八つ目の鐘が鳴り響いた。
 マッドはその残響を追いかけながら、視界の隅にサンダウン・キッドを捉え、その様子を窺う。
 相変わらず、飄々とした横顔だった。壮年の、年齢以上に経験を物語る皺と、何を考えて何処を捉
えているのか分からない青色の眼が、いつもと同じ無表情を作り上げている。一見すれば、達観の極
みにあり、その腹の底に何もかもに飛び火する、時空さえも歪める蟠りがあるとは思えない。
 だが、とマッドは網膜の裏に映るサンダウンの歪の値を眺める。それはやはり、依然として高い数
値を保っている。それ以上は高まりはしないが、しかし下がる気配もない。
 八つの鐘の余韻さえも消えた酒場では、町の住人達が戦々恐々とした表情で、サンダウンとマッド
を見つめている。
 夜明け――八つの鐘と同時に、O.ディオ率いるクレイジー・バンチとやらが攻め込んでくるのだ。
今まで自分達を蹂躙してきたならず者連中に、とうとう歯向かうのだ。歯向かう事による報復と、し
かし上手くいけば長年の圧政から解放されるという期待が綯い交ぜになり、彼らは無言で凍り付いて
いる。
 マッドは、サンダウンを視界から弾き、町の外に耳を澄ます。

『マッド・ドッグ。』

 耳の奥に、周囲の誰にも聞こえていない、時空の果てにいるキャプテン・スクエアの声が響く。

『町の外にて、ワタナベの破壊を確認しました。時空の歪が発現しています。速やかに対応を。』

 ああ、とマッドは頷く。
 傍目に見れば、ただ、首を動かしただけに見えただろう。マッドは他の誰にも分からない、彼の同
僚に向けて、喉の奥で話しかける。

「……急いで、終わらせるさ。」

 もしかしたら、O.ディオの歪によって、サンダウンの中の歪も発現するかもしれないけれど、そ
れでもマッドは、早くこの時代での任務を一旦は切り上げなくてはならない。

「……ストレイボウの状態は?」
『依然、反応がありません。』

 ルクレチアで歪の認知センサであるワタナベを破壊したストレイボウについては、マッドは即座に
帰還命令を出した。しかし、ストレイボウはそれに反応せず、依然ルクレチアに留まり続けている。
 マッド以外の派遣員がストレイボウと接触しようと、何度も応答を呼び掛けているが、それらも全
て無視されている状態だ。

「聞こえてねぇのか?」
『聴覚センサに異常はありません。敢えて、こちらを無視しているのかと。これ以上、帰還命令を無
視すれば強制送還の必要も出てきます。』
「だが、それは現状はできそうにねぇな。」

 呟いた瞬間、マッドの眼はサンダウンのそれとぶつかった。キャプテン・スクエアと話をしている
マッドを、何か咎めるような、怪訝なような眼でサンダウンは見ている。
 キャプテン・スクエアの声はサンダウンには届いていない。ならば、マッドがまた独り言を言って
いると思っているのか。
 酒場の外では、何かの破裂音や転がる音、それに混じって悲鳴が聞こえる。罠がうまく作動してい
るのだ。マッドの独り言よりも、そちらのほうが重要だろうに、とマッドは呆れる。
 それとも、と、口元に微かな笑みを刷いてやりながら、思う。
 歪としての本能が、サンダウンのマッドへの警戒心を高めているのだろうか。だとしたら、それは
それで、危険なことなのだが。
 サンダウンの視線がこちらを見ている間も、マッドは喉の奥でキャプテン・スクエアと話す。もし
もサンダウンが己の中の歪としての存在を広げているのならば、マッドとキャプテン・スクエアの会
話も、聞こえたりしているのだろうか。

「………いずれにせよ、今の状況だとストレイボウは回収できない。俺が戻るまでは、全員でストレ
イボウの動向を監視しろ。」
『派遣員からは、今すぐに貴方の帰還を要求する声もありますが。」
「それは。」

