開かれた魔王山から、一気に歪の気配が吹き上がる。
 歪を封じ込める剣、ブライオンが引き抜かれた為だ。
 しかし、ブライオンの機能も、そもそも歪の事も知らないサンダウンには、ただ自分の身体に落ち
た灰の広がりが加速しているだけのように見えた。
 既に、肘まで覆い尽くしている灰色は、エリアルの光の前でも掻き消えない。
 少年達が、思い思いに持っている、エリアルの銘を持つ武器は、薄暗い世界でも燦然とした光を放
つ。
 昏い通路で光を恨めし気に見ていた女は、その光を破滅だと言った。自分達を焦がし、掻き消す悪
の光だと。
 事実、エリアルの光を浴びた幽鬼達は、蒸発するように掻き消えた。だからおそらく、エリアルに
は移ろう行く宛のない魂を消し潰す力があるのだろう。女の言葉は正しい。
 しかしそれは、女が正であるという理由にはならない。
 あの女が、正しくとも、しかし悪意がない理由にはならない。それを指摘したのが、エリアルに自
ら焼かれに行った若者だ。
 剃刀色の眼に、寂しげな色を灯した若者は、それでもサンダウン達を待ち焦がれていたように微笑
んだ。そして、女を糾弾した。
 会話からして、若者と女は、敵対する立場にあったようだ。オルステッドという名の誰かを挟み、
二人は正反対の位置で睨み合っていた。
 言葉の持つ意味が分かったのは、女のほうだ。女は、サンダウン達に分かる言葉で語りかけてきた。
耳触りの良い、微かに嗚咽の混じる情を揺さぶる声音で。光と闇と、悪と正義と、裏切りと王殺しと、
まるでお伽噺のような言葉を連ねる。
 片や若者のほうは、サンダウンには分からぬ言葉を紡いでいた。淡々と、しかし時折声を震わせな
がら。歪と魔王、二十年前とODIO、そしてマッド。
 耳触りのいい言葉と聞き慣れぬ言葉と。
 しかしだからこそ、サンダウンは若者の言葉のほうに惹かれた。
 マッド。
 若者は確かにそう言った。
 ODIO。
 それはマッドも口ずさんだ言葉。
 若者の紡いだ言葉は、サンダウンがその胸を撃ち抜いたにも拘らず、相変わらず飄然として現れた
マッドのそれと、同じ色をしていた。

「なあ。」

 少年の中の誰かが声を上げる。狼狽えた響きを湛えた声は、見た目派手な少年のものだった。人の
心が読めるのだとこちらを見下したような少年は、しかし酷く戸惑っている。

「俺達が此処に呼び出されたのは、俺達の世界で起きた事件が絡んでると、思わねぇか?」

 この、灰が舞う世界に呼び出された彼らが、ようよう集った頃、誰からともなく自らの事をぽつり
ぽつりと話し始めた。その時に、自分達の世界で起こった出来事――その中でも特に、お伽噺か伝説
か、夢物語かと思える出来事が耳にこびり付く。
 奇妙に動き回る化け物、人間が化け物に転じる瞬間、存在しえない生物の咆哮、訪れる破綻の時。
 まるで、何処かで誰かが捻じ曲げた世界が広がったかのような――そう、このルクレチアという国
のような瞬間が、確かに起きた。
 だが、それが自分達がこの世界に引き摺り込まれた事象と関係すると言い切れるのだろうか。
 いや―――。

