ブライオン――魔王山を閉ざしていた勇者の剣と讃えられた黒の刃から湧き起ったのは、勇者の名
からは想像もつかぬほど、陰鬱で、凄惨で、苛烈で、酸鼻極まりない気配だった。ルクレチアに蟠る
鬱々とした灰と似ている、しかしそれを遥かに凌ぐ気配が、悶えるように辺りに飛び散った。
 思わず剣を取り落としたサンダウンの周囲で、少年達も眼を驚愕に見開き、踏鞴を踏むように後退
っている。
 しかし、突然の闇の気配に狼狽えたのは、なにもサンダウン達だけではない。
 明らかに、肉色の翼を広げた醜悪な魔王も、己の故郷と言われても不思議ではない死臭の吹き溜ま
りのような広がりに、驚き、咄嗟に身を退いている。
 サンダウンが、剣を取り落としたものの、辛うじて逃げ出さずにその場に踏み止まっていられるの
は、黒の刃の中に今度こそ普段と変わらぬマッドの後姿があったからだ。
 振り返らぬまま、しかしいつも通りの新品のジャケットに帽子、そして腰に黒光りする銃を携えた
賞金稼ぎは、確かに先程口を利いた。
 だが。
 マッドが背を見せる刃の中から吹き上がる、この、限りなく死に近い匂いは一体なんなのだろうか。
 サンダウンが知っている、マッド本人からは想像もつかない気配だ。

「歪。貴様、歪。」

 闇がひたすらに凝り、光も灰も噛み殺しては呑み込んでいく中、憎憎しげに、しかし一方で嘲笑を
孕んだ声で、肉色の翼が震えた。

「その剣。そうか、それもまた、貴様らの、テンプスの舞台装置か。エリアルとはまた別の。むしろ
エリアルとは真逆の。」

 青年の朴訥とした声が失われ、代わりに湧き起ったのは千年を生きた使徒のような、にも拘らず生
臭さの消えぬ声だった。

「なるほど、弾き飛ばしてやったというのに、やはりただでは転ばんか。」

 うねる肉色の羽が辺りに飛び散り、そして闇の中に沈んでは、じゅっという音と腐った肉が焦げる
臭いと共に、闇を消していく。
 拒絶せざるを得ない生々しい魔王は、一瞬だけ勇者の剣に怯んだものの、しかしすぐさま体勢を立
て直した。そして、侵食する病のように、ブライオンから広がる闇の中にどす黒い煩悶を落として闇
を損ねようとしている。
 やはり、かつて青年であったという、そして裏切られたという魔王は、この世とは相容れぬ――闇
さえ呑み込む存在であるのかもしれない。その、腹の底で全てを調和させるべくして、人の器の中に
ぽっかりとした大穴を開けている。
 闇よりもなお深く侵食する魔王の絶望は、灰と光はおろか、サンダウン達にも再度食指を伸ばして
きた。
 エリアルの光は既に断ち切られ、闇は絶望に侵されている。

「しかし、所詮、その剣は装置でしかない。如何に世界にワタナベを張り巡らせようとも、それらが
装置風情でしかない以上、歪の全てを知る事は不可能。私の存在を推し量る事はできはしない。その
剣は、歪を抑える剣と言われていた。エリアルが歪を断つ光であるならば、ブライオンは歪を封じる
為に作られたと言われてきたが。」

 それは違ったようだな。
 にたり、と魔王の口が、頬まで裂ける。
 その顔色を見て、サンダウンはしかし肉色の魔王が朴訥とした青年とはまた異なる存在と成り果て
ている事に気が付いた。
 少なくとも、青年はサンダウンの知っている言葉を並べ立てていた。
 だが、今の魔王は、違う。サンダウンの知らぬ――死んだと思われていたマッドが、延々と語って
いたのと同じような言葉を騙っている。

「それは歪を封じ、喰らい、それを歪目掛けて放つ剣。諸刃の剣。よくもまあ、そんなものを作った
ものだ。しかし、さっきも言ったように、それは所詮はただの装置。計り知れぬ人の深淵たる真なる
歪には通用しない。私の腹の中で、精々調和するが良い。」

