「美味いだろ?」


 
  眼の前に広がる皿の上には、簡単ではあるが放浪するサンダウンにとってはなかなか口にする事が出来ない
  
 料理が並べられている。サンダウンと同じようにその皿の前に座っているマッドは、頬杖をついて自慢げにそ
 
 う言い、赤い液体で満たされたグラスを手の中で弄んでいる。



  賞金首、賞金稼ぎに限らず、この荒野を放浪する者達は、あちこちに塒を持っている。

  それは町にいる娼婦のもとであったり、手下や友人の家であったり、或いは打ち捨てられたゴースト・タウ
  
 ンであったり。
 
  賞金稼ぎをしているマッドもその例外ではなく、彼もまた人に知られぬ塒を荒野の片隅に持っていた。

  誰かが昔使っていたらしい小屋の中は小奇麗で、寝室から台所まで、かなり本格的に作られている。

  マッドはその小屋を気に入っているのか――もしくは今は此処を拠点にしているのか――かなり頻繁に使用
 
 しているようで、台所などは使いこまれた節がある。 
 
 
  
  そんな隠れ家に招待された挙句、サンダウンは恐れ多くもマッドの手料理を振舞って貰う事になっていた。
 
 

  何故だか知らないが。






 
  ティミドゥス








 



  その日、サンダウンの前に現れた賞金稼ぎは、いつもよりもその笑みを深くしていた。銃を掲げる仕草も、
  
 その声の弾み方も、いつもよりもずっと明るく艶やかだった。

  どうやら機嫌が良いらしい。

  いつものように銃を弾き飛ばしても、いつものように食ってかかる事はせず、笑ったままサンダウンを手招
  
 きした。

  その様にサンダウンは酷く訝しんだが、腹の底で僅かに澱んだものが牙を剥いたのも確かだった。

 

  サンダウンの神経を、僅かなりとも震わせるのはいつだってこの男だ。

  だから自分の知らないところで自分の知らない理由で気分を良くしている姿を見て、こちらの神経を逆撫で
  
 させる事ができるのもこの男だ。



  軽口を叩いて軟派な様相をするが、マッドは時には非情なほど状況を見る事ができる男だ。
 
  それがこうも浮ついているのを見れば、何か本当に良い事があったのだろうという事が分かる。

  そしてそれは、自分のいない場所で行われた事であり、自分には関係ない事で生じた感情なのだ。

  腹の底に堪った汚泥の中で眼を見開き牙を剥くものが、嫉妬という顔をしている事はサンダウンにも分かっ
  
 ている。

  マッドが自分の知らない間に知らない事で喜んで、更にその空気を纏ったまま自分に逢いに来た事に、何処
  
 かで蟠りを持っているのだ。


 
  しかし同時に、マッドの顔色がとても良い事を喜ぶのもまた事実だ。

  マッドの肩に背負われてやってくる世界の断片は、彼の心根を映すかのように饒舌だ。機嫌が良ければ透き
  
 通るような青空や、満天の星空、燃え尽きるような朝焼けを浮かべる。逆に機嫌が悪ければ、強風と雷鳴を走

 らせる。そして、誰も分からぬほど深い心の底で嘆きを叫ぶ時は、呼応するかのように世界は曇り霞んでいく。

  誰よりも荒々しく凶暴で、燃え盛るような熱を持った魂だ。

  それ故、萎びていれば、世界からは火が消えたように沈みこんでしまう。

  だから、誰よりも歓喜の声を上げていれば、と思う。

 

  手招きしても近寄って来ないサンダウンに焦れたマッドが、ずんずんとこちらにやって来る。

  その手には、深い緑色の瓶が握られている。瓶の中では濃い色をした液体がたぷたぷと波打っている。薄黄
  
 色の細かい文字が書き込まれたラベルを撫でながら、マッドはちらりとサンダウンを見やり笑う。

 

 「なんだか、分かるか?」



  形と大きさから見て、どう考えても酒瓶だ。

  そう言うと、マッドは笑みを更に深くした。



 「ああ。だけどな、その辺に転がってる酒じゃねぇ。これはフランスのボルドーの格付けで、一位になったワ
 
 インなんだぜ?」



  自慢げにそう言われても、サンダウンには何の事やらさっぱりだ。とりあえず、フランスで有名なワインで
  
 ある事だけは何となく分かったが。

  しかし、普段テキーラやらバーボンやら、やたらきつい酒を好んで飲むくせに、何故ワインなんかを持って
  
 いるのか。

  怪訝そうにマッドを見れば、彼はサンダウンの反応に首を竦めていた。



 「まあ、あんたが大層な反応をするなんて期待しちゃいねぇよ。けどな、酒くらいしか楽しみがない男に、こ
 
 の俺がわざわざ良い酒を持ってきてやったんだぜ。何か言う事あるだろうが。」



  しかしその台詞に対して、サンダウンはますます怪訝な視線をマッドに向ける。

  酒くらいしか楽しみがないというのはあんまりな言われようだが――事実なので否定できないが――それと
  
 マッドが酒を持ってきた事と、どんな関係があるのか。

 

