ストレイボウは、マッドの消えた虚空を眺める。そこには焦げ付いた空気が漂うだけで、それ以外
の何らかの気配は何処にもない。
 三年前、ODIOの腹腔を撃ち抜いた男は、今度は逆に自らの腹腔を焼かれ、尻尾を巻いて逃げ出
した。
 ストレイボウの中で蟠るODIOが、哄笑する。
 今度は自分の勝ちだと。

「いいや、そんな事は。」

 ストレイボウは、必死になって言い募った。ODIOに侵食されつつある意識の中で、それでもO
DIOに反論する。まだ、何も終わっていないと。マッドは確実に、ODIOに一矢報いる瞬間を待
っている。その時が来るまで、まだ勝負は着いていない。
 それは、自分と何が違うのか。
 三年待ち続けたODIOと、それは何が違うというのか。

「マッドは、三年も、待ちはしないだろう。」

 ODIOの首を取るために、そんなに時間をかけようとはしないはず。マッドは、短期で全てを終
わらせる事を好んでいる。
 三年前のあの時も、マッドはただの一夜で全てを終わらせた。
 魔王のふりをしたODIOの前で、擦り切れた黒のローブを身に纏って、ただ二振りの剣を携えて。

「あの剣は、今でもこの地に存在している。あれは、マッドがお前の為に懸けた保険だ。」

 歪を断ち切る為の剣と、歪を収集する為の剣を。
 後者は、勇者の剣として、或いは魔王山の封印を解く為の剣としてオルステッドが持っていた。あ
れがあったから、歪の蟠りやすいルクレチアでも、あの剣が、ブライオンが歪を飲み込み今まで平静
でいられたのだ。
 しかし、ストレイボウが知る限り、今は、あれ一振りだけしかい。もう一振りは。歪を断ち切るエ
リアルは。

「きっと、マッドが何処かに隠している。」

 その瞬間をストレイボウは知らないけれど。
 ストレイボウが覚えているのは、ODIOに対峙した瞬間に倒れたハッシュとウラヌスの二つの身
体と、それを興味なさげに見下ろしているマッドが、それでもブライオンをハッシュの腕に持たせて
いるところだ。
 目覚めているストレイボウに、これが最後の会話だ、と笑いながら話すマッドは、その手に記憶改
竄用のライトを持っていた。このライトを見た人間は、記憶を失うのだと。
 マッドが描いた筋書きは、ルクレチアで語られている通りの話だ。ハッシュとウラヌスが魔王を倒
し、王妃を救い出した。ただ、マッドは此処にストレイボウも含めるつもりだった。そして代わりに、
ルクレチアからはオルステッドが消える予定だった。
 今、魔王として歪として開花しようとしているオルステッドを。そうならぬように。
 貴様の所為だ、とODIOが囁く。
 お前が、オルステッドが時代から失せる事に耐えられなかったから。どうせお前の記憶からも消え
てしまうのに。

「そうだとも、私の所為だ。」

 だが、マッドはその心情を汲み、代わりにストレイボウをルクレチアから消し去った。
 ただし、ストレイボウがいたという痕跡は残して。ストレイボウが魔王山で死んだという事にして。

「オルステッドから、私の記憶を消してしまえば良かったのに。」

 だがそうなってしまうと、無理な記憶改竄になってしまうから、不可能だったのだろう。
 ストレイボウは既に、ルクレチアに根を張ってしまっていた存在だったから。死んだ、という事に
するだけのほうが楽だったのだろう事は、想像に難くない。
 だが、それら全てが仇になった。

「どうせ、お前もお前の息子も、俺の駒だ。」

 ストレイボウの口から、ODIOの声が漏れる。口は醜いほどに裂けて微笑み、剃刀色の眼は遠く
ルクレチアの城を眺める。
 もうすぐ、あの象牙の城からは煙と炎が立ち昇る。まだオルステッドは何かにしがみついて、歪に
成り切れてはいないが、それもこの魔王山で終わりだ。

「ODIO」
「なんだ、まだ意識があるのか。」

 零れるすとれいぼうの声に、ODIOは嘲る。

「……きっとこれで最後だ。これが、最後の質問だ。ODIO、お前は一体今まで何処にいた?」
「あらゆる時代、あらゆる場所に。」

 だが、一番長らくいたのは。

「この国の王女の腹の中だ。」

 途端、ストレイボウの口からは、ああ、と悲嘆に暮れたような声が零れ、それっきり闇の中に落ち
た。





 管理室に警報が鳴り響く。
 派遣員達は総立ちで、モニタを見つめるが、モニタは黒くノイズが走ったっきり、何も映し出さな
い。

「おい、キャプテン・スクエア!何が起きてんだ!」

 無法松が今此処にいるであろう人工知能を怒鳴りつける。
 マッドがストレイボウに腹を焼き切られた瞬間、モニタを途絶えさせた人工知能は、ノイズ混じり
に答える。

『マッド・ドッグとの接続が、外部からの障害により強制終了されました。』
「外部からの障害だと?!」
『マッドの言葉から判断するに、おそらくODIOです。』

 ここ最近、延々と続いていた歪の発現に、ODIOが絡んでいる事は理解していた。そしてルクレ
チアというODIOとの因縁が深い場所においては、やはりODIOが何処かに絡んでいるであろう
事も。
 しかし、ストレイボウがワタナベを破壊した事も、マッドを攻撃した事もODIOによるものであ
るという事は。

