「おかえり、キャプテン・スクエア。」

 1867年地点より帰還したキャプテン・スクエアを出迎えたのは、既に壮年の域を超えた男だっ
た。老人の域に踏み出そうとしているその足は、けれども矍鑠としており、実は一般的な二十代の若
者よりも遥かに筋肉もある。
 長年テンプルに所属している男は、とある時代にて武芸を教えている――という名目で、自分達と
同じく、時空の歪に対応できる者を探し出し、見込みのある者をスカウトしているのだ。
 もちろん、その時代に時空犯罪者がいないか、時空の歪の発生要因はないかと眼を光らせてもいる
わけだが、しかし今のところその兆しも見えないので、忙しい派遣員の中では比較的落ち着いて仕事
をしているほうである。
 キャプテン・スクエアの視覚センサでもあるモニタの前のソファに座る彼は、しかし随分と寛いで
いるように見える。テーブルの上に緑茶まで引っ張り出して、他の派遣員が見れば起こりそうな姿で
ある。
 だが、今にも一息つこうとしている男を、キャプテン・スクエアは責めたりはしない。それはキャ
プテン・スクエアが人工知能でしかないということもあるのだが、一方でこの男が、手が空いている
ことを挙げて、別の時代の歪を治めに向かったことを知っているからである。
 派遣員の誰もが忙しすぎて手が付けられないと言った1994年の歪。
 これを治めに行ったのは、心山拳老師を名乗るこの男だった。

『老師、状況の報告を。』 

 モニタに特に光を灯さぬまま、音声のみで報告を要請したキャプテン・スクエアに、老師はその皺
だらけの顔に、ますます皺を作る。苦笑したのだ。

「こちらは問題なかった。私が向かった時には既に奴は治められていたよ。」
『我らの力を要せず、時空の歪は治まったと?』

 うん、と老師は緑茶を啜りながら頷く。

『老師。状況が理解できません。詳細の報告を要求します。』
「それ以上のことは何もないんだけれどもね。」

 湯呑を、白いプラスチックのテーブルに置いて、老師は改めてキャプテン・スクエアの視覚センサ
に値するモニタに向き直る。老師の視線がモニタを真っ直ぐに向いたのを見て、キャプテン・スクエ
アも、モニタに己の姿――正確には、人の視線を集中させるための人のを模した画像――を映し出す。
 精悍な若者の姿が映し出されたのを見て、老師は話し始める。

「歪は、人間だったよ。調べた限り、時空犯罪者や旅行者と接触した形跡もないし、時空遺物に触れ
た形跡もない。本当に、純粋にその時代に発生した歪だろうね。」

 歪は、時空を超える者によって生じることが多い。だが、稀にそうでなくとも発生する事例がある。
例えば何か激しい人の感情の動きによって。或いは時代の変革期に生じる、時と時の差異によって。
それはその時代に寄るものであるが故に、すぐには分からない。
 実を言うならば、テンプルの派遣員達は直感的に歪を察する能力を持っている。今、歪が近づいて
いると肌で感じるのだ。
 だが、それはその時代において異物が混入した時に、違和感を感じるに近く、だからその時代由来
の場合は気づきにくい。

「だから、ワタナベが破壊されるまで、我々には感じられなかったんだろうね。」

 ワタナベの破壊は、歪の発生を感知する最後の砦だ。派遣員にも感じられない突発的な歪でさえ、
このシステムは察知する。

「歪は強さを求める男だった。己の対戦車を殺し続けた殺人犯だった。」
『確かに、歪としては小さい。しかし、それでも我々の接触なしに、その時代の人々だけて治めるこ
とが出来ますか?』
「現に出来たのだよ。たった一人の男の手によってね。」
『一人?』
「出来なくはない。」

 老師は、テーブルの上に置いた湯呑を再び持ち上げる。

「そう。出来なくはない。我等は皆、そういう存在だ。だから、そういう存在が未だこの世に埋没し
ていてもおかしくはない。」

 歪に立ち向かう存在。
 そういう存在が集まったのが、テンプルだ。

『その男をスカウトしたのですか?』
「いや。だが、記憶には留めておく。何せ我々は万年人手不足だからね。後進の育成を手掛ける者と
しては、情報を持っておくに越したことはない。」