 「あのな、俺は機嫌が良いんだぜ?もしかしたら俺の人生の中で、五本の指に入るくらいの機嫌の良さなんだ。

  そんな俺が、単に見せびらかす為だけにあんたに酒なんか持ってくるかよ。確かに普段の機嫌だったら一人
  
  で飲んじまうところだが、俺の機嫌は鰻昇りだ。だからこの機嫌の良さに付け込んで、一人身の寂しい中年
  
  男にこの酒を分けてやろうと思ったわけだ。」
  
 「…………それはどうも。」



  いくつか言葉の使い方を間違っていると思われる台詞があったが、そこを突っ込めばどんどん話がややこし
 
 くなるので敢えてそこは無視し、サンダウンはどうやらマッドが望んでいるらしい言葉を吐いた。

  それを聞いたマッドはひとまず満足そうに頷き、分かればいいんだと言った。



 「そんなわけで、だ。俺の機嫌は良い上に美味い酒も手に入った記念に、ぱーっと飲み明かそうぜ。」


 
  どんなわけで、だ。

 

  突っ込みは喉まで出かかって、どうにか止まった。ここで突っ込めば、延々とぐちぐちと執拗に絡まれる事
  
 は眼に見えている。

  黙ったサンダウンを手招きし、いつの間にかディオに跨ってしっかりとサンダウンの馬の手綱を握りこんで
  
 いるマッドは、こっちだこっちだと件の塒にサンダウンを招待したのである。








 
  凝ったものではなかったが、マッドが作った料理は食べられない事はなかった。というか、それなりに食べ
  
 られた。ぶっちゃけ、おいしかった。

  美味いだろ美味いだろ?としつこく聞いてくるマッドには、無愛想に頷くだけだったが、心の片隅でこの男
  
 の手料理を食べた事があるのは自分だけだろうなと思うと、内心小躍りしたい気分だった。

  だが、未だに心に蟠っているのは、奇妙に浮かれたマッドの様子だ。

  慣れた手つきでハムを刻む間も、鳩の血のように赤いワインをグラスに注ぐ時も、そしてそのグラスを手の
  
 中で弄んでいる今現在も、マッドは浮ついた視線で口元を綻ばせている。

 
 
  何がそんなに嬉しいのだろう。

  何がそんなにこの男の心を弾ませているのだろう。

  分からない。



  分かりやすいくらいに感情を見せる男だが、その理由は全く語らない。その癖、全く関係ない事実ばかりを
  
 語るのだ。甘い黒髪も、夜空ほど透き通った眼も、感情は伝えても理由は教えてくれない。

  溢れ出て来るのは歓喜ばかりで、それは幸いで、けれどもそれは何故。

  サンダウンの与り知らぬところで見知らぬ喜びを受けて、その理由は。 

  
 
  ぐるぐると汚泥にも似た腹の底を再び回り始めたサンダウンを置き去りにして、かつんと音を立ててマッド
  
 がグラスを置いた。グラスの底には、彼に飲み干されなかった赤が僅かに残されている。そこからマッドの白
 
 い指が離れて、細い爪先は何の躊躇いもなくサンダウンへと伸びる。

  うっとりとした笑みを浮かべて、マッドは身を乗り出してサンダウンの頬に触れた。



 「あんたって、色の付いた酒飲むと、あれだな。間抜けに見えるな。髭に酒が付いて。」



  唇のすぐ上に生えた髭を細い指先がなぞる。血よりも薄い赤が、それでもその白い手には驚くほど映えて、
  
 伝う。

  指が少し離れ、次にその指が触れた部分に口付けが落とされた。



 「牛乳呑んだら、髭に付くだろ、絶対。」


 
  髭の上に付いているらしいワインを舐めながら、色気のない事を言う。

  が、言葉に色気がなくても仕草は男を煽るには十分だ。

  離れたばかりの指を引き止めて、その指についたワインを舐めとりながら、腕で肩を引き寄せる。触れるだ
  
 けの口付けを繰り返していると、その合間にマッドが囁いた。



 「此処でやる気かよ………。」



  文句のようなそれに腕を引いて立たせて、寝室に引きずり込む。

  マッドの機嫌が良いにこした事はない。でなければ、こうして触れる事もできないのだから、だからサンダ
  
 ウンが知らない場所でマッドが喜んで、それで機嫌が良いのなら結構な事だ。

  自分に言い聞かせながら、実は最初からこうするつもりだったという事に気付く。

  機嫌が良いマッドを見て濁った闇が笑った時から、とりあえず押し倒してじっくりと触れようと思っていた。

 そうする事でしか、マッドによって逆撫でされた神経は治まらないのは、今に始まった事ではない。

  シーツに埋もれた黒髪に口付けを落とし、サンダウンは自分の中にいる魔王を宥める為にマッドに溺れる事
  
 に決めた。



 








