サンダウンは馬を走らせる。
 向かう先には何もない。大地は相変わらず乾き切り、空は重々しいほどに青く頭上に圧し掛かる。
何も運ばない風だけが、こうこうと鼓膜を揺らす。
 行く手を阻むものは、何もない。
 そもそも、サンダウンの前に立ちはだかろうとする輩は、もとからいなかった。昔はそれなりにい
たような気もするが、サンダウンが彼らの心臓を撃ち抜くたびに、一人、また一人と足音は途絶えた。
そして、その最後の足音も、つい先日潰えたばかりだ。
 黒い賞金稼ぎの心臓を、一つの違いもなく撃ち抜いたのは。
 そしてそれは、確かにサンダウンが望んだことだった。
 命を狙われているだとか、そういう積み重ね一つ一つがあったとしても、自分に向かい来る足音を
遠ざけ潰したのは、サンダウンが望んだことだ。後悔したとしても、それはサンダウンがその時確か
に選んだことである以上、他の誰かを責める事は出来ない。
 まして、自分が殺した相手を。
 お前が、立ち向かってくるからだ、と言い放つ事は、サンダウンが賞金首であり相手が賞金稼ぎで
ある以上、出来ぬ言い訳だ。例えサンダウンの賞金首という肩書が、無辜であり自ら背負ったもので
あるとしても、だ。賞金首である以上、どんな言い訳も成り立たない。
 誰も現れない荒野の砂の上には、地面から突き出した岩の影だけが延々と立ち並んでいる。それら
は当然のことながら動かず、気配さえない。
 ただ、今にもその岩陰から、ひょっこりと姿を現しそうなくらい、あの黒い賞金稼ぎは自分に馴染
んでいたのだ。
 だから。

「よーう、しけた顔してんな。」

 唐突に、ひらりと地面の上に生えた黒い影に、サンダウンは冗談抜きで心臓が止まりそうになった。
 太陽は、サンダウンの真後ろにあるから、サンダウンの目の前に立つ姿は嫌でも良く見える。黒い
帽子、黒い服、腰に帯びた黒い銃。逆光でさえないのに、ただひたすらに突き抜けて黒い。そして、
ぽつりと点のように荒野に落とされているにも拘わらず、圧倒的な存在感を放つもの。
 ぎらり、と黒い眼が光る。
 それは、先日、サクセズ・タウンでの共闘の後、確かに自分が撃ち殺した賞金稼ぎ。

「おいおい、死んだ人間に会ったような面だな。」

 口元に刷かれた皮肉めいた笑み。
 何一つとして、死ぬ瞬間と変わらない。

「ま、あんたにとっちゃあ俺は死んだ事になってるから、当然っちゃあ当然か。」
「……誰だ。」

 死んだ人間が口を利いている。サンダウンは腰にある銃を確かめながら、己の妄想か、誰かの悪戯
かと見極めるように眼を細める。しかしその存在感が強烈過ぎて、幻覚や別人では有り得ない。
 賞金稼ぎの――マッド・ドッグの口角が、ますます吊り上がった。

「誰だ、だって?まさかこの俺様が誰か忘れたってのか?いくらあんたがおっさんでも、ぼけるには
まだ早いんじゃあねぇのか?」
「お前は私が殺したはず。」
「ああ、死んだ。この時代ではそういう事になっている。まあ根なし草を演じている以上、あそこま
で明確に死んだって事にする必要はなかったんだがな。」
「何を言っている……?」

 マッドの言葉は紛れもなく音も調べもマッドのものに違いなかったが、しかし内容それ自身は、マ
ッドが語っているとは思えないほど意味不明で、些かの明瞭さもなかった。気配が違っていれば、マ
ッドではないと信じるほどに。
 そしてマッドも、サンダウンが理解していない事は承知していたのだろう。

「理解してねぇって顔だな。ああ、今は理解する必要はねぇ。ただ、俺はあんたに請いに来たのさ。
少しばかり手を貸してくれってな。まあ、あんたが断っても、断らせねぇがな。あんたをODIOに
唾つけられるわけにはいかねぇからな。先に、俺が唾つけにきたのさ。」

 ODIO。
 似たような名前を、聞いたことがある。だがそれは、他ならぬ自分と、マッドで撃ち殺したはず。
 サンダウンの心裡を除いたかのように、マッドは頷く。

「ああ、あんたが思い当たる奴と、あながち無関係でもない。が、今はそんな事はどうだって良い。
とにかく、ODIOを殺す為に歪に耐性のある奴の手を借りなきゃならねえ。とりあえず、大体は見
繕って、あんたが最後だ。」

 本当は俺がどうにかしたいところなんだが、と不意にマッドの表情が顰められた。何か痛みを耐え
るような一瞬。だが、それはすぐに表情から消え失せる。

「俺は生憎と動けねぇ。あんた達に接触した後で、馬鹿を一人回収しないといけないんでな。それで、
俺の行動力は限界だ。まあ、すぐに回復はするんだが。その時には結論も出てるだろうよ。」
「……何を、言っている。」

 不可解なマッドの言葉を堰き止めようとしたサンダウンを、マッドが逆に堰き止める。  

「質問に答える暇はねぇし、質問する必要もねえ。もうすぐ、奴のほうからお前に接触する。それか
らあんたがどう動くのかは、あんた次第だ。結論が出た時、あんたが生きてたら説明してやるさ。」

