鈍色の格子の向こうで蹲る男の前に、黒々とした影が振り落ちた。
 男の全身には打撲とも、鞭打ちの跡とも思える夥しい痣が残っており、それらは碌に手当てもされ
ずに放置され、どす黒く変色し始めている。冷たく、黴臭く、お世辞にも綺麗とは言えない床の上に
転がされた状態で、それでも男は己を苛む痛みよりも、何処かに連れて行かれた息子の身を案じてい
た。
 床に耳を付け、息を潜めれば、まだ、産まれたばかりの息子の泣き声が、微かに聞こえる。泣いて
いる事に胸騒ぎを覚えつつも、しかし、まだ生きている事に安堵の吐息が零れた。
 自分の子供でさえなければ。
 魔法使いという、異端者の子供でさえなければ。
 いや、それ以前に、魔王を名乗る異形さえ現れて、王妃を攫わなければ。
 いや、むしろ。
 男は、王宮の明かりに照らされた、その隅に追いやられた暗がりで蠢く影を思い出す。後宮にまで
足を踏み入れる事を許された、あの、謎めいた人物。
 自分と同じ魔法使いに似て、しかし道化師のようにも騙り、語り継がれた聖人のような謎めいた笑
みを湛えた、あの、存在。
 ふらりとルクレチアに現れ、そして最初は誰の手にも負えなかった病人を、一人、二人と癒してみ
せた。その噂は瞬く間に広まった時には、誰も見た事がないような奇妙な光であちこちを照らし出し、
夜を昼に変えてみせた。その噂は王宮にまで届いた時、冬だというのにあちこちに花が咲き乱れるよ
うになった。
 魔法か、奇跡か。
 村人達は眼を輝かせ、僧侶達は聖性を問う。そして王や王妃にはそんな事はどうでも良かった。た
だ、飽きの来ない、同時に自分達を豊かにする者が現れたのだ。すぐに召し抱えて、王宮の深く深く
にまで入る事を許した。
 だが、男には、それが酷く危険な香りにしか見えなかったのだ。
 己の杞憂は、ただの嫉妬かとも思った。己よりも勝る存在を前にして、危機感を抱いているのかと。
しかしそうではなく、あの、何もかもを飛び越えたような眼差しに、そしてその奥に灯る嘲りと破滅
を喜ぶ石のような光に、本能が激しく拒否感を呈したのだ。
 そして、男の心裡は、その者には手に取るように分かっていたのだろう。
 弱者を甚振るのは、間違いなくそれの本質だ。
 男は謀反を企てていると謂れ無き罪を背負わされ、産まれたばかりの息子共々、牢に投げ込まれた。
光差さぬ、暴力だけが落とされる床の上、男の頭上を滑ったのは王妃が魔王に攫われたという言葉の
み。
 牢に囚われた男には、まるで身に覚えのない話に、しかし拷問は苛烈を極めた。
 さながらそれは、魔女狩りのよう。
 今しも、白状せねば息子の命はないと告げられたばかりで、とうとう知らぬ罪を認めようと口を開
いたその折に、牢屋の闇よりもなお深い黒が、影を落としたのだ。

「そいつは魔王じゃねぇぜ。拷問するってのはお門違いってもんだ。」

 まるで歌うような美しい声音で、まるで無教養な言葉遣いが吐き出される。
 己の目の前で止まった硬い足音に、男は顔を僅かに持ち上げて、歪む視界の中で声の主を探す。

「誰だ、貴様は!」

 ハッシュとかいう名前の獄卒の野太い声が、闇の中で反響して酷く聞こえにくい。一方、ハッシュ
の残響に物怖じする事もなく、美しい声音は無意味な反響もないまま、すっきりと答えた。

「魔王を追いかけて此処までやって来た旅の者さ。あの魔王は、とあるやんごとない家系で封じ込め
られていたものなんだが、お家騒動のどさくさで無調法者が手に負えもしないのに、自分に事を有利
に進めようと封印を解いちまったものでな。この俺様が仕方なく退治に来たってとこさ。」

 淀み一つない言葉に、しかしハッシュは噛みつく。そのような言葉信じられない、と。やんごとな
い家系を騙る愚か者かもしれぬと喚く、普段は騎士の鎧を被った獄卒は、美しい声でさえ甚振る相手
と見做しているのかもしれない。
 だが、その声に、第三の声が割り込む。