 マッドはサンダウンの眼を見返しながら、呟いた。

「できねぇな。」
『O.ディオの破壊をしたら、速やかに、と。』
「それなら構わねぇんだが。」

 しかし、サンダウンの中の歪次第だ。
 サンダウンの中の歪が発現し、そしてそれがサクセズ・タウンを飲み込んでしまうほどに強大に広
がるものならば、すぐには帰れないかもしれない。
 マッドが呟き終ると同時に、酒場の外から濁声が扉を貫いて広がった。

「出てきやがれぇっ!」

 ならず者の――O.ディオの、歪の声だ。歪の声が、空気を伝わって周囲に伝播し始めている。元
々観応しやすかった町の住人達は竦み上がり、ともすれば寝返りそうな気配を出し始めている。そう
やって、歪は仲間を増やし、広がっていく。
 そしてサンダウンは。
 表情一つ変えずに、扉の向こうを見ている。獲物を捕らえる獣の意気込みさえ、感じられない。

「行くぞ、マッド。」

 ただ、声に、滲むような炎が行き渡っている。そこからは、歪の気配は微塵もない。低い男の、深
淵で波打つ炎が孕んでいるだけだ。
 マッドはその声に、ゆっくりと眼の焦点を合わせ、はっきりとサンダウンを見る。そして、青い眼
の奥に、声に孕むのと同じ揺らぎを見つけて、いつも通りに皮肉げな笑みを浮かべた。

「ああ。ディオの面を拝みにな。」

 そしてサンダウンの魂が、どちらに転がり落ちるのかを見届ける為に。





 扉の外で、ガトリングを構えていた男は、巨大だった。
 背が高いというのとは違い、ただやたら滅多に強大だった。逞しいといえば聞こえはいいが、一方
で鈍重にも見える。
 そして、何故だか、隣にいる賞金稼ぎは、それを知っているように見えた。巨躯のほうも、賞金稼
ぎを知っているようだった。
 そういう素振りをしているわけではないのに、そうとわかるのは、どういうわけだろうか。
 サンダウンは内心で首を傾げる。
 話を聞いている限りでは、マッドはO.ディオというならず者の事は知らないようだった。賞金首
ではないのかもしれないが、マッドは賞金首以外の事も良く知っている。それが知らないのだから、
この辺境の町でのみ、暴君として知られる存在なのだろうと思っていた。
 だが、何故だろうか。O.ディオと対峙した時、確かにマッドはその男を知っているのだろうとい
う気がしたのだ。O.ディオもまた然り。
 そういえば、マッドはずっと独り言を言っていた。思えばその時から、妙な違和感があったのだ。
マッドは独り言が癖だと言っていたが、これまでマッドがそんな癖を見せたことがあっただろうか。
勿論、言うほどマッドと一緒にいた時間が長いわけではない。邂逅するのは乾いた大地の上で、荒野
であったり町中であったりしても、邂逅している時間が一日を超えた事はない。
 そう思えば、夜を明かした昨日から今日にかけては、随分と長い間一緒にいたのだ。
 だから、気づかない癖に気づいたとでも言うのだろうか。確かに点でしか会った事はないが、しか
し点と点を繋ぎ合わせればそれは随分と長くなるはず。その線上で、マッドが独り言を言った事など
無きに等しい。
 今日が、初めてだ。
 お前は、O.ディオを知っているのか。
 O.ディオと対峙しながら、サンダウンは隣にいるマッドに無言で問う。だが、声になっていない
疑問に、返事が返ってくるはずもない。
 だから、サンダウンは立て続けに無言の問いを続ける。
 向こうは、お前を知っているのか。唐突に見せた独り言は、O.ディオが関わっているのか。関わ
っているとしたら、お前は何を企んでいるのか。
 そして。

 ――さっさと済ませて、そっちに戻る。

 あの独り言は。
 お前は、何処に行こうとしている。