あの時、自分の旅は一度終わったのだ。

  


    親の顔は知らない。
  気がついた時には、一人朽ちかけた塀とそこに立て掛けられた薄汚い木材の間で、凍えを払い落
 していた。傍には如何なる温もりもなく、一番寒い夜には白い雪の明かりだけで暖を取ろうと考え
 るしかなかった。
  自分が何処から来たのか、それすら分からない。
  ただ唯一分かるのは、自分の古くて擦り切れた衣服に刻まれた名前だけだった。元は赤だったの
 かもしれない、色褪せたその布には、辛うじて読める程度の黒い糸で刺繍が刻まれている。それが
 示す名前。よくよく考えればそれは、自分の名前でさえなかったのかもしれない。自分の着ている
 衣服が誰のものなのか、それすら知らないのだ。自分の物なのかもしれないし、自分の親の物なの
 かもしれない。或いは、誰かの物を親が盗んでそれを着せられているのかもしれない。
  だが、それ以外に名前を知らなかったから、白い雪の中で古びた木材だけを住処として身を丸く
 する少女は、黒い刺繍を自分の名とする事にした。
  それを自分の名としたところで、誰に迷惑をかけるわけでもない。
  何故なら、少女の名を呼ぶものなど、この世に誰一人としていなかったのだ。
  親もおらず、仲間もいない少女は、誰にも名前を呼ばれる事はなかった。生きていく為に彼女が
 動く時、様々な人間が彼女の事を呼んだけれど。
  食べる物がなければ死んでしまう。だから奪った、盗んだ。そういう時、少女の細い背中には、
 『泥棒猫』という名前が浴びせかけられる。
  良からぬ事を企む大人の手から、暴れて逃げ出した時は、『この小娘が』と怒鳴られた。もしく
 は『糞餓鬼が』と。
  様々な罵声と共に、少女にはその罵声に見合った名前が投げつけられる。そのほとんどが悪意か
 ら敵意からくる名前で、少女には一片の温もりも与えなかった。むしろ、時には暴力さえあった。
 頬を刃物で傷つけられた時などは『化け物』とまで呼ばれたのだ。
  相手が何にそんなに怒り、敵意に満ちた眼差しを向けたのか、そんな事少女は既に覚えていない。
 そもそも、向けられる敵意が多すぎて、それら一つ一つに何らかの感情を抱くには、少女の世界は
 あまりにも荒廃していた。
  擦れ違う同じ年頃の少女が着飾っているのを見ても、妬みさえ起こらないほどに。
  そんな中で、辛うじて黒い刺繍の名前だけが、敵意のない名前だった。そこにあるのは温もりで
 もなかったかもしれないけれど、しかしひっそりと衣服に縫い止められた名前を自分のものだと思
 う事で、少なくとも誰かが自分に確固たる名を付けてくれたのだと思う事が出来た。
  その名前を忘れないように、少女はひっそりと自分の名前を一人囁き続けた。誰にも名乗る事の
 ない、誰にも知られない名前だった。

 『レイ。』

  その名をはっきりと呼んだのは、一人の老人だった。どれほどの年齢かも分からないくらい年寄
 りで、小さくて、レイよりも身長が低いのではないかと思うくらい皺くちゃだった。
  けれども、荒みきって生きてきたレイをいとも簡単に仕留め、そうした上で弟子にした。
  その時から、レイの名をしっかりと呼ぶ人間が、一気に広がった。

 『レイ。』
 『レイさん。』

  自分と同じくらいの年の、兄弟弟子。
  彼らと暮らすようになって、レイの旅は確かに一度そこで終わりを告げたのだ。名前の無い少女
 の旅は終わり、レイという名前の人間としての道を歩き始めた。
  修行をして、毎日三食食べて、自分の分の洗濯をして。そこで、レイは初めて人間の生活という
 ものの中に入ったような気がする。全ては知識として知っていたけれど、その知識の中に飛び込ん
 で体験する事など、一度もなかった。
  それを繰り返すたびに、いつかこれが終わるのではないかという恐怖と、このまま続くのだとい
 う相反する考えが湧き起こって来る。前者は経験からくる予測で、後者はあどけない期待だ。
  そしてこういう時、必ず裏切られるのは期待だ。
  崩れた兄弟弟子と、それを追うようにして飛び立っていった師。
  全てを終えて戻ってきた道場の中には、今や誰一人としていない。既に、レイの名を呼ぶ者は何
 処にもいないのだ。いや、探せばいるのかもしれないが、それをするにはレイは自分の使命を嫌と
 言うほど自覚していた。そんな事をしている暇などないのだ、と。
  今や、此処には、レイ一人しかいないのだ。
  ならば成すべき事など、一つしかないではないか。
  レイがレイという名で呼ばれた時間は、その人生の中では圧倒的に少なかった。これから、レイ
 は自分の名を改めなくてはならない。
  心山拳の名を継ぐ唯一の者として。




  ただ、遠い世界の何処かで、確かに彼女の名を覚えている者はいるのだ、と。