世界が一瞬にして灰色に丸く収まった。
 かと思った瞬間に世界は再び広がり、しかし再生された世界は、凄まじくくすみきっていた。
 不毛の荒野とは一転して、草木生い茂る水の気配のする村の一画。しかし、不毛の大地よりも遥か
に生命の色に乏しい。
 サンダウンは、自分以外に色のない世界を見渡し、微かにたたらを踏みそうになった。それを寸で
のところで止めたのは、長く積み重ねてきた経験によるものか。
 予断なく周囲を見回し、やはり空も木々も、一欠けらの花弁でさえ灰がこびり付いたように淀んだ
世界で、どうやら色のある存在は自分しかいないようだと結論付け、自分の手を見下ろしたところで
ぎょっとした。
 かさついて皺だらけの男の手は、どう考えても見た目麗しいものではない。しかし、それ以上に異
質だったのは、小指の先が何かが付着したように、灰色がかっている事だった。拭っても取れぬその
灰色は、小指の爪を覆うだけだったはずが、拭っているうちに第一関節までもを飲み込もうとしてい
る。
 広がっている。
 サンダウンはその事実に瞠目し、己がこの世界に飲まれかけているという事実を認識せざるをえな
かった。
 その事実に、当初こそ驚愕したものの、何処か納得した。
 サンダウンは、自分の中に言い知れぬ暗がりがある事を、自覚はしていた。それが良とされぬもの
である事も。そしてそれは、この世界に似た空気を持っている。ただ分からないのは、自分がどうし
て此処にいるのかという事だ。
 とうとう、己の中の闇に飲まれたのか。
 ふと思うと同時に、しかしそれは違うだろうと頭の中でもう一人の自分が呟いている。途端に脳裏
に閃いたのは、此処に来る間際まで確かに話をした、黒の賞金稼ぎだ。
 幻覚というには何もかもが本人であった、死んだはずの、サンダウンが撃ち殺したはずの賞金稼ぎ。
 理解しえぬ言葉を吐き、しかし確かに彼はこう言った。

『あんた請いに来たのさ。』

 あの男が、一体自分に何を請うというのだろう。賞金稼ぎであるマッドが己に請うたものといえば、
唯一、この首だけだった。しかしそれならば、サンダウンの理解しえぬ難解な言葉を綴る必要はない。
ただ、いつものように気障ったらしい台詞をつらつらと並べれば良いだけだ。
 ならば、一体何を請われていたのか。
 そしてマッドは、サンダウンが此処に閉じ込められる事が分かっているようなふうであった。
 腹の立つ男だ。
 サンダウンは、腹の底で、別段怒ってもいない様子で呟いた。
 あの男は生きていても死んでいても、或いはその両方であっても、とことんこちらを翻弄するのが
上手いらしい。こちらを追いかけているようでいて、実はまるでそれは本心ではなく、本音はまるで
別の場所にあり、むしろ今この状態がマッドの願うところであるというのなら。
 このまま、此処に閉ざされている事は、やはり腹立たしい。
 生と死の狭間にいるらしいマッドにも、生死を判別できずにその言葉を真に受けている自分も。
 だから、このままマッドの言い様に動かされているのは癪なので――奴が生者であれ死者であれ―
―サンダウンは何としてでも元の世界に戻る。戻って、サクセズ・タウンの傍らにあるマッドの墓を
暴いて確かめてやらなくては気が済まない。
 サンダウンが、この世界に呑み込まれる前に。
 踵を返し、世界を壊して元の世界に戻る為の方法を探そうとしたサンダウンの眼に、色あるものが
飛び込んできた。
 薄暗い不気味な小屋の前で、呑気に寝転がる派手な色合い。まだ少年らしい顔立ちは、けれども何
処か険がある。その額に鋭く置かれた十字の傷跡。それが、酷くくすんでいる。
 どうやら、己と同じ境遇に陥った存在が、この世界には、いるようだ。





 くすんだ世界の中央。いっそう灰が強く帯びている空の下、岩肌ばかりが広がる床の上、鬱金の髪
が揺れる。
 かつて剣を振るったその手には、今は如何に輝く剣もない。
 そういえば、魔王を倒す剣として手にあった勇者の剣も、何処かに消え失せてしまった。この国の
住人悉くを殺した時には、既に手元になかったような気がする。親友を殺した時は、確かにあったと
思うのだが。
 何処で落としたのか。
 ぼんやりと考えるが、すぐにその考えは霧散する。どうでも良いことだ、と。
 勇者として崇められ、しかし即座に引き摺り下ろされて魔王として石を投げつけられ、しかも親友
に裏切られ、婚約者であった王女でさえ己の前で自殺された彼にとって、一振りの剣など、どうでも
良い存在だった。
 そんな事よりも、大事なのはあらゆる時代から呼び寄せた、思い上がった人間共だ。
 自分が失ったものを全て手に入れ、そして悠々と生き抜く連中。彼らには敗れた者の気持ちなど分
かるまいし、当然のことながら彼らに奪われた存在など、地を這う蟻に対する意識すらも持っていな
いのだ。
 何もかもを奪われた自分だからこそ、そしてそれ故に開花した自分だからこそ、踏み躙られた者の
王として、むざむざと奴らを見過ごすわけにはいかない。この、何もかもを飛び越える力を行使し、
勝者と敗者の差を埋め、全てを公平にする。

「それなら、君も納得するだろう?」

 魔王は――オルステッドは岩の上に厳かに置かれた首に話しかける。
 岩の上に滝のように広がる紫紺の髪。真っ白な首は、喉元で鋭く滑らかに切り落とされており、し
かし血の一滴の汚れもない。鼻筋通った顔の中で、髪の色と同じ紫紺の眼が開かれて一点を見つめて
いる。しかしそこには意思はなく、蒼褪めた形の良い唇もひくりとも動かない。

「私に、敗者の気持ちなど分からないと告げた君よ。アリシア。こうして、あらゆる時代とあらゆる
場所を見つめ、そして蹂躙された者と、蹂躙する者を平らにする。ならば、君も私を許してくれるん
じゃないか?」

 するりと何も持たぬ手で王女の白い頬を撫でる。冷たく硬く凝る頬を、それはそれは、優しい手つ
きで。
 王女の睫は、動かない。ただ、そこに夜露でも溜まっていたのか、一筋、雫が滴っただけだった。
 それを見た瞬間に、オルステッドは先程までの落ち着いた声から一転して、激しく叫び出した。

「なんだって!君はやはり、まだまだ私を許さないのか!私には負けた者の気持ちなど分からないと!
やはり、全ての世界の敗者と勝者の差を埋めなくてはならないと!」

 王女の頬から手を離し、激しい身振り手振りで訴える。だが、王女の首からの返事はない。しかし、
オルステッドはそれだけで十分に自己完結した。

「良いだろう。あの連中に敗者の味を舐めつくさせた後、君の望む通り、更に世界を構成する為に、
私は全ての時間を此処に持ってこよう。そうして、全てが平等な世界へと更新しよう。」

 ぽたり、ぽたり、と王女の涙が零れ落ち続ける。
 それをオルステッドは優しく拭う。しかし涙が彼の行為を留める事はない。そしてオルステッドは
気づかない。
 王女の口元が、それこそが我が望みと言わんばかりに、微かに笑んでいる事に。
 そして、王女の眼に刻まれた文字に。
 ODIO、と。