の顔が浮かび上がっている。そ
の顔は、知らぬ顔ではない。亡霊行き交う通路で、ストレイボウに糾弾され、追いやられた女のもの
だ。ストレイボウこそが悪だと言い放ち、オルステッドの顛末を告げた女。
 ルクレチアの王女。
 彼女は首だけの姿で、巨像に埋め込まれたまま、悲しげな表情を浮かべている。その紫紺の双眸は
涙に濡れており、今にも大粒の涙が溢れ出しそうだ。

「だから、だから言ったのです。あの男………オルステッドを裏切った、親友の皮を長年に渡り被り
続けてきたあの男、ストレイボウの言葉など信じてはいけなかったのに。」

 巨像の荒い胸の色の中で、王女の顔だけがひたすらに白い。ぽっかりと、そこだけ刳り貫かれたか
のように。

「オルステッドこそが、貴方がたの世界とこの世界を繋ぐ門だったのです。あらゆる場所に存在し、
あらゆる時代に存在する、歪。何処にでも存在し得るが故に、オルステッドは貴方がたを呼び寄せる
事が出来ました。オルステッド亡き今、この地はいかなる場所にも通じません。ここは、ただ区切ら
れた箱庭と化しました。美しく澄み渡った、しかしいかなる変化も望めない箱庭に。」
「なんだって!?」

 少年の中の一人が叫んだ。派手な髪の色をした、心が読めると嘯く少年だ。

「冗談じゃねぇぞ!その、歪とやらはどうやったら出てくるんだよ!」

 今にも生首に掴みかからんばかりの勢いで、少年は王女に食って掛かる。何としてでも戻らなくて
はいけないのだ、と、心が読めぬサンダウンでもよく分かった。他の少年達も、王女の言葉に狼狽え
ているのか、どう反応すべきか戸惑っているようだ。

「おい、なんとかして元の世界に戻る方法はねぇのかよ!」

 少年の言葉に、王女は美しい紫紺の眼を伏せる。震える睫が、語らずとも方法がない事を示してい
る。
 ないのだ。
 歪とやらであったオルステッドが消え失せたが故に、サンダウン達を元の世界に戻す為の門は開か
ないのだ。
 脚元を見れば、あるのはオルステッドの吐き出した血ばかり。かつてオルステッドであった身体は
既に塵と化し、風に乗って霧散してしまっている。
 くそ、と少年が悪態を吐き捨てる。

「冗談じゃねぇぞ!」

 罵声に近い声が、剣のように研ぎ澄まされた声が零れ落ちたかと思うと、その眼はサンダウンを射
抜いた。その眼差しを、サンダウンは無言で受け止める。
 想像はしていた。
 オルステッドの息の根を止めたのは、サンダウンだ。つまり、ひいては元の世界に戻る方法を潰え
させたのはサンダウンである。サンダウンは、その責がこちらを向くであろう事は、想像していた。
かつて己の銃の腕がならず者を呼び込み、その責をとった事があるのだ。間接的であれ己の責任の形
は、重々分かっている。

「おい、あんた!あんたが考えなしにあいつを殺すからこんな事になっちまってんだぞ!なんとか言
いやがれ!」

 少年の恨みと怒りの籠った眼差しが、サンダウンの胸倉を掴む。
 では、他に方法があったのか、と問うたとしても、それは無意味な事だ。あの時それが最善であっ
たとしても、それは現状の打開にはつながらない。

