男を解放し、そして魔王の元に同行させる事をハッシュとウラヌスは頑なに拒んだ。未だ如何なる
嫌疑も晴れぬまま、牢から出すのは危険だ、と言って。
 しかし、一方で、男を魔王の元に向かわせる事には心が動いたようだ。ただし、自分達もついてい
くという条件を付けた上で、だが。大方、魔王退治の肩書が付く事に魅力を感じたのだろう。
 男はといえば、牢から出して貰える事は有り難かったが、しかし魔王の元に向かう事には、何故、
と思っていた。
 確かに、魔王の嫌疑をかけられた者が、その魔王の元に対面する事は、ある意味、身の潔白を証明
するようなものだろうが。しかし、魔王の正体はマッドの言い分を聞く限り、なんと言おうと王と王
妃におもねり、王宮の隅々までその影を巡らせたあの不気味な輩だ。あの輩が、果たして、男は己と
は関係ないと言うだろうか。むしろ、関係性を仄めかすような事を言いはしないだろうか。そしてま
た、ハッシュとウラヌス、そして王も、それを心の薄暗いところで望んではいまいか。
 しかし危惧する男の隣で、マッドが問題ない、と告げる。

「こいつの嫌疑は、今日此処に俺がいる事で晴れているようなもんだ。何処に引っ張り出したって恥
ずかしくねぇさ。むしろ、延々魔女狩り的な事をしていたてめぇらのほうが、俺としては恥知らずな
んだが。」

 教皇の威光を帯びたマッドの言葉に、ウラヌスはおろか、ハッシュもしどろもどろになった。
 妙だな、と男は痣だらけの身体を抱えて、マッドの言葉を聞く。この時代、魔女狩りが横行してい
たのは周知の事実であり、それを率先して行っていたのは他ならぬ教会だ。自分達の威光を守る為に、
そして金銭的な絡みもあって、無辜の人々を火炙りにしていったではないか。
 そう思って、マッドの端正な横顔を見れば、マッドの顔には幾分の揺るぎもない。

「まさかこの俺が、魔女狩りが行われてる事を知らねぇだなんて思うなよ。魔女狩りが行われている
事は、教皇ご本人もご存じだ。そして、あまりにも行き過ぎた事態に、なんとか正したいとも思って
いる。俺は、その為に遣わされたのさ。」

 擦り切れたローブ。それは、各地を転々としてきた、その証か。

「しかし、この男の嫌疑が晴れていない以上、そうやすやすと檻から出すわけにはいかない。」

 なおも言い募ったのはウラヌスだ。ウラヌスこそが、男を悪魔に魂を売り渡し、魔王をこの地に呼
び寄せたのだと言い放った張本人なのだから、己の咎をそう簡単に認めるわけにはいかないのだろう。
 ウラヌスは男に向き直ると、既に失われた威厳を無理やりに取り繕い、言い放った。

「お前の息子は、お前の潔白が証明されるまで預からせてもらう。」

 唐突な言葉に眼を見開いた。牢から出されてはいたが、未だ息子には会えていない。辛うじて聞こ
える泣き声だけが、救いだった。それならば、いっそ自分は牢に繋がれ、息子だけは解放されたほう
が良い。
 そう伝えようと口を開いたのを、マッドが制する。

「ただし、おかしな真似はするんじゃねぇぜ。こいつの子供に、てめぇらが指一本でも触れてみろ。
その瞬間に炎の槍が、てめぇらの腸を貫くぜ。」

 マッドの声には、確かに呪いの色があった。
 ハッシュは気が付かなかっただろうが、ウラヌスは流石に気が付いたのだろう。渋い顔で頷く。

「とにかく、さっさと済まそうぜ。俺は一秒たりとも奴を野放しにしておく気はねぇ。てめぇらの準
備なんぞくそくらえ。もう出発するからな。」

 何の準備もしてねぇのなら尻尾巻いて逃げな。

「まあ、王妃が魔王に攫われたんだ。取り返すための準備くらい、しているよなぁ?」

 もちろん、していない。
 マッドもそれを分かっているから、冷ややかな皮肉を放ったのだ。





「ストレイボウ。」

 瓦礫の上で、マッドの声がする。
 その声に、ストレイボウは問いで返す。

「マッド、あの時、何故あの子を助けなかった?」

 まだ、産まれたばかりの俺の息子を。牢から出された時に。
 問いかけには責める色はなく、また問われたマッドも後ろめたさなど微塵もない顔で、ストレイボ
ウの顔を覗き込む。

「助けて、それで何処に置けと?」

 あの時、ストレイボウの家族は悉く囚われていた。ストレイボウが魔王と関係しているという話は
ルクレチア全土に広がっており、仮にあの時、オルステッドを解放したとしても怯えた村人達に殺さ
れる可能性が高かった。