 禍々しくぎらりと双眸が蠢く。赤というよりも、どす黒いに近い瞳の中で、何か言葉が舞っている。
しかしそれは、灰の広がりが増し、先程よりもずっと早く身体を灰に侵食されているサンダウンには
見て取れない。
 エリアルの加護が失せた今、サンダウン達を灰から防御するものは何もない。
 瞳まで、侵食したのだろうか。サンダウンの眼は、既に何かを明確に映し出すほどの機能を持って
いなかった。
 けれども、灰塗れの視界の中で、ぴしり、と亀裂のように闇が稲妻型の模様を描く。
 その亀裂の中で、灰と肉の塊が、醜く蠢きながらブライオンの刀身に食らいつくのが見えた。亀裂
は、ブライオンの亀裂だったのか。マッドの姿にも確かにひびが入っている。
 しかし、そのひび割れた背中が、確かに勝利を確信したように笑った。

「なに?!」

 驚愕の呻き声を漏らしたのは、他でもない、嘲りの声を上げていた魔王その人で。
 亀裂の入ったブライオンから、先程よりもなお深く昏く長い闇が噴き出している。ブライオンに入
った亀裂と、同じ形をした闇の亀裂の隙間からその光景を見るサンダウンには、魔王が今更闇に驚愕
した理由が分からない。
 だが、その理由を騙るのか語るのかは分からないが、マッドの声が、再び響いた。

「ああ、やっと姿を見せたな。」

 ODIO。
 低く、甘く、睦言のように囁くと同時に、ブライオンが一気に砕ける。
 黒い破片が周囲に飛び散った。と思った瞬間に、その破片全てが闇の一片一片と化し、そこから広
がるのは紛れもない黒。
 黒の一つ一つに、口でもついているのか、飛散する周囲の物事全てを取り込んでいく。
 闇の食い潰し合い。
 先程からのやり取りは、その一言に尽きる。
 ただ、砕けたブライオンの欠片は周囲の事象を飲み込みながらも一つに収束していく。それと並行
してサンダウンの視界も取り戻していく。
 サンダウンの視界が元通りに――そう、この世界に来る前と全く同じ、くすみ一つない視野に戻っ
た頃、鞍けたブライオンは、再び、元の、いや、元よりも遥かに鋭い刃の姿をしていた。
 いや、あれは刃ではない。
 弾丸だ。

  「この時を、待っていた。」

 痺れるほどに甘く、音楽のように端正で、しかし微かに残るアメリカ南部訛りの英語。疑う余地も
ないくらいに気障ったらしく、処刑宣告をする声。

「まずは、オルステッド。てめぇからだ。」

 火山よりも唐突に過激に、暴力的な深淵の中で湧き立ったのは、確かにマッドの気配だった。
 バントラインから放たれる鉛玉さながらの勢いで、黒々と闇に彩られた弾丸は、真っ直ぐに飛び立
つ。
 銃声の代わりに、マッドの声を合図として。それ以外は、音もなく。
 ふつ、と。
 鋭く熱い銃弾そのままの姿で、それは、オルステッドと呼ばれた魔王の心臓を撃ち抜いた。
 血は、一滴も流れない。ただ少し、オルステッドはよろめいただけだった。

「ふ。」

 しかし、どす黒い瞳が、撃ち抜かれる瞬間に一瞬に引き、赤く焦げる色と変貌したのを、サンダウ
ンは見逃さなかった。
 けれども、オルステッドは崩れていない。すぐさま、口元に笑みを浮かべ――けれども先程の頬ま
で裂けるような笑みではない。ただの人間の笑いだ。

「ふは、ははは!まだだ!まだ終わらぬ!」

 笑い含みの声。だけれども、何処か無理をして、何かを演じているような。

「我が名はODIO!この世の全てだ!」
「………いや。」

 既に人間に戻ったオルステッドに、サンダウンは首を横に振る。既に灰は何処にもなく、サンダウ
ンを害する者は何処にもない。
 代わりに、味方をする光も闇も、マッドの気配もないけれど。
 自分一人の力で、事態を打開する事には、慣れている。それに今眼の前にいる青年程度ならば、光
も灰もない今ならば、サンダウン一人でも十分に対処できる。
 その、自信は、意味もなくあった。

「お前は、ただの、人間だ………。」

 サンダウンは真鍮色の銃を掲げる。そして、間髪入れずに引き金を引いた。吐き出される鉛玉。オ
ルステッドは、それを笑みを湛えたまま見つめている。
 だが、唐突に、ぎょっとした顔で背後を振り返った。
 そこにあったのは、エリアルで蒸発したはずの、ストレイボウだった。そして、オルステッドが眼
を離した瞬間に、鉛玉は容赦なく、その脳天を撃ち抜いた。
 一拍遅れて、鮮血。
 今度こそ、確かに、魔王オルステッドは死んだ。