「だって、あの野郎、言ってただろ。」

 少年の顔が、泣きそうに歪む。

「俺しか知らない、俺の世界の人間の名前を、なんでこの世界の幽霊が知ってたりするんだよ。」

 無法松やざきや老師、そしてキャプテン・スクエア。そしてあの男――マッド。
 光に蒸発した若者が、囁いた名前。
 マッドが騙った理解できない言葉の羅列と同じ、理解不明の若者の言葉は、しかしそれによって、
ようやくサンダウンはマッドに何を請われているのかを悟った。
 少なくとも、あの女は、そしてODIOとやらは、マッドの、そして若者の、そして若者が囁いた
名前の人物と相容れぬ存在なのだ。故に、マッドは彼らを斃す事を望んでいる。マッドは、その役目
を負う事を、サンダウンに請うているのだ。
 しかし、何故マッドは自分でしない?
 若者は、女に言った。『あの一撃でマッドを殺せたと思っていないだろうな』と。つまり、マッド
は、一度挑み、そして何らかの理由で退けられたのだ。だから、自分以外の誰かに、彼らを斃す事を
託しているのだ。
 しかし、マッドの請願は分かったが、肝心の斃すべき存在が分からない。あの、紫紺の髪をした女
なのか、それともマッドと若者が理解しえぬ言葉の中で紡いだODIOなのか、それとも、このルク
レチアという国を壊滅させたオルステッドなのか。
 ただ、サンダウンは自分の手の中で煌めく、黒光りする剣の刀身を見つめる。
 少年達がエリアルの光に包まれる中、サンダウンは黒々とした剣を手にしている。じり、と周囲の
灰を吸い込んでは刀身に何か奇妙なものを映し出すそれが、サンダウンにはマッドがいつも腰に帯び
ていた銃の色を思い起こさせた。
 そして、灰を吸う度に刀身に揺らめく幻は、誰かの後姿をしている。
 誰か、であるかは考えずとも分かった。振り返らず、飄々として歩いていく姿は、普段はほとんど
見ることがなかったマッドの後姿だ。
 マッドがサンダウンに背を向ける事など、まずなかった。けれどもサクセズ・タウンでの一夜、マ
ッドは何の気負いもなくサンダウンに背を向けた。荒野を行く獣のようにしなやかな背筋を見せたあ
の男は、既にサンダウンに請うべき事を考えていたのだろうか。
 刀身の中で背を向けて歩くマッドの姿は、いつもサンダウンが見ていた、仕立ての良いジャケット
ではない。黒の、擦り切れたローブを身に纏い、腰に剣を帯びている。これまで見てきた姿とは似て
も似つかぬ姿だったが、けれどもその黒の深さが、マッドである事を示している。
 そして、腰に帯びた剣からは、燦然とした光が零れ落ちて光の道を作り出している。
 光の色を見て、サンダウンはエリアルだ、と思った。今、少年達が手にしている武具と、きっと同
じ銘を持っているはずだ。少年達が、一つ足りない気がすると言っていた、その最後の一つ。エリア
ルの銘を持つ剣は、マッドが所有していたのだ。
 所有していた、のか、それとも今もマッドが持っているのか。
 そもそも刀身に映しだされるマッドは、過去であるのか、それともサンダウンを導くための幻なの
か。
 判別は出来ないが、しかしマッドの歩く道は、歪みきった岩肌の上であり、それは間違いなく魔王
山を往く道だ。
 この道の先に、闇に溶けて逃げた女がいるのか、それともODIOがいるのか、それともオルステ
ッドとやらがいるのか。
 分からない。
 分からないが、くすんだルクレチアの世界において、鮮やかな黒であるマッドだけが、淀みのない
答えを知っているような気がした。
 この先を進めばよいのか、と一度も振り返らないマッドの背中に問う。
 マッドが、正であるとは言い切れない。不可思議な言葉を紡いだマッドの請願が、果たして正義の
顔をしているとは言いがたい。マッドはいつも光と闇の両方の顔をしていた。ただ唯一真実であるの
は、少なくともマッドは人を騙す事はあっても、嘘を吐く事はなかった。
 サンダウンを先導するような、刀身に閉じ込められたマッドの後姿。だからこの背中は、己の請い
を成就させる為に、確かな道を歩いているはずだ。
 マッドの成就が、サンダウンの良し悪しどちらに転ぶかは分からないが。
 振り仰いだ灰色の空の中、空に突き刺さるほどに鋭い頂きで、赤い双眸が瞬いた気がした。




 オルステッドは、ひしひしと近づく気配を感じ取っていた。
 ルクレチアに溢れかえる異形共も、あらゆる世界で思い思いの好きな名を勝ち得た存在には、滓で
しかなく、光の前にただただ屈した。無様な姿を曝け出す異世界の魔王達に、オルステッドは憐れみ
と嘲りの眼差しを贈りつける。
 光に囚われ続けて、本来の力を失ったのか。失う程度の力だったのか。
 エリアルと呼ばれる、灰を断ち切る光。それは歪を治める力を持つ祭具。牢獄に掲げられた祭具に
よって、牢獄の原因となった歪達はその力が掻き消えるまで焼かれ続けるのだ。
 そんな光など、踏み躙れば良いものを。
 オルステッドは、アリシアの頬を撫でながら呟く。
 光は闇の裏側だ。恐れる事など何もない。光に触れたなら蒸発するような力など、所詮は紛い物だ。
真の力は闇にも光にも耐えうるもの。

「光も闇も、飲み下して見せるさ。」

 呟いた声は、一切の反響をしない。ひたすらに重く、何処かに向かって届くこともなく沈み消える。

「光も闇も、私の中で同化する。そうすれば、勝者も敗者もない世界に向かう事が出来る。」

 世界が一つに混ざり合えば、アリシアの望む世界が広がるのだ。歪もエリアルも、オルステッドの
腹の裡でどろどろに溶けあってしまえば良い。
 そうすれば、全てが公正で、何の不幸もない。
 虚ろに微笑みながら、オルステッドはアリシアの涙を拭う。アリシアの唇が、微かに綻んでいる事
に喜びながら。

 ODIOの目的は、ゆるやかにオルステッドの心臓の中で達成されようとしていた。
 その首に、手の形をした焦げ目を付けながらも、着実に。
 英雄達の足音が響くたびに、確実に。