この道を歩むはずではなかったのだ、と、幾度か思った事がある。

 


  父親が死んで、妹と二人きりになった。
  その時、アキラはこれまでの生活を捨てなくてはならなかった。父親が死んだ時、既に母親は亡
 く、けれども妹を養うほどアキラは長じていなかった。ただ漠然と、倒れた父親の物言わぬ身体か
 ら流れる血を見て、これから血の繋がらぬ他人の中で、妹と二人で生きていかねばならないのだと
 思った。
  ちびっこハウスという施設の事が、嫌いなわけではない。
  今よりもずっと浅はかだったアキラが思い描く施設とは、白く冷たく、磨かれた廊下の上を無言
 で養護員達が行き交い、その隙間を子供達も黙りこくって息をしているような、そんな場所だった。
 もしかしたら、妹と離れ離れになってしまうかもしれないとさえ考えた。もしもそんな事になった
 ら、何としてでも阻止するか、妹と二人で逃げ出すのだとまで考えていた。
  だが、実際にアキラが入れられた施設は、少し汚れていて、壁にはあちこちに落書きがあり、子
 供達の声が喧しく、それを叱る妙子の声が響くような場所だった。そこではアキラは妹と離れ離れ
 になってしまう事はなく、毎日顔を合わせていた。
  そう、ちびっこハウスでの生活は、アキラが思っていたほど、悪くはなかった。
  けれども、だったら父親がいた頃の生活とどちらが良かったのかと問われれば、間違いなく父親
 がいた時のほうが良いと答える。
  父親の死というのは、アキラの中には未だに根強く残っている。その時に発芽した超能力は、ど
 う考えてもその時のショックが原因だろう。その超能力がなくなる代わりに父親が戻って来るとい
 うのなら、アキラは喜んで超能力など差し出すだろう。
  それはまだ幼い妹の為でもあるし、やはりアキラ自身の為でもあった。
  アキラとて、父親を失った当時は、まだ甘え残る子供だったのだ。むろんそれは今でも変わらな
 いのかもしれないが、けれども父親という絶対的に自分達の味方になってくれる存在が、どうして
 も欲しいという時が、必ずあった。
  園長や妙子は、確かに優しかった。けれども、同時に公正でもあった。そして彼らは独り占めで
 きる存在ではなかった。全てに分け隔てなく優しい彼らは、それはこういった施設では当然の行動
 をしているだけで、なんの落ち度もない。だが、それは父親を失ったばかりのアキラにとっては、
 酷く物悲しい事に思えたのだ。
  それにアキラはちびっこハウスでは年長者だ。嫌が応にも、我慢というものを強いられる。妹が
 いるから、ある程度は耐えられるが、一度に大勢の年下の我儘に付き合う事は理不尽に思えた。だ
 が、それが施設のルールなのだ。
  しかし、ルールだと割り切れる時もあれば、割り切れない時もある。そういう時に、必ずこんな
 場所には来たくなかったと思うのだ。こんな道、歩きたくはなかった、と。
  ただ、アキラを少しばかり特別扱いしてくれる、父親のような兄の存在はいたが。

  それが、父親を殺した張本人だなんて。
  こんな道を歩かせた、その発端だなんて。

  それを皮肉と言うべきなのかどうなのか、アキラには分からない。ショックではあった。だが、
 それによって自暴自棄になるほどではなかった。
  それは、ただただ、真実を知らされた状況が状況だったからかもしれない。そんな過去の怒りや
 悲しみよりも、眼の前に迫る危機のほうが、重要な時だったから。何よりも、真実と同時に、憎む
 べき、けれども父親のようであり兄のようであった存在は、別の存在に奪われてしまったから。
  だから、悲しむ暇も呆然とする暇も、冷静に考えて怒りを抱く相手を特定する事だって出来なか
 った。
  あの時、アキラはもしかしたら、言いようのない感情を怒りに置き換えて、目前にいた敵にそれ
 をぶつけただけだったのかもしれない。
  しかし、それを後になって考える時にはもう、アキラはそれを振り返る余裕がないくらいの生活
 に追われている。

  あの日。
  無法松が罪を告白して、そのまま帰らぬ人となったあの日。
  それは、父親が死んだ時と同じ、一つの旅の区切りを示していた。
  父親が死んだ時は、最も安心できる庇護下から放り出されて、画一的な優しさだけを享受すると
 いう旅の始まりだった。
     そして無法松が死んだあの日。あれは、アキラに齎されていた贖罪という名前の庇護が消えた事
 を意味している。つまりアキラは、今度こそ本当に、父親も兄も失ったのだ。即ち、追いかけるべ
 き背中を失った事になる。そしてこの事に対して、こんな道は選んでいないと叫び甘える相手はい
 ないのだ。
  だが、とアキラは、無法松から譲り受けたハーレーに跨りながら、思う。
  きっと、いつかもう一度、旅の終わりがやってくる。それは、今はまだ静かに降り注いでいる画
 一的な優しさが消える時。後数年もすれば、アキラは全ての保護下から放たれる。ちびっこハウス
 にいつまでも居座る事は出来ず、アキラは誰よりも真っ先に飛び立たなくてはならない。
  その時は、ほとんど、目前に迫っていると言っても過言ではない。
  まだ何も決めていないアキラにとって、恐らく卒業までの日数は、飛ぶように駆けていくだろう。
 いつか、アキラはこの場所にはいてはならない存在となる。
  その後の事は、全く分からない。何処に根差すのかも、何処に帰れば良いのかも。

  それでも。

  いつでも帰って来て良いのだ、と。

  誰かが教えてくれたような気がした。