疑いなど、微塵もなかったのだ。
  そういうふうに生きてきたし、そういうふうに生きるのが当然だと信じていた。それが忍びの生
 き様であり、それに疑問の余地を挟む事は、即ち裏切りと同義だった。
  それに、忍びだからといって、何も悉くが闇に落ちているわけでもない。
  親兄弟だってちゃんといたし、師もいれば競い合う友もいた。
  確かに、他の者たちから見れば、その生き方は後ろ指を差されるようなものだったかもしれない。
 けれども、その生き方は主君を守るため、引いては領民を守るためのものだ。主命に忠実であり、
 それ故に血を被るのは仕方のない事だった。むしろ、主命を果たせぬ事は、後ろ指を差されるより
 も、ずっと罪が重い。
  役目によっては、失敗すればその地に暮らす人々全てを危険に曝すと言っても過言ではない事も
 あるのだ。
  幼い頃から、それは幾度となく繰り返し言い聞かされていた事だったし、実際に任務に失敗した
 者の――それ以上に任務の途中で逃げ出したり、もっと言えば裏切ったりした者への処罰はが想像
 に絶する事は、良く知っていた。
  いつの間にか見えなくなっていた、兄のように慕っていた忍。
  彼が消えた夜、子供達は皆屋敷から出ぬようにと言い聞かされていた。きっと、その夜に、密や
 かに、けれども非情なほど怜悧に、処罰が行われたのだ。裏切り者には墓もない。彼がどうなった
 のかは全く分からないけれど、一つの荷物さえ残らぬ消え様に、それ相応の罪があったのだ。それ
 が分かるようになったのは、自らも抜け忍の始末をするようになってからだけれど。
  そしてその時には、自分の生き様に一切の疑いも持たぬようになっていた。
  骨の髄まで、忍になったのだ。
  しかし、その耳にさえ、彼の人の声は蟲惑的に聞こえた。

 『一緒にいかんか。』

  閉じ込められていた時の、一見するとひ弱そうに見える姿からは考えられぬほどに、その眼は明
 瞭な意志と、そして不思議なほどにこちら側の心を掴み取るような声をしていた。
  おぼろ丸が聞いていたのは、この任務は要人の救出という事だけだった。それ以上の詮索は忍に
 は不要であったし、要人とやらをみてとてもではないが要人に見えずとも、それを顔に出したり、
 まして口にするなどもっての外だった。
  おぼろ丸は淡々と、任務さえこなせばそれで良い。
  それこそが、おぼろ丸に求められていた事だった。
  だから、助け出した男になど、興味を示さぬが当然であったのだが。捕らわれていた男に対する
 各々の反応は、まさにその人が要人たるに相応しく、それどころか得体の知れぬ機巧人形にその皮
 を張りつけて、国政に絡もうとまでする思惑があるのを知れば、やはりそれ相応の人物なのだろう
 と知れた。
  それに、その、強いものの撓められた眼が。
  黒々とした眼は、月夜の道をひっそり歩くような忍から見ても、気持ちをそそるものがあった。
 もしかしたら、その気質こそが、この男の一番の武器だったのかもしれない。剣の腕やら弁の達者
 などよりも、人の気持ちを掴む上手さこそが、この国を泥の中に沈めようとする者達にとっては、
 一番の不安材料であったのだろう。
  国を沈没させる一番の方法は、内部から離反者を出す事だ。そうやって切り崩していく任務を、
 おぼろ丸も請け負った事がある。その仕事の際に邪魔になるのが、言葉一つで人々の信頼を得る者
 だ。その者の言葉だけで、せっかく離反させようとしていた人物が留まってしまう事も多い。だか
 ら、最初に潰してしまわなくては。
  きっと、その事もおぼろ丸が属する忍の頭も分かっていたのだろう。だから、男の誘いに乗った
 おぼろ丸に眼を瞑ったのだ。
  本来ならば、例え後に正式に依頼が来るとは言え、それよりも先に忍一個人が勝手に誘いに乗る
 などあってはならない。下手をすれば、厳しい忍の里ではそれだけで処罰対象となってしまう。
  それが今回に当たっては対象外となったのは、やはり男がそれだけ重要な人物であったからだろ
 う。
  そうして、おぼろ丸は、坂本と名乗る男の護衛を任じられたのだ。
  硬い檻に自らを閉じ込めていたこの国を開かせ、武士の時代が終焉を迎える先端を歩いている男
 を、無事に次の時代に送り届ける為に。

  だが。

  眼の前で脳天から噴き上がった血に、言葉を失った。その奥では坂本と話をしていた男が、無言
 で床に伏せっている。その下にも赤い血溜まりが広がり、畳の節と節の間に模様を描いていた。
  おぼろ丸に気配を感じさせず、おぼろ丸のクナイを平然と避けてのけた賊を、おぼろ丸は信じら
 れない思いで見る。忍である自分に気付かれない、それどころかおぼろ丸の存在に気付いていたと
 しか思えないこの賊は、一体。
  いや、そんな事よりも。
  月に照りかえされた白刃の直撃を受けた坂本を慌てて見やれば、噴き上がった血は治まりつつあ
 った。だが、ぼたぼたと畳の上に垂れた赤い滴の中に、はっきりと脳漿があるのが見て取れ、もは
 や手遅れであると知れる。
  それが、おぼろ丸を再び打ちのめした。
  忍として近付く相手に気付かなかった上に攻撃も全て見切られ、挙句、任務に失敗したなど。
  まして、みすみす死なせてしまった相手は、この国の一角を担うはずだった人物だ。紛れもなく、
 これは国の転覆だ。おぼろ丸はそれを阻止できなかったのだ。
  こんなに、近くにいておきながら。
  愕然としたおぼろ丸を、賊は一瞥すると、おぼろ丸を打ちのめした事を誇るでもなく、己が任務
 は果たしたと言わんばかりに背を向けてひらりと逃げていく。
  あまりの事に我を忘れていたおぼろ丸は、せめて賊を捕まえねばと思い至った時には、その背は
 酷く遠くに見えていた。それでも、と駆け出そうとする脚を、ぐっと引き止める力が動いた。はっ
 として見れば、坂本の手が静かにおぼろ丸を引き止めていた。
  まだ息があった事が驚きだ。
  跪いて、蘇生の為の何らかの手立てを講じれないものかと手を伸ばすが、その傷の深さから、や
 はり手遅れであると噛み締めるしかない。
  項垂れ、苦鳴を今にも零しそうなおぼろ丸を、坂本は恐らくもはや見えてもいないであろう眼を
 向けた。その眼は、今にも命潰えそうだというのに、いつも通りに強い意志が撓んでいた。そして、
 口元には小さな笑みが。
  まるで、こうなる事など分かっていたのだと言わんばかりに。
  だから、悔しむ必要はないのだ、と。
  力ない手が、あやすように跪いたおぼろ丸の膝を、ぽんぽんと叩いた。それが、最期だった。