頂でサンダウンを待っていたのは一つの巨像だった。
 岩を刳り貫いて作りだされたそれは、周囲の草一つ生えていない岩肌と背後の灰色を通り越して不
可解な紫を描く空の色も相まって、絶筆しがたい空気を生み出していた。
 飲み込まれそうな空気の中、少年達が唾を飲み込んで耐える気配がする。
 しかし少年達の思惑など嘲笑うかのように、巨像の虚ろな目が、打って変わった鮮やかな赤に煌め
いて、空気をますます掻き混ぜる。

「………ようこそ。」

 地の割れ目から響き渡るような声は、紛れもなく、巨像の胸元から聞こえ出たものだった。しかし、
その声には何処か朴訥とした若さが籠っており、全く以て、サンダウン達の世界から離れた場所から
届いているものとは思えなかった。
 赤い眼を爛々と輝かせた巨像は、サンダウン達を見下ろし、淡々と告げる。人間離れした様相から
は程遠い、人間らしい声で。

「君達にわざわざ集まってもらったのは他でもない、とても大事な事を伝えねばならぬからだ。話は
二つ……。一つは 君達は英雄になった。しかし他の人間達は一体何をした?・・・・助けを請うばかり
だったろう。自らを危険にさらさないで他力本願に幸せだけは求める。そんな人間なぞ救うに値しな
いという事。これが一つ目だ。そして二つ目。今度は君達自身の事だ……。君達は一体何のために戦
ってきたのだ……?」

 語る内容も、人間らしい、悩みに溢れ抜いたものだった。少なくとも、マッドの言葉よりは遥かに
用意に聞き取れる。
 巨像のその身体と、そしてサンダウン達を此処に呼び寄せた力以外は、まだ十分に理解できるもの
だった。
 黒い剣の中で、マッドの後姿は微動だにしない。擦り切れたローブの裾が、微かに揺れているだけ
だ。剣の中からは、巨像は見えず、声も聞こえないのだろうか。
 ちらりとブライオンを見下ろすサンダウンの前で、巨像は誰かの意見など待ちもせず――いや、聞
いたとしても歯牙にもかけないだろう――己の言葉を、鬱々と、しかし何処か酔いしれたように紡い
でいく。 

「まあそれもよかろう………。」

 言葉の中にある酔いの中に、辛口の何かが漂い始めた。それは、所謂敵意、というものにほど近く。

「幸い、君達は戦いに勝って大切なものを手に入れた。だがそれらも所詮、一方的な欲望ではないの
か?自分にとって大切なもの……それを守るためならば他者を傷つけていいのか……?」

 そして、己には一切の悪がないと信じている、己が悪であってもそれと同等に他者も悪であると決
めつけている、典型的な人間の、言い訳だった。
 それを、ぎらりぎらりと煌めく赤い双眸の向こう側で、主張する。

「お前達もこの世界に住んでいた醜い人間達と同じだ。あいつらと同じ様に……・己の生き様を後悔し
ながら……別れを告げさせてやろう。」

 あまりにも人間じみた、あまりにも身勝手な言葉と同時に吹き上がったのは灰の風だ。びしり、び
しりと音が聞こえるほどに、世界の色が失われ、石の色へと変貌していく。サンダウンの、そして少
年達にこびりついた灰の広がりが加速する。
 強張った腕から銃が落ち、残る手で黒の剣にしがみつけば、しかしマッドの背中はやはり振り返ら
ない。
 その時。
 燦然と零れ落ちたのは無垢とも神聖とも思しき光だった。放射状に広がり灰を押し返す光は、これ
までも度々、その白が言及されてきたエリアルのもので。その名の通り、空気の一粒の隙間にさえ潜
り込み、くすんだ世界を洗い流していく。
 既に光と名付ける事さえおこがましいほどに、世界に馴染んだエリアルの気配は、一瞬に着実に、
巨像の周りを取り囲んで、巨像の内部にまで流れ込もうとしている。
 勝者が掲げる剣のように、思い思いに武具を掲げる少年達は、エリアルの光が対抗手段であるとい
う、あの若者の言葉を今正に噛み締めているのだろう。
 だが、とサンダウンは思う。
 別に、あの若者の言葉を疑うわけではない。まるきり信じているわけでもないが、しかし今のとこ
ろ、疑う余地はない。これまで、降り積もる灰をエリアルが退けてきた事からも、エリアルが何らか
の手段を以て、この世界に蠢く何かしらへの対抗策である事は、十分に理解できる。
 だが、それでも何かが腑に落ちないのだ。
 強いて言うならば。
 硬直した腕を抱えて、サンダウンは巨像を見つめる。巨像の表面からうねるように生えた、複雑に
絡み合う植物。その隙間に存在する、巨大な眼と口。ぽっかりと開かれた眼と口からは、ただただ虚
ろが垂れ流されている。
 灰の源である目と口に、鮮やかな空気が振れると、まるで悲鳴を上げるようにその顔が崩れた。限
界まで開かれた口からは、血糊のように灰が零れるがそれらは悉くが蒸発する。
 声なき絶叫は、一見すれば、こちらの勝利を思わせた。それでも、サンダウンにはこれが勝利であ
るようには微塵も思えなかった。
 何せ、巨像の赤い眼は、いよいよ燃え立ち、正常な空気を真っ向から睨み付けている。
 ゆるゆると、巨像から伸ばされた蔓が朽ち果て、眼と口が虚ろな絶叫をしながら蒸発する中、サン
ダウンは確かに聞いた。
 巨像の中から、誰かが、笑うのを。
 くつくつ、と。
 最初は小さかったものが、折り重なるにつれて大きくなり、次第に大きくなったそれは、とうとう
哄笑になった。
 山全体に響き渡り、森の奥からの木霊がそれに重なる。遠くで何かが飛び立つ音がしたが、蔓延る
異形でさえその笑い声に恐れをなしたか。

