ずっと、この道が続くと思っていた。



  月凪




 『俺とお前がいれば、恐れるものなどないさ。』

  そう言って、唯一無二の友人は半歩下がったところからついてきたのだ。どうせお前一人では心
 許無いと言って、大量の知識をその頭に詰め込んで。
  そんな友人の言葉に、酷いなぁと返しながら、村人に示された洞窟に向かう。その場所に巣食う
 妖魔は、オルステッドがこれまで対峙してきたものよりも、ずっと狡猾な動きをするらしく、内心
 では彼が付いてきてくれる事に安堵していた。
  こうして二人で、村に害なす妖魔を斃すようになって随分と立つ。
  最初は子供の頃に聞いた御伽噺のようだと、胸を躍らせるよりも緊張で剣を掴む手が汗で滑るほ
 どだった。けれども最近では慣れたもので、その場で依頼を聞いてすぐに飛んでいく事もある。以
 前ほど、御伽噺のようだ、という感情は湧かないけれど、しかしそれでも初めての頃には緊張で感
 じなかった高揚感はまだ残っている。
  オルステッドとて、昔聞いて憧れた英雄譚を、自分がそのまま繰り返せるとは思っていない。そ
 もそもルクレチアは平和だ。何十年か前に魔王が王妃を連れ去るという事件こそあったものの、そ
 れは勇者とその供だけの手で何とかできるものだった。
  親友であるストレイボウ曰く、大きな声では言えないが、という接頭語が付いた上で『もっと大
 きな領地で、それこそ竜に攫われたとかだったら、騎士団が動く』のだそうである。つまり、魔王
 といってもルクレチアでは大きな妖魔でも、他国から見れば小物という事だろう。
  けれど、他国のように大きな妖魔がいないからと言って、それで腕が振るえないとか言うほど、
 オルステッドは自分の腕を見せびらかしたいわけではなかった。確かに竜退治は憧れであっても、
 夢と現実を区別できないほど愚かではない。
  オルステッドはストレイボウと一緒に、魔王山から時折這い出てくる妖魔を退治する程度で良か
 ったのだ。
  実際、ストレイボウと二人で出掛けるのは楽しかったし、それが日を跨いで野営などしなくては
 ならないものなら、子供のようにわくわくした。旅が終わらなければいいと少し考えるほど。
  そんな日常が続けば、オルステッドは十分だったのだ。




