世界は緑に包まれていた。
  木々は太く逞しく、その枝から枝に飛び移る動物達は甲高い鳴き声を上げ、木々の根の上では巨
 大な生物がうっそりと移動していた。
  石を磨いて作った槍を手にした人々が息を潜めて太い幹の間に隠れ、巨大な生物が地面に仕掛け
 た罠に掛かるのを今か今かと待ちわびている。
  彼らに混じって石槍を握り締めた少年は、若くして手に入れた妻の事を思いながら、彼女の胃袋
 を満たす為にも、眼の前を横切る毛の長い巨大生物を仕留めなくてはならなかった。それは、別に
 彼に限った事ではない。この場にいる全員が、自分の或いは家族の胃袋を満たす為に、獲物を仕留
 めなくてはならなかった。
  だが、食料について、切羽詰まっているわけではない。
  眼の前にいる生物を仕留める事が出来れば、この場にいる全員の家族の胃袋を満たす事が出来る
 のは事実だ。しかし、仕留められなくても今日の夕飯にありつけないわけではない。彼らは既に小
 さな生物は幾つか仕留めているし、木々の新芽や果実も集めている。だから、この生物が仕留めら
 れなくても、何ら困る事はない。
  ただ、出来る限り仕留めておきたいというのが本音だ。獲物は多いに越した事はない。あれを仕
 留める事によって、夕飯は一気に豪勢なものとなるだろうし、明日の狩りを休む事だって出来る。
  けれども、彼らのそんな願いに反して、巨大生物は長い鼻で枝葉を千切っては口に運んでいたが、
 もう十分に満腹になっていたのか、のっそりと踵を返すと、来た道を戻り始めた。勿論、罠になど
 少しも脚を踏み入れていない。
  全くの無傷で森の奥深くに戻っていく巨大生物に、狩人達は顔を見合わせ、苦笑いをした。
  そんなに上手く行くわけがない。
  落胆はしたが、まあ明日も獲物はいるさ、と肩を竦めて他の獲物を担いで、村へと戻る準備を始
 める。
  その様子に悲壮感がないのは、この地が良く肥えた地であり、食料となる動物も植物も沢山いる
 からだ。一度の狩りに失敗したとしても、獲物はたっぷりといるし、果実も腹を満たすほど生って
 いる。
  緑の絶えぬこの地で、飢えは一番起こり得ない死の条件だった。病や怪我で死ぬ事はあっても、
 飢餓で死ぬ事はほとんどない。
  年中花が咲き乱れ、獣が駆け回り、森に入れば何らかの果実がある。
  その地で生きていく事が、彼らには生まれた時から定められた事実であり、それを破る事など起
 こり得ない。
  常盤色の珍しい髪をした少年とて、それは変わらない。その長くはない人生の間で、部族間同士
 の衝突やら、見た事もない硬い鱗で覆われた巨大生物と戦わねばならない事はあったが、それらは
 全て、この豊かな大地の上で起こった事。美しい妻を手にれる事が叶ったのも、この大地の上の事
 だ。
  きっと、これからも様々な事が起こりえるだろうが、豊かな大地の上でならば、なんとしてでも
 生きていけるのだ。




  真っ白な何か、で世界は覆われている。
  それがいつ起こったのか、ポゴには判断できない。何年もこの大地の上で生きてきたが、こんな
 事は初めてだったし、先日亡くなった長老もこんな事は起きた事がないと言って息を引き取った。
  最初は、咲き誇る花が、次々と萎れていった。次に、緑色の葉が静かに色づいては、力尽きるよ
 うに落ちていった。大地を覆う草も砂のような色に変色して萎びていった時、空から白いものが降
 ってきたのだ。その時には、温かかったはずの周囲は、何かを身に纏わなければ外に出られないほ
 ど冷たくなっていた。
  緑の森は茶色の塊に変貌し、そこから聞こえてきた鳥の声はいつしか絶えて久しい。動物の姿も
 ほとんど見当たらず、稀に毛の長い巨大生物が現れる程度となった。
  以前のような、弛まず吐き出されるような食糧は望めない。巨大生物は仕留めるには難しい相手
 で、大がかりな罠を作らねばならないが、全てが白く埋め尽くされた大地では、罠を作るのも身を
 隠すのも難しかった。
  また、それを仕留められたとしても、肉の分け合いに争いが起きる。それによって、数人が命を
 落とした事もある。そして狩人を失った家族もまた、その先には死しか残されていない。
  弱い者が、まず死んでいった。
  食糧不足だけではなく、寒さに耐えられず、病人、生まれたばかりの子供、老人が。そして、狩
 りの出来ぬ弱い男達と、それに守られていた家族が。そして争いによって、狩人達も死んでいく。
  幸いにして、ポゴはどうにか家族を守りながら生きていく事が出来た。
  けれども、無二の友人であったゴリとその家族は、この地を捨てて何処かに行ってしまった。
  もしかしたら、その後を追うべきだったのかもしれない。ポゴは今になって、あの聡い獣を思う。
 彼らは、もしかしたら、新たな土地を見つけているのかもしれない。その場所を知っていたのかも
 しれない。
  だが、身重だった妻を長旅に連れていくわけにはいかず、こうして白く冷たい物に囲われた洞窟
 で身を寄せ合って生きている。
  以前のように外を駆けまわる事もなく、いつ自分達に訪れるとも知れない飢餓に怯えながら、糸
 の上を渡るように細々と生きるしかない。
  そして、死の手は、今も自分達の頭上に広がっている。
  何故こんな事になってしまったのか、それはポゴには分からない。その理不尽さは誰も分からず、
 原因があるのならば止めに行くのだが、そもそもこの状況になるにおいて邪悪な気配は何処にも働
 いておらず、かつて村を追放された時のように何かを倒してそれで救われるというものではなかっ
 た。
  畢竟、ポゴにはどうする事も出来ないのだ。ただ、この冷たい風を耐え忍んで、再びこの地に緑
 が芽吹くのを待つしかない。
  悄然と肩を落とし洞窟の中に戻れば、そこには幼子を抱えた妻が焚き火の前に座っている。以前
 と比べて痩せている妻は、それでも他の女に比べればずっと美しい。ただ、それが余計に、その頭
 上にも死が待ち構えているように見えて仕方ない。そこまで小難しい事は考えずとも、ポゴは死の
 匂いがすぐ間際まで近付いている事を感じて、身を小さく震わせた。
  そんな、見えない大鎌に怯える夫を見て、べるは痩せた顔に、それでも小さく笑みを刻んだ。