「ODIOがストレイボウを乗っ取ったという事かね?」

 老師の言葉に、人工知能は、おそらくは、と答える。
 その答えにざきが頷く。

「ODIOがマッドに直接、接触してきたという事か。ストレイボウの意識を奪って。こちらからの
介入を防いだという事は、あの場においてODIOはマッドに何らかの落とし前を着けようと考えて
いるという事だな。」
「おい、マッドの野郎は大丈夫なんだろうな。」

 腹を焼かれたマッド・ドッグの安否は、しかし接続できぬ以上こちらからは分からない。

「ストレイボウとの接続もできないのか?」
『先程からルクレチア全土での接続が不可能になっています。何が起きたのか、把握はできません。』

 此方側の介入を一切許さぬODIOは、ルクレチアを寝床とするつもりなのだろう。ルクレチアを
思い通りに作り直し、そしてルクレチアを起点として時空に広がるつもりなのだ。

「いや、待て。」

 老師がふと気が付いたように呟く。

「ルクレチア以外にもワタナベは置いてあったはずだ。その中のいずれかをルクレチアに向かわせ、
そこから接続すればいい。」

 まさかあの時代全てとの接続が不可能というわけではないだろう?
 老師の言葉に、キャプテン・スクエアは即座にルクレチア周辺にあるワタナベとの接続を始める。

『ワタナベとの接続に成功しました。これより、ワタナベをルクレチアに向かわせます。』
「といっても壊れてしまっては意味がないからね。ルクレチア近くで待機させ、状況確認をさせるん
だ。」
『了解……ワタナベが指定位置に転移……………?』

 その時、有り得ぬ話だが、人工知能であるキャプテン・スクエアから、はっきりと困惑めいたもの
が伝わってきた。

「どうした?」
『ワタナベの転移を確認。転移位置にずれを確認。ルクレチアの位置が不定になっています。時空の
狭間とルクレチアの接続を確認。』
「何?」

 キャプテン・スクエアの困惑と驚愕が、人間達にも伝わってきた。

『ルクレチアと時空の狭間が接続しています。これにより、ルクレチアが全ての時空と接続可能に。
遺失物もルクレチアに流れ込む恐れがあります。』

 やられた、と誰かが呟いた。
 ルクレチアと時空の狭間が接続されれば、ルクレチアの歪はあらゆる時代あらゆる場所へと伝播す
る。全ての時空にODIOの影響が流れ着く。

「これが、ODIOの目的だ。」

 あらゆる時代がルクレチアという時間軸に収束され、ODIOを介して全ての時代に再び広がる。
ただし広がった時代はODIOの毒牙が滴っており、全てがODIOの思うがままだ。
 くそ、と無法松が吐き捨てる。

「おい、俺もルクレチアに行くぜ。俺ならテレポートでルクレチアに入れる!」
「いや、駄目だ。」

 今にも飛び出そうとする無法松を止めたのは、ざきだった。

「なんでだ?!俺なら接続は関係なしに『飛べる』んだぜ?」
「その代わり、お前はODIOとの親和性がこの中で一番高い。ODIOだって、お前の能力くらい
覚えているだろうから、何らかの対策をしているだろうな。」

 それに、とざきは無法松と老師を見比べる。

「テレポート関係なく、俺達は歪として時空を捻じ曲げる事が出来る。それを、ただ、許されていな
いだけで。だが、こういう不測の事態の場合は、おそらくそれに縋ろうとするだろう。」

 派遣員は必ず何処かで、歪と遭遇し、そこから放たれた電波を受け取り、或いは己自身が歪化し、
しかし最終的には歪を逆に飲み込んだ存在だ。だから、歪に対する耐性がある。今回の、ストレイボ
ウのような状況は、本当にごくごく稀なのだ。
 歪を飲み込んだ彼らは、腹の底に歪の力を抱え、ただし歪を使わぬように自主規制している。
 だが、今回のようなごくごく稀な事態が起こった緊急事態の場合は、規制を解除している。少なく
ともマッドはそうしているはずだ。
 つまり、

「俺達に出来る事は、マッドだって出来るっていう事だ。マッドは、おそらく反撃に移っている。」