  分厚い雲が空を覆い天上から降る光を全て遮る薄暗い世界は、光を遮るその雲でさえ酷く弱々し
 く、全ての色をくすませていた。
  その空に一番近い、けれども邪悪な気配が澱んだ山の頂で、一人の青年が鬱金色の髪をぼさぼさ
 と風に揺らして佇んでいた。能面を貼りつけたかのように表情の無いその顔の中で、双眸だけが異
 様に輝いて見える。しかし、その輝きもまた澱んで見えるのは、周りの空気の所為だけではないだ
 ろう。
  いや、むしろ、この青年から、澱みは発せられているようだ。
  そして、この青年が見つめ続けているもの達から。
  岩肌も剥き出しの山頂には、草木は一本も生えておらず、生命の気配は薄い。そんな冷たい土の
 上に転がるのは、幾多もの遺骸だ。
  男もあれば、女もある。子供もいれば、老人もいる。一切分け隔てなく倒れる死体は、そのほと
 んどが鋭利な刃物で切り裂かれており、中には首が胴から離れているのもいれば、骨を覗かせて事
 切れているものもいる。
  その積み重なる死者の中で、まるでそこだけが刳り抜いてあるかのように、二つの遺体が他の身
 体に潰されずに崩れていた。
  一組の男女の遺体。
  男は鈍い色の髪を土に散らし、纏ったローブに赤黒い染みを強く残している。
  女も紫紺の髪を男の上に零し、その純白の胸から銀の刃を突き立てて、赤い色を広げている。
  その二人は、青年にとっては世界の半分以上だった。
  男は親友であり、刃を持つ自分と違い、英知を武器に戦い、自分の足りぬ部分を補う半身だった。
 彼とならば何処へでも行ったし、何処にでも行けると思っていた。
  女は、守るべき国の王女であり、それ自体が不可侵であり、そして自分の妻となった存在だった。
 彼女を守る事は国民としても騎士としても、そして夫としても絶対的定理だった。
  この二人がいる限り、青年の世界はずっと続いていくはずだったのだ。
  ルクレチアというのは小さな国だ。その国の中で出来る事は少ない。勇者と持ち上げられていた
 けれども、ルクレチアという国は、この邪悪な山があり異形こそ住まうものの、それを除けば平和
 な国だ。本来ならば、勇者など必要ない。青年が子供の頃、親友と語り合った遠い国の英雄譚など、
 起こり得ない事だ。
  二十年前に起きた魔王による王妃誘拐も、今なら随分と小さな話なのだと分かる。
  これが、もっと大きな――教会の力も貴族の力も大きな領地で起きた出来事だったなら、騎士団
 が終結して、山の頂に騎士が攻め行っただろう。
  だが、今回も二十年前も、この魔王山に向かったのは勇者と、勇者の供だけだ。
  確かに当事者である自分達の眼から見れば、非常に大きな出来事だが、他の国から見ればその程
 度の人数で対処できる程度の事という事になる。
  けれども、オルステッドにはそれで良かったのだ。
  騎士団を連れて、竜を斃しに行くような冒険譚を、夢見たのは幼い頃だ。だが、実際はそんなも
 のは、如何に勇者オルステッドと雖も、その手に余るだろう。だから、自分達の眼から見て魔王と
 見える――他の国ではただの妖魔だと見える――もの相手に剣を振り翳す程度で、良かったのだ。
 そんな、小さな冒険譚を繰り返しておけば、それで良かった。
  けれど、それが何故こんな事になったのか。
  確かに、妻と成るべき王女をかどわかした妖魔は、数人で斃すにはやや手に余る存在だった。け
 れども決して斃せない相手ではなかった。事実、自分達は犠牲を強いられながらも斃す事が出来た。
  けれども、それで冒険譚が終わらないなんて。
  いや、終わってしまったのか。
  オルステッドが夢見ていた、長い長い冒険譚は。親友の裏切りと、その親友の死と、妻である王
 女の自害を以て。
  彼、彼女の血を吸った地面を眺めながら、こんな終わりは望んでいなかった、とオルステッドは
 嘆く。旅の終わり方は、もっと華々しく終わるはずだった。それが子供の夢見る御伽噺の中の産物
 出ないとしても、せめて穏やかに終わるべきではないのか。
  少なくとも、自身が裏切りに傷つき、親友を殺し、それを妻となるべき相手に責められ詰られ、
 そしてその妻でさえ自害してしまうという終わり方など、オルステッドは想像もしていなかった。
  これまで、簡単な妖魔退治を請け負った事がある。その時だって、今回の事件と比べものにはな
 らないほど小さな事件だったけれども、事件の終わりは明るかった。探索が終わる事に一抹の寂し
 さを覚える事はあっても。
  こんなふうに、旅の終わり嘆く事など、なかった。
  まして、自分の旅が終わり、自分が新たな旅の原因となるなど。
  しかし、オルステッドには新たな旅を止める事は出来ない。それどころか、その旅を進める為に
 時空さえ歪めてしまっている。そこから呼び起こした旅人達に何をさせたいのか、オルステッド自
 身にも良く分かっていないにも拘わらず。
  果たして自分を止めて欲しいのか。
  或いは自分と同じ境遇に陥れたいのか。
  それともそれら全て破壊してしまいたいのか。
  いずれにせよ、オルステッドにはもう旅の続きはない。進むべき道はないのだから、どんなふう
 に動こうとも、それは道を踏み外す事にはならないのだ。
  だから、こうして澱んだ山の頂で、微かに旅の終わりを嘆きながら、その他の部分は全てこの世
 に対する絶望で燃やし尽くして、待っているのだ。この世に呼び込んだ者どもが、オルステッドに
 どんな名前のものを持ってやって来るのか。だが、何を持ってきたとしても、オルステッドには絶
 望以外のものを与える事はできない。
  散らばる、自分を持ち上げて地面に叩き落とした人間共の遺体と、裏切り者二人の魂が彷徨い続
 けている限り。
  オルステッドは、この場から動き、新しく旅に出る事など出来ないのだ。
















Titleは東京エスムジカの「月凪」