  身体を雁字搦めにする男の姿に、マッドは喉の奥だけで笑った。
 
  こんな関係になったのは随分と前の事のように思えるが、実際はまだ半年も経っていない。そしてその時は
  
 まだ、この行為の間に情を持つ事もしなかった。

  一緒に酒を飲む事も食事をする事も、実はつい最近になってから始まった。

  あまりにも何度も顔を合わせてしまうので、時折忘れてしまいそうになるが、自分達の付き合いは決してま
  
 だ長くはない。

  他の賞金首に比べれば長い事追いかけているだけで、実際は知り合って一年くらいしか経っていないのだ。

 

  そしてこの男も、サンダウンも忘れてしまっている。


 
  実は、今日が二人が初めて撃ち合いをした日だという事を。



  サンダウンがそんなにマメな性格でない事は知っている。
 
  銃の腕は時を刻む時計並みに正確なわりに、こういった日常の些細な出来事には無頓着だ。飄々と生きるが
  
 故か、人との関係にも淡白だ。

  だが、そう見えて実は結構嫉妬深い事も知っている。

  今日も機嫌の良いマッドを見て、あらぬ疑いを抱いていた事を、マッドは見抜いていた。

  無口で無表情で感情を表に出さないサンダウンは、けれどもだからこそ些細な変化さえ見抜けるようになれ
  
 ば、その仮面の下は酷く無防備だ。無表情の裏には、全くと言っていいほど防御機構がない。

  最も、一年前はその些細な変化さえ分からなかったのだが。

 

  でもそれなら、とマッドは内心で拗ねた。

  自分はサンダウンの変化に気付くようになった。
 
  けれどもサンダウンは、まだマッドの心の変化を読む事が出来ない。

  確かに、マッドの仮面はサンダウンの仮面よりも遥かにあざとく、掴み切れないだろう。無数の言葉で、し
  
 かも真実の言葉だけで塗り上げられた本心を隠す仮面は、きっと引き剥がそうと手を掛けたならあっと言う間
 
 に形を変える。

  それはマッドの所為でもあるのだが、しかし同時にサンダウンにも問題があるような気がしてならない。



  ああ、分かってるよ。

  この飄々として一見図太そうなおっさんが、変に自信を持っていない事も、妙に諦めてる事も。



  一年前は知らなかった。牛乳を飲み過ぎても腹を壊さない事も、平気で恥ずかしい台詞を言う事も。何より、
  
 自分よりも子供じみた独占欲で、自分を腕の中に囲う事も。

  そしてその腕には、何処かに臆病な諦めが滲んでいる事も。


 
  結局、妙に達観して自分の存在意義を見出せない男は、マッドが自分の腕の中にいる事に自信がないのだろ
  
 う。嫉妬を見せる癖に、マッドの仮面を剥ぎ取ってその下にある意志を確かめる事に怯えているのだ。

  全身に所有印を付けるような事をしておいて、ふざけているんじゃねぇのか、と思う。
 
  それとも、痺れを切らしたマッドが、愛していると囁くまで待つつもりか。


 
  誰がそんな事言ってやるか、この野郎。



  始まりを忘れているであろう男の為に、上等のワインを用意した。救世主の血を意味するそれを、わざわざ
  
 この日の為だけに用意したのだ。料理まで作って、自分の塒にまで踏み込ませた。

  一年経って、それでも尚続いたこの奇妙な関係に浮かれて、柄でもない事をしたのだ。なのに眼の前の男は

 マッドが浮かれている原因が自分だと気付かずに、勝手に傷ついている。
 
  本当に、ふざけているんじゃないのか。

  マッドの本心に気付かない、気付きたくないというのなら、マッドにだって意地がある。

  サンダウンがこの日の意味を気付くまで、これから先何十年だってこの日を勝手に祝ってやる。

  気付くまでおかしな嫉妬をして、気付いてからうろたえてマッドに馬鹿にされたら良い。

 

  マッドの本心を読み取りたいと願うのなら、本気で踏み込んできたら良いのだ。
 
  命の遣り取りまでしているのだ、それくらいの事で怯える必要はない。

  マッドはもう人生の全てを懸けている。




  だからさっさと気付け、アホ。