町の住人達に罠を仕掛けさせる。そうすることで、自分達の町を自分達で守らせる。マッドは、こ
の町を歪からの侵食を防ぐために、そういう手段を取った。
 マッドの時間軸で三年前、ルクレチアでODIOと対峙した時、ルクレチアの国民は、誰一人とし
て我関せずとして、歪に抵抗しようともしなかった。誰かが助けてくれるだろうという考えのもと、
彼らはのうのうと生活していた。
 それでも、マッドはODIOを撃退することが出来たが、あの国には未だに歪が根を張っている。
 何処かで、歪に対抗する存在が産まれるのではないかと、自分達と手を組み、歪を治める人々が現
れるのではないかという期待を持っているが故に、一方で根付いた歪を自発的にあの国の人々が倒そ
うとはしないだろうという諦観を持っているが故に、ルクレチアには、ストレイボウが監視の為に張
り付いている。

『マッド・ドッグ。O.ディオの遺伝子の採取、分析に成功しました。』

 町の人々の働きぶりを眺めているマッドの耳に、キャプテン・スクエアの声が届く。マッドにしか
聞こえぬ声に、マッドは、どうだった、と問う。

『貴方の推測は当たっていました。O.ディオの遺伝子は、人間ではありません。馬です。』
「馬。」

 キャプテン・スクエアの淡々とした答えに、マッドは少しだけ眼を見開いて答えを繰り返したが、
すぐに眼の大きさは元に戻る。馬が人間になった、など、歪に関わっている以上、有り得ない事では
ないからだ。
「……出自までは分からねぇか。」
『そこまでは遺伝情報からは読み取れません。』
「だろうな。」

 キャプテン・スクエアのにべもない返事に、マッドも期待していなかったのか、短く返す。

「ワタナベはどうしてる。」
『サクセズ・タウンに順調に向かっています。午前五時三十二分、誤差プラスマイナス七分に、サク
セズ・タウン西口に到着します。』
「夜明けとともに、か。」

 それは、O.ディオがこの町に攻め入ってくる時刻だ。その時、O.ディオの中にある歪が発現す
るのだ。
 一方で、サンダウン・キッドの中で渦巻いている、もう一つの歪はどうなるだろうか。
 歪は伝播する。
 普通の人間ならば踏み躙って終わりだが、歪を感知しやすい人間――精神的に弱っていたり、既に
内々に歪を孕んでいる場合は。同時に、そちらの歪も発現しはしないだろうか。サンダウン・キッド
の歪の潜在値は、依然高い水準を保っている。いつ、発現してもおかしくない。
 一度に二つの歪が発現する。
 これまでに、なかったわけではない。
 治められないこともない。

「キャプテン・スクエア。」

 マッドが再び口を開いた時、耳の奥で鋭い警報が鳴り響いた。マッドにだけ聞こえる警報は、時空
の果て、キャプテン・スクエアがいる場所で、何かを訴えている。

「キャプテン・スクエア、何があった。」

 自分の用件は後回しにして、ひとまず、警報の意味を問う。最近立て続けに起こる警報に、マッド
は少しばかりうんざりしていた。
 これも、ODIOの仕業だろうか――。
 些か、げんなりとした声で、問い返せば、キャプテン・スクエアの相変わらず平坦な機械音声が、
何が起きたのかを告げる。

『ルクレチアにて、ワタナベの破壊を確認しました。』

 素っ気なさすぎる声は、状況を告げるにはあまりにもそぐわなさすぎた。マッドの眼は、今度こそ
大きく見開かれ、元に戻らない。
 何、と問えば、キャプテン・スクエアからは同じ答えが返ってくる。