「一番安全なのは、あの、檻の中だ。」

 だから、マッドは助けなかった。
 ならば、とストレイボウは再び問いかける。

「どうして俺の意見を飲んだ?」

 三年前、二十年前、ODIOを退けた折に、マッドはオルステッドを連れて行く、と言った。此処
に置いておくと、ODIOに利用される可能性が高いから、と言って。
 それを懇願して否定したのはストレイボウだ。
 まだ幼い我が子を一体何処へ連れ去るのかと、黒のローブを身に纏ったマッドに――今思い返せば、
ルクレチアにおいて真の勇者がいたのはあの時だけだった――取り縋った。代わりに自分を、と差し
出したストレイボウに、マッドは眉間の皺を寄せた。
 そうして、ストレイボウに質問を投げかけたのだ。
 時空の果てに向かう者への、あの、問いかけだ。
 全てを捨てて、誰もかもから忘れ去られて、時の最奥、全ての物事が収束する場所に永遠囚われる
覚悟があるか、と。
 ストレイボウは答えた。
 息子の代わりに、俺が、と。
 だから。

「ああ、分かっている。」

 問いかけて、ストレイボウはしかし自分で答えを見つけた。

「俺が、頼んだからだな。」
「お前にも、歪の兆候はあったからな。でなけりゃ無視したさ。」

 いずれにせよお前達親子はODIOに眼を付けられていたからな。
 マッドの静かな答えに、ストレイボウは力なく笑った。

「お前の家族全員を保護できりゃそれが一番だったんだろうが、それをするのは少々難しい。お前の
血筋を絶やす必要があった。あの状況なら、お前を悪魔と通じているとして、処刑させるという形に
持って行けたかもしれねぇが。」
「だが、俺だけをそんな特別扱いする事は出来ない。それに、俺と、あの子以外には、歪と戦うだけ
の術がなかったんだろう?」
「ああ。」

 歪に抵抗するには、歪への耐性を持っていなくてはならない。

「ストレイボウ。」

 マッドはもう一度、今現在の彼の名前を呼んだ。

「俺はオルステッドを斃しに行く。だが、その前に、何があった。ODIOに会ったのか?」
「ODIOには会っていない。ただ、そう、あれはおそらく、奴の残滓。二十年前と――三年前と同
じように、魔王が王女を攫った。魔王討伐に向かったのも、あの時と同じで、ハッシュとウラヌスと、
そして俺と。ただ、お前がいなかった。代わりにあの子が。」

 この場所で。
 魔王を、おそらくはODIOの残滓を、倒した。
 けれども所詮それは残滓でしかなく、けれどもODIOの刃は確かにオルステッドに突き刺さった。

「俺の時はお前がいた。お前は確かに俺達を救った。だが今回、お前はいなかった。俺は誰も救えな
い。お前がいれば、と思わずにはいられないし、あの時のお前が俺達全員を救ってくれていれば、と
も思う。」

 呟くストレイボウの傍らで、不意にマッドが弾かれたように顔を上げる。そして、その眉間にはい
つになく、険しい皺が寄っていた。

「ストレイボウ。悪いが、これ以上長々と話している暇はなさそうだ。」

 ルクレチアの王宮から、どろりと流れ込んでくる風。そこに漂う気配は、今までと比べ物にならな
い。
 そう、ODIOの気配だ。
 ODIO本人が、この国に確かに潜んでいる。

「奴とオルステッドは既に接触している。ODIOはオルステッドと同化しようと、最後の楔を打ち
込むはずだ。その前に、俺は止めを刺しに行く。」

 同時に、濃くなったのは傍らの気配。
 マッドは咄嗟に飛び退ったが、その時にはストレイボウの身体は陽炎のように立ち上がっている。

「駄目だ、あの子だけは。」

 剃刀色の眼の中に踊ったODIOの文字。
 気が付かなかった。三年間の間、ODIOは進化を遂げていた。マッドの嗅覚から逃れる術を、身
に着けていた。
 ストレイボウの手の中に翻ったどす黒い炎。それは狙い過たず、マッドの腹腔を焼き切った。

「お前が勇者であっても、あの子は、この俺が。」

 父親としての最後の意識を、ストレイボウが呻く。その背後に聞こえたODIOの嘲笑と、そして
キャプテン・スクエアの警報。だが、それもODIOに強制終了されている。

『詰めが甘いな、マッド・ドッグ。」

 この私が、三年間、気配を変えずにいたと思うのか。
 久しぶりに聞いたODIOの声と同時に、再び翻った黒い炎に、マッドは痛みに一瞬飛びかけた意
識を無理やりに繋ぎ止め、嗤う。

「それはどうかな。」

 キャプテン・スクエアとの接続は絶たれ、転送は望むべくもない。ODIOはそう判断しているの
だろうか。だとしたらそれも大間違いだ。
 ODIOは三年のうちに進化した。
 マッドはこの数十年間、何も変わっていない。
 歪になった時から、何も。ただ、それを誰の前でも見せなかっただけで。
 ODIOの炎が再度降りかかるその間際、マッドは無理やり時空の壁を抉じ開ける。歪であった頃
に残された、マッド本人の力で。これをする事は、許されてはいないのだが。しかし今はそれを言っ
ている時ではない。
 ルクレチアはODIOによって隔絶するだろう。キャプテン・スクエアとの接続が絶たれている今、
他の派遣員との通信も破壊されている。マッドは、歪として無理やりに時空を捻じ曲げ、この時代の
ルクレチアに自分の代わりに動ける存在を呼びこまねばならない。
 呼ばなくては。
 だが、誰を。
 狭間の中で、既に候補は決まっていた。