 それに歪に立ち向かえる能力を持っていたとしても、テンプルに属せることは、また話が別だ。
 そこに、するりと割り込む声がした。

「テンプルに入るには、独り者じゃねぇとな。きついだろうよ。」

 荒っぽく、しかしそれでいて音楽的な魅力的な声。 
 キャプテン・スクエアの視覚センサであるモニタに、黒々とした影を落とした男は、逆光を割り切
ってその顔を光の下に曝す。

「その男が独り身だって言うんならかまやしねぇが。」

 行儀悪くテーブルの上に腰を下ろし、上半身を乗り上げた男は、笑みを口元に淡く刷いている。テ
ーブルに降ろされた手は、ささくれ立っているが繊細で長い指を備えている。

「マッド・ドッグ。帰ってきたのか。」
「仕事は一つのほうは終わらせてきた。報告書ならさっき送ったぜ。」
『はい。受領しています。』
「といっても、まだ片付いてねぇのが一件あるんだがな。」

 マッド・ドッグと呼ばれた男は、短い黒髪に指を差し込んで一梳きする。乾いた砂が、はらはらと
零れ落ち、腰に帯びた銃に白い点を作る。

「君にしては長丁場だ。」
「そりゃあ、時代軸に従えば五年以上だ。」

 ただし、彼の時間にしてみれば、僅か一カ月程度。

「俺はあんたやざき、無法松と違ってずっと張ってる必要はねぇからな。ずっとそこにいなくたって
不審に思われねぇ。傭兵とか賞金稼ぎとかってのは、そういう意味じゃ楽だな。その場しのぎの関係
だけで良いんだから。」

 傭兵や賞金稼ぎ、ジプシーなど、所謂金で動いたり根なし草な存在に紛れて時空犯罪者を追うマッ
ドは、常にその時代に潜伏している必要はない。何年も何年もその場所で人間関係を築き上げて、不
審を打ち消す必要性はないのだ。
 だから、彼は何か月か、何週間かの割合で、その時代の顔見知りの前に姿を現せばいい。そしてそ
の期間は、その時代時代の人々には確かに数か月数週間と経っているだろうが、時空を移動するマッ
ドにとっては一瞬だ。さっきまで中世にいたのが、数時間後には十九世紀にいるなんてことは日常茶
飯事だ。

「まあ、その度に服を着替えなきゃなんねぇのが面倒だがな。」

 何てことなさげに言うが、実際その身にかかる負担は大変だろう。数々の時代を短時間で巡るとい
うのは、時空旅行の醍醐味のように思われるかもしれないが、実際は服装も当然のことながら、言葉
もその時代の文化についてもそれ相応の知識を持っていなくてはならない。
 その時代にいるのは一瞬かもしれない。だが、その一瞬の間に襤褸を出してはいけないのだ。一瞬
であるが故に、取り繕う暇もない。
 それに、マッドがその身を投じるのは傭兵や賞金稼ぎ、ジプシーや行商人といった人々だ。つまり、
最も時代の流れを感じ、時には巨大な戦が起きる場だ。そういった場は時空犯罪者が利用しやすい上
に、歪も発生しやすい。
 マッドはそれを、人々に紛れて納めなくてはならない。そして身を窶している職業上、そして短期
であるという事実上、誰かの協力を得ることは難しい。
 短期間で片付くが、しかし危険度は高い。
 それをマッドは幾つも持っている。

「わりかし片付いたけどな。一つ、やたらと長いのが残ってるけど。」
「時代軸では五年はかかっているというやつか。」
「そ。ここまで来たら発現しないかな、とも思うんだが、どうもそうはいかねぇらしい。」

 マッドの口元に、淡く浮かんでいた笑みが、一気に深まった。ただしそれは酷く憂いを帯びていた
が。

「往生際が悪いんだ、あのおっさん。」

 マッドが呟くのと、老師が立ち上がるのは同時だった。
 どうした、とマッドが訝しげに老師を見れば、老師はいつになく厳しい顔をしていた。眉間に皺さ
え作った男は、先程までの柔和な表情を完全に消している。

「ワタナベが破壊された。」
「何?」

 老師の言葉に、マッドも眉を顰める。

「お前の時代にそういう気配はあったか?」
「いいや。おそらく1994年地点と同じタイプの歪だろう。」

 大したことはないかもしれないが。
 言いながら部屋を出ていく老師の顔は、やはり強張っている。当然だ。あの時代には、まだ何も知
らない――時空を超えるなどという言葉でさえ知らない、彼の弟子がいる。

「治めるために、一度戻る。」