「ルクレチアだと?歪が発現したのか。」

 確かに、歪の発現しやすい場所だった。
 かつて、ODIOに支配されかけた国。
 だから、ストレイボウがそこにいる。

「ストレイボウから、連絡は?」

 ルクレチアで歪を監視していたのはストレイボウだ。彼は、半ばそれを望む形で、その国に派遣さ
れた。
 三年前――ルクレチアの時間軸ならば二十年前、魔王としてその地を支配しようとしたODIOを
討伐しようと編成された部隊に、魔法使いとして参加したストレイボウは、ODIOの残した歪を完
全に費やす為、テンプルに入った。
 彼は、ひたすらに歪の発現を、誰よりも注意深く監視してきたはず。
 キャプテン・スクエアからの返答に、ごく僅かだか、ラグがあった。もしも人工知能に困惑という
ものがあったなら、今のキャプテン・スクエアが正にその状況だった。

『マッド・ドッグ。ルクレチアのワタナベ父は破壊されました。その後、ワタナベ子から送られてき
た情報を、貴方に転送します。』

 マッドの網膜に、直接ワタナベの情報データが映し出される。
 それは、一枚の映像データだった。
 そこに映っていたのは、壊されたワタナベ父。そして、壊したのは、

『マッド・ドッグ。ワタナベ父を破壊したのはストレイボウです。ストレイボウを含む、ルクレチア
全土への対応の入力を要求します。』





 長年、自分を追いかけてきた賞金稼ぎが、カウンターに凭れて何かをぶつぶつと呟いている。良く
は聞き取れない。
 いつもは、けたたましいほどに大声を張り上げる癖に、今はやけに大人しく、喉の奥だけで何かを
呟いている。眉間にも、いつにない皺が刻まれ、妙に厳しい表情をしていた。
 彼でも、緊張する事があるのか。
 生死など微塵も気にかけていないような男の、顰められた表情にサンダウンは少しだけ驚く。
 もしかしてとは思うが、夜明けと共に襲い来るならず者に、恐れをなしたわけではないだろうな。
彼に限って、そんな事はないとは思うが。

「マッド。」

 低く、一言名を呼べば、黒い眼がゆっくりとした動きでこちらを見た。

「なんだよ。」

 いつも通りの声が届くのに、サンダウンは返事をする。

「何を、一人でぶつぶつ言っている。」

 言いたい事があるのなら、さっさと言え。
 もしかしたら、サンダウンに対して言いたいことではないのかもしれないが。
 すると、マッドの表情から眉間の皺が消え、代わりにいつも通りの皮肉めいた笑みが口元に乗る。

「あん?てめぇに何か言いたいことがあるのかもしれねぇって?随分と俺を意識してくれてるもんだ
な。だが生憎と、あんたには用はねぇよ。ただの独り言さ。」

 優雅な手つきで葉巻を咥え、火を点ける。
 ふぅ、と吐き出した煙で暗い空気の中に模様を描き、

「一人でうろつく所為か、独り言がどうにも多くなっちまった。あんたはそんな事ねぇか?」

 ない。
 短く答えてやると、へぇ、と眼がちらりとこちらを面白がるように見る。

「あんたが、そう思ってるだけで、意外とペラペラ喋ってるかもしれねぇぜ。」

 過去も、腹の内に抱えてるものも。
 す、と切れ長の黒い眼が、何もかもを知っているのだ、と言わんばかりに細められる。ぎらり、と
灯った光に、サンダウンは咄嗟に眼を背けた。
 この男の、この眼が、苦手だ。
 しかし一方で、この眼に何か焦がれるものがあるのも、また事実だ。自分の内々が白日の下に曝さ
れるという恐怖と、それが一瞬で焼き尽くされてしまうのではという期待と。両方が天秤の上で揺れ
ている。
 耳に、鐘の音が届いた。
 マッドが、また、少し顔を顰める。
 時間がねぇな。
 サンダウンに聞こえない声で、マッドが呟いている。しかしそれは、今度ははっきりとサンダウン
にも聞き取れた。
 さっさと済ませて、そっちに向かう。
 囁きでさえない声に、サンダウンはその意味が分からず、分からないままにマッドの聞こえない声
は鐘の残響に掻き消された。