「愚かだな。」

 朴訥とした声が、此処まで醜く歪むものなのか。そんな感想を抱かずにはいられないほどに耳障り
な声が、響く。巨像の中から、赤く爛々と輝く眼の奥で、鬱金色の髪をした青年が、声と同じくらい
醜く顔を歪めて笑っているのが見えた。

「そうやって、私に餌を与えてどうする。それは、確かにお前達が欲望のままに倒した敗者達には効
果があるだろう。そう、その光は勝者の光……勝ち得た者のみが振り翳す、正義の刃だ!」

 勝ち得た者のみが騙る事を許される歴史のように。
 エリアルの光は、勝者たる者のみがその手に治め、そしてその恩恵にあやかれる。敗者はその光の
前に消滅するのみ。

「だが、私は違う。」

 真紅にきらめく光は、人間にこれほどに勝利を確信できるのかと思うほどに、勝ち誇っていた。

「私は魔王。私は憎しみ。私はこの世にある全ての争い。人が居る限り延々存在し続ける。誰もが必
ず持ち得るが故に、私は死なず、死なぬが故に決して負けない。」

 巨像の背後で、羽ばたきが聞こえた。みしみしと音がしていると勘違いしそうなほど、しかし実際
には音もなく、巨像の背後から肉色の翼が生まれだしている。糸を引きながら広がったそれは、醜悪
の極み。この国の人間全てを殺した魔王の翼は、その血肉で練り上げたのではないかと思うほど――
そしてその可能性が高い――生臭い。
 少年達が、後退る音がする。中には、死臭に吐き気を催したのが、喉の奥で破裂音を立てる者もい
る。サンダウンも、沸き上がるえずきを堪える。
 広がった肉色の翼は、それほどまでに醜悪であるにも関わらず、エリアルの光を静かにその羽先に
灯した。燦然と煌めく光は、先程までひたすらにルクレチア国内に広がり続けていたのに、今や、あ
たかも魔王こそが己を頂くに相応しいと言わんばかりに、魔王の頭上に収束しつつある。

「わかるか?」

 魔王が、唇を開いた。
 裂けた唇の間から、赤い舌が覗く。血でも滴っているかのようだ。

「この光に閉ざされ、虐げられていた闇など、心底の闇ではないのだ。囚われていた者達は心からの
絶望も知らず、光を飲むほどに飢えてもいない。ただただ、己の内々に滴る黒を飲み干して、己が混
沌であると箱庭の中でふんぞり返っていただけだ。だが、私は違う。」

 灰が湧き立つ。光が矛先を変えて、こちらを向く。

「私は敗者ではない。光に押し負けるような絶望を知らぬ甘ったれとは違う。だが、欲望のままに敗
者を虐げ歴史を書き換える勝者でもない。私は光も闇も飲み込み、私の中で全てを後世にする調停者
だ。私の前では突き刺す勝者の光は無意味だ。」

 調停者となった魔王の前では、光でさえ下僕同然。肉色の翼の前にひれ伏し、その頭に宝冠を落と
す。
 広がる灰に、身体の灰も加速する。そして灰に塗れる身体には、エリアルの光は毒でさえある。魔
王は己の力を試すように、エリアルの刃をこちらに向けて、狙いを定めている。それを弾く術は、サ
ンダウンはおろか、少年達にもない。

「闇を切り裂く光の剣など、この世にはないのだ。闇は、光さえも飲み込む渦だ。勝者も敗者も、こ
の前には無意味。光の剣に縋り、他者を正義の名の下に、しかしその実、己の欲望のままに斃した、
己の浅はかさを悔いるが良い。お前達には、正義を振り翳す権利などないのだ。」

 光の剣は渦を巻き、勢いを増している。容赦なく、魔王の敵を切り刻むつもりだ。
 魔王の赤い眼が、眦が切れるほどに開かれ、煌めきを増す。迫る光の切っ先の零れ火が魔王の顔半
分を、真っ白に照らし出す。
 その白の光でサンダウン達を一突きしようと、切っ先を鼻先に迫らせる。

「滅びろ消えろ、勝者の顔をした敗者よ!己の信じた光の前に、引き裂かれるが良い!光でさえ断ち
切れぬ闇がある事を存分に理解しながら!」
「……だが、闇ならば、闇を飲み込めるかもな。」

 迫るエリアルの光を、一声で断ち切った声は、闇の奥で芳香を放つ花のように、艶やかだった。
 と、サンダウンが縋っていたブライオンがその黒い刀身から、闇に近い陽炎を吐き出す。エリアル
の光を切り落とした――かのように見えるほど、陽炎は光を食い千切っていた。それだけでは飽き足
らず、陽炎は辺りに蔓延る光に、悉く手を伸ばしては、指を牙に変えて食い千切り、掌を口に変えて
は呑み込んでいく。
 その様に、ようやく、魔王である青年の顔に、はっきりと驚愕の色が張り付いた。
 魔王の驚愕と相対するように、黒の刀身の中ではマッドが背を向けて立っている。ただ、先程まで
と唯一違うのは、マッドの纏う黒のローブが、いつの間にかサンダウンが良く知った、黒のジャケッ
トに変わっていたことだった。