隣の厩にいた馬が、いつの間にか飼葉桶と共に姿を消していた。
  しかし、概ね奇妙な行動をする傾向にある馬の事だから、放っておいてもその内戻ってくるだろ
 うと思い、特に騒ぐでもなく、もっしゃもっしゃと己の飼葉桶に口を突っ込んでいた。
  すると、案の定、しばらく経ってから飼葉桶を口に咥えた状態で、件の奇妙な行動をする傾向に
 ある黒馬が、音もなく空から落ちるようにして現れた。
  先程までと同じように隣の厩に落ち着いた黒馬は、しかし元来の性質が煩い所為か、生憎と馬自
 体が落ち着いている状態とは言い難かった。




  B面





  ふん、と何か自慢げに鼻を鳴らした黒い馬は、賎しく口に咥えていた飼葉桶を藁の敷かれた地面
 に下ろす。
  何処に行っていたのかは知らないが、何処であろうとも飼葉桶を持っていこうとする食い意地に
 はいっそ驚嘆する。
  そう思い見ていると、黒い馬が、彼の主人よりも少し浅い黒い眼でこちらを見た。

 「何見てんだ、茶色い馬の分際で。」
 「……茶色い馬など何処にでもいるだろう。それに対していちいち分際を言っていたら、お前はこ
  の荒野で生きていけないぞ。」
 「うるせぇ。だったら小汚い茶色いおっさんを乗せた茶色い馬とでも、詳細に言ってやりゃあ良い
  のか。」

  黒馬の乱暴な物言いに、けれども茶色いと称された馬は動じない。少しばかり痩せているが、し
 かし脚の形も首から背にかけての線も引き締まっている様は、黒馬の言い様とは異なり、それなり
 に良い馬であった。
  ただ、その背に乗せている彼の主人が、茶色い小汚い中年である事は、残念ながら誰にも否定で
 きないし、愛馬である彼自身も擁護するつもりはない。
  なので、黒い馬の言い分に口を閉ざし、沈黙を持って答えた彼に、黒い馬はそれ見た事かと偉そ
 うな態度をとる。

 「大体俺は、御主人のような荒野を代表する男前が、あんな小汚い荒野の保護色みたいな恰好をし
  たおっさんを追いかける事は反対なんだ。御主人の命令だから、あのおっさんとあんたを見かけ
  たら全力で追いかけるけどな。本当は明後日の方向を向いて走り出したいんだぜ。」

  っていうか、なんでてめぇが、この厩にいるんだ。
  黒い馬は、今更、そんな事を言い始める。この厩で最初に顔を合わせた時も、同じようなやり取
 りをしたではないか。何処か、宙に消えた場所に行っている間に、その時の記憶も失ってしまった
 のか。
  呆れたような眼差しで見ていると、なんだよその眼は、とむっつりとした声が返ってくる。
  眼付きの悪い視線を受け流し、何処に行っていた、と問う。特に興味があったわけではないが。
 すると、再びの鼻息。

 「てめぇには関係ねぇだろ。この俺様の交友関係をなんでてめぇに言わなきゃならねぇんだ。」
 「………いきなり連れ去るような交友関係、か。」
 「喧しいわ。そもそもあいつらは別に友達でもなんでもねぇ。」

  だったら、交友関係ではないだろう。
  そう思ったが、敢えて口にはしなかった。
  どうせ、通常の馬同士のような関係ではなく、碌な交友関係ではないだろう。関わるだけ無駄で
 ある。

 「ただ、奴らが興味深い事を言ってたな。」
 「……………。」

  黙って、飼葉を食んでいると、黒馬は勝手に喋り出す。こういうところは、この馬の主人である
 賞金稼ぎにそっくりである。黙っているという事が出来ないのだろうか。
  こちらのそんな思いは全く通じていないのか、黒馬は続ける。

 「今年は、馬の年なんだとよ。」
 「…………なんだ、それは。」
 「だから、馬の年。即ち、この俺様の年。」

    何故だか、物凄く自慢げに言われた。
  だが。

 「馬の年なら、別にお前だけの年ではないだろう。この世界に一体どれだけの馬がいるかは知らん
  が、その馬全部の年だろう。」

  勿論、そう言っている茶色い馬も含めて、である。
  だが、黒い馬は舌打ちして反論する。

 「何言ってやがる。馬と言えば、この俺様の事だろうが。」

  そんな話聞いた事もない。
  そもそも。

 「一度、馬を止めて人間だった時期があるくせに、何を馬の代表のような顔をしている。」
 「それはそれ!これはこれ!大体、俺はてめぇの茶色いおっさんが茶色代表と思い込んでるみてぇ
  に、馬の代表面した事はねぇぞ!」
 「たった今、馬と言えば自分と言ったのを忘れたのか。」
 「うるせぇ。確かにそうだが、俺はてめぇの茶色のおっさんみたく、立場を一人占めするつもりは
  ねぇんだよ。」

  何せ、俺には御主人がいるからな。
  と、いきなり、貞淑な妻ならぬ、貞淑な愛馬の顔をし始めた。この黒馬、己が主人の事となると、  
 やけに献身的になる。基本的に馬は、己の主人には献身的なもので、一度、主と決めた人間の事は
 決して忘れない。
  だが、この黒馬の場合、一度人間になったという経緯があり、なまじ頭が良い所為か、それとも
 人間らしい感情が混ざりすぎている所為か、主人に対して屈服している傾向にある。

 「俺の年って事は、御主人の年って事だ。そういう事だ。だから本年を独占するのは、勿論御主人
  だ。それなら誰も異論はあるめぇ。」
 「異論云々はともかくとして、どうしてそうなった。」

  馬の年なのに、何故、人間であるこの馬の主人である賞金稼ぎの年になってしまうのか。
  すると、黒馬は、当然の顔で鼻を鳴らす。

 「何言ってやがる。俺の物は御主人の物。御主人の物は御主人の物。」

  一聞すると、ジャイアニズム溢れる台詞に聞こえる。だが、冷静に良く聞いてみると。

 「………傲岸不遜な口調で、献身的な言葉を吐くな。」

  結局は、主人に対する献身である。
  しかし、黒い馬はそれで良いらしい。もしかしたら、意地汚く己で囲っている飼葉桶も、あの黒
 い賞金稼ぎが一言命じれば、泣く泣くではあるが素直に差し出すかもしれない。
  それほどまでに、完全に屈服しているのだ。
  一体、何があって、そこまで服従しているのかは知らないが。
  馬刺しにでもされかけたか。
  一番有り得そうな想像をして、多分本当にそうなんだろうな、と頷いた。