「どうにかしろよ!どうにかして責任とれよ!」 
「や、やめるっちよ!」

 少年を、別の少年が止める。明らかに太りすぎな少年――いや、こちらはもう若者と言っていい年
齢だ――は、狼狽えながらも、しかし瞳に優しげな光を灯している。

「そんな事したってなんにもならないっち!今はどうすべきか考えるべきっちよ!」
「うるせぇ!」

 少年が、太った若者を刎ね飛ばす。

「食い物にもならねぇ図体だけ持ってる野郎は引っ込んでな!俺はなぁ!仕方ないで済ませられるほ
ど自分のいた世界に未練がねぇわけじゃねぇんだよ!」

 てめぇらだってそうだろう!
 吼える少年の顔は、悪鬼のようだった。

「自分の世界でやりたかった事があるはずだ!大切なもんだってあるだろうが!それが、このおっさ
んが良く考えもしねぇでオルステッドとかいう野郎を殺した所為で、全部手の届かねぇところに行っ
ちまうんだ!大体、いきなり殺す事はねぇだろう!殺す以外にも手はあったんじゃねぇのか!」

 それはそうかもしれない。
 サンダウンは心の中で頷く。
 しかし、サンダウンは、これまで人を殺す以外の手段を持ち得ていなかった。銃の腕に長けている
とは、そういう事だ。

「でも、でも!」
「だから、デブは引っ込んでろ!それとも何かてめぇに案があるってのか!」

 若者が、その巨躯を縮こませて黙り込む。
 荒々しい沈黙が通り過ぎ去る中、ぽつりと王女が呟く。

「一つだけ、方法があります。」

 白い顔に、一斉に眼が向かう。期待と、猜疑の入り混じった視線を浴びた王女は、相変わらず幸薄
そうな表情で――けれどもその眼に、何か笑みのようなものがあったのは気の所為か。

「なんだよ、それは!言えよ!早く言えよ!」

 食って掛かる少年に、王女は目尻に笑みのようなものを浮かべた表情で答えた。

「それは、誰かが歪になる事。」

 歪とは、と王女が涙で濡れた声で説明する。

「あらゆる時代と場所に存在する、人々の感情。恨み、憎しみ、疑い、それら全てを寄り合わせた存
在がなり得るものです。時に魔王と呼ばれ、人々に疎まれる存在。それに、この世界にいる誰か一人
でも成り下がれば、歪が世界との門になり得ます。」

 告げられた事実。
 その解決方法に、一瞬皆が呆けたような顔になる。王女に迫っていた少年も。しかしその顔が歪み
始めるのにそう時間はかからない。
 サンダウンは、次にこちらを向いた少年の顔が、おそらく、こちらを生贄にしようとする、かつて
自分が心底から守ろうとした、そしてサンダウンが元凶であると知るや掌を返した、町人達と同じ顔
をしているであろう事を予感した。
 そして、あの時は逃げ出せたが、今度は逃げ出す事が出来ない。
 でも、でも、と太った若者が何か否定の言葉を吐こうとしている。しかしそれらは、他の少年達の
圧倒的な空気に飲まれようとしている。

「おい、おっさん。てめぇは自分がした事の責任くらいとれるんだよな?」

 サンダウンの返事を待たずに、王女に問う。

「歪ってのには、どうすりゃあなれるんだ?このおっさんが歪になる!」

 少年の言葉に、王女の生首がゆっくりと巨像の胸から浮かび上がる。巨像から抜け出し始めた王女
の顔には、今やはっきりと笑みが浮かんでいる。
 これは、何かの策略だ。
 しかし少年は気づいていない。サンダウンがそれを指摘したとしても聞かないだろう。
 笑みを湛えた女の唇が動く。

「それは………。」
「もう今、既に、この時が歪だ。」

 切り裂くように、地面に霧散していた闇が再び練り上げられた。今までよりも、遥かに鋭い切っ先
で。

「言っただろ?今、この時を、待っていた、と。」

 笑みを湛えていた王女の顔が、口を奇妙に開いたまま、凍り付いた。鋭い闇色の切っ先は、今や迸
る稲妻のような閃きを見せて。

「ああ、そうだよ。てめぇが新しい器に乗り換えるこの瞬間を、待っていてやったんだ、ODIO!」

 その時には、そこには、王女の眉間を撃ち抜いたマッドの後姿が立っていた。