「ハッシュ、ハッシュ。止めんか。」

 しわがれた初老の声も、ハッシュと同じく牢屋の中で何度も聞いた声だ。ハッシュのように暴力を 
振るうのではなく、神の言葉を並べ立てて責めたてる。息子がどうなっても良いのかと問うたのも、
この老司祭だった。
 まるでハッシュに足りぬ物を補うように拷問を繰り返してきたウラヌスとかいう司祭が、今になっ
て何故ハッシュを止めるような事を口にしたのか。

「この方は教皇庁からの祓い師だ。滅多なことを口にするな。」

 教皇庁、という言葉に、流石のハッシュもひくりと肩を震わせて動きを止めた。教皇庁と言えば、
教会の総本山だ。教会に属して神への賛美を行うものなら、誰しもが平伏し、許しを請う。ルクレチ
アも小国とは言え、当然のことながらウラヌスを筆頭とした教会を有している。
 そういう事だ、と、黒い影が首を竦める。冷ややかさを帯びた声は、掌を翻したハッシュへの嘲り
か。

「この俺様が、そいつと魔王は無関係だって言ってんだ。さっさと拷問を止めねぇか。」

 でなけりゃルクレチアは無辜の罪人に暴力を振るう国だって報告されても致し方ねぇ。
 はたり、とハッシュの手から鞭が落とされる。現金なものだ。己よりも強い者には、平気で媚び諂
う。だから、拷問なんて事も、平気で出来るのだろうが。
 呻く男の前で、あまりにも繊細で長い指が、無造作に牢屋の鍵を押し開く。錆びついた音には似つ
かわしくないその指先が、ひたり、と頬に触れた。

「おい、立てるか。」

 声は、既に無様なハッシュにもウラヌスにも、幾分の興味も抱いておらず、完全無欠の無視を呈す
る。代わりに、痣だらけの罪人に手を差し伸べた。
 見上げた先で、きらり、と一対の眼が煌めく。黒の中、微かな光でさえ閉じ込めて、銀の矢のよう
に輝く。
 まだ若い男の顔に、問いかけた。

「………お前は?」

 先程、教皇庁の祓い師である事は聞いたが。
 若者の擦り切れた黒いローブを眼の端で追いかけながら、その輪郭を見定めようと目を凝らす。教
皇庁の祓い師とは思えぬほどに粗末な服装に、何よりも一つの十字も持たない。代わりに、腰に帯び
た二振りの剣が、物々しい気配を帯びている。
 罪人の視線など意にもかけず、若者は薄く口元に笑みを刷き、柔らかな声で答えた。

「俺はマッドだ。そう、呼ばれている。」

 これが、三年前――ルクレチアでは二十年前――マッドと出会った時の初めて交わした言葉だ。




 男を牢から出す事に、ハッシュとウラヌスは抵抗した。
 教皇庁の祓い師の言葉があるとはいえ、まだ謀反の疑いが消えたわけではない、と。
 しかし、マッドはそれを鼻先で一蹴した。

「俺が追いかけている魔王というのは。」

 歌うように王座の前でくるくると歩き回りながら告げる。

「美しく、人を癒す手を持ち、夜を昼に変え、そして冬場であろうと花咲かせる輩なんだが。」

 そういった奴に見覚えは?
 舞台に立つ俳優のように問いかける祓い師に、玉座の王が、ぐ、と言葉に詰まる。王妃を攫われた
事を、無辜の罪人を捕まえて日がな拷問するという事で気を紛らわせていた王でさえ、教皇庁の威光
を無視する事は出来ないらしい。
 いや、それよりも、マッドの口にした輩に、ルクレチアの人間は諸人挙って心当たりがあった。
 男を陥れた、あの不可思議な存在である。

「だ、だがあやつは、我等の生活を豊かにしてくれた。」

 実りの薄いルクレチアを、冬でも花咲き誇る国にした。
 しかしその言葉は、マッドには哀れの極みであったらしい。

「そりゃあ、今から食い散らかす家畜を、肥え太らせねぇ奴はいねぇだろ。」

 あれは、全てを食い潰すものだ、とマッドは告げる。男の危惧こそ、正しいものであったのだ、と。
 まるで全てを救うような天使のような顔をして、それは最後には悉くを食い潰していくのだ。悪魔
こそが、我々の考える天使の美しい姿をしているのと同じで、それもまた隣人の顔をしてこちらを叩
き潰す瞬間を夢見ているのだ。

「奴はODIO。延々、この世界を転がり続け、ひたすらに己の口に欲望のままに獲物を詰め込み、
けれど食い潰した瞬間に不要と成して腹から吐き出す存在だ。」

 俺は、奴を斃さなくてはならない。
 最後、吐き捨てたマッドの言葉に、一瞬鋭い険が閃いた。