 こちらからの質問もその時にな。
 囁くようなマッドの声に、反論する暇はなかった。転瞬、視界は一気に暗くなり、マッドの声とは
別の、地を這う声が脚元に忍び寄ってきた。

『……来たれよ……英雄の名声を得し者………。』





 鬱々と崩れていく世界の中、ストレイボウは虚ろな目で何もない空を見上げる。
 子供の声は遠くに離れ、滴る王女と自分の血も既に冷え切って感じられない。土と岩に半分埋もれ
た身体は動かせず、終末の瞬間を待つのみだ。
 結局、自分が引き金になったのか、と暗がりに転げ込む意識の中で思う。
 三年前、二十年前、自分があの時オルステッドに何の希望も抱かなければ、こんな事にはならなか
った。いや、それ以前にハッシュとウラヌスに殺されていれば良かったのだろうか。自分が死んでい
れば、少なくともODIOに乗っ取られる事はなかった。

『おい、聞こえるか。』

 闇の中に沈むストレイボウの脳裏に、マッドの声が直接響き渡った。
 自分が腹腔を焼き切った男の、案外元気そうな声に、ストレイボウはほとんど動かない表情筋で笑
う。

「……ああ、マッド。やはり生きていたか。」
『身体を飛ばせるほとじゃあねぇがな。まあ、身体を動かせばODIOの奴に動きがばれる。』

 だから、意識に直接話しかけているのだ。
 今のマッドは、果たして人間なのだろうか、それとも歪なのだろうか。ストレイボウはふと思い、
しかし無意味な疑問であると打ち消す。
 それよりも、マッドに話さなくてはならない事があるのだ。

「マッド、どうやら俺にはこれ以上の任務続行は不可能なようだ。」

 この任務に限らず、派遣員として動く事すら、覚束ないだろう。そう、自嘲気味にストレイボウは
伝える。

「派遣員になれるのは、歪化し、それを食い破った者。そうでない者を育成し、次期派遣員とする事
はあっても、その場合は歪の可能性が高い場所には派遣されない。だが、俺は、歪化したわけでもな
いのに派遣員としてルクレチアという歪の巣窟となりかけた場所に配属された。特例中の特例だ。俺
がそう望んだ。お前はそれを聞き入れてくれた。だが、それがこの様だ。」

 歪を食い潰せなかった者が、歪に、ODIOに対峙出来るわけがないのだ。あれに対抗できるのは、
心底から派遣員であるもののみだ。

「マッド、お前にはすまない事をした。この事態を、できれば俺の手で収集しするのが筋だろうが、
それは不可能なようだ。」

 ごぼり、と喉の奥から嫌な音がして、ストレイボウは口から血を吐いた。泡の湧き立つ赤は、信じ
られないほどに鮮やかだ。その色は肺からの血である事を示している。
 長くは保たない、とストレイボウは思う。

「ただ、あの子を――オルステッドを頼む。どうか、ODIOごと、破壊してくれ。」
『良いのか。』
「お前は、あの子が歪化する原因は、俺を拷問したハッシュとウラヌスが勇者や賢者と崇められてい
るからで、魔王との戦いで死んだ事になっている俺が蔑ろにされているからだろうと言ったな。だが、
俺はそうじゃないだろうと、思っている。あの子の親友としてあの子を見てきた俺が、そして父親で
ある俺が言うんだ、間違いないだろう。あの子は、きっと、元々、歪になりやすかったんだ。」

 オルステッドは自分の父親の事など覚えていなかった。ハッシュとウラヌスは確かに勇者と賢者と
言われていたが、しかし教皇庁から派遣されたという事になっているマッドによって、左遷され、国
の外れに追いやられたし、そもそも二人共教皇庁からの追及を恐れて反論もしなかった。
 ストレイボウが死んだ事に関しては戒厳令が出され、誰も真実を語らない。そもそも魔王討伐事態
が、ありはしたが、多くは語られない事象になっていたのだ。
 オルステッドへの眼差しは微かに奇異が残っていたが、しかしストレイボウに対する様々な容疑は
マッドにより晴らされており、少なくとも村八分にされたりという事はなかった。

「そもそも、誰も俺の事なんて覚えていなかった。俺が、眼の前にいるにもかかわらず、気が付かな
いんだ。この国の人間は、皆、そうなんだ。都合の良いことしか覚えられない。悪気はない。ただ、
それが当然だと思っている。オルステッドも、そうだ。」

 誰が歪となってもおかしくない国。それがルクレチアだ。それが、ただ、偶々、因縁深かったオル
ステッドであったというだけで。

「だから、やはり、あの時、俺ではなくオルステッドがお前に連れて行かれるべきだった。」
『だが、だからといって、この事態が回避できたとも、思えねぇがな。他の誰かが歪になるのが関の
山だろうよ。』
「そうかもしれない。それでも。」
『それに、お前は随分と最期まで俺を信用してくれているようだが。』

 マッドの声にノイズが入り始めた。いよいよ、限界だろう。

『俺が、ODIOを誘き出す為にお前達を餌にしたとか思わねぇのか。』

 ストレイボウは、微笑む。今度は上手く、筋肉が動いた。

「だったとしても、俺にはお前を責める事は出来ない。」

 仮にそうであったとしても、マッドのそれに乗ったのは自分だ。
 呟くストレイボウに、マッドの最期の言葉が届いた。

『身体は、回収してやる。』

 返事は出来なかった。頷くことも。

『……ストレイボウの死亡確認。遺体を回収する。』