地べたに尻もちをついて、その格好のままずりずりと後退りする男を、マッドは黒い瞳で面白く
 もなさそうに見た。
  土埃を尻から足の先までをばたつかせる事で生み出している男は、つい先程までの卑下た嗤いは
 何処へやら、眼は怯え、口からは泡を吹いて何事か喚き散らしている。
  マッドが男の前に姿を見せた時、7人のカウボーイをはした金の為に殺し、捕えにきた十人の賞
 金稼ぎを撃ち殺したというその男は、嗤いながら自分の持っている銃を見せつけていた。鈍く光る
 銃口をマッドに合わせながら、お前も俺の餌食だと言っていた。
  が、数秒後、呆気なくマッドに銃を跳ね飛ばされた男は、今は無様に尻もちをついて、命乞いを
 している。

 「待て、待て、頼むから!」

  唾を飛ばしながら片手を突っぱねるように振り回す男は、ただそこに立っているだけのマッドを
 見て、逃げようと足で地面を掻いている。砂埃が何度も何度も膨らんで、男の汚らしいズボンの裾
 を、更に茶色に染め上げていく。

 「待てよ、頼むから、命だけは。」
 「なんでだ?」

  必死に喚く男に、マッドは殊更無邪気な声で、首を傾げた。その黒い眼も、心底不思議そうな光
 を湛えて、まるでどうして鳥が空を飛ぶのかと子供が尋ねるように、男に問う。

 「なんで、俺が、てめぇの言う事を聞かなきゃならねぇんだ?」

  いっそ、無垢と言って良い声と視線に、男は一縷の希望でも見つけたのか、慌てて言葉を紡ぐ。

 「頼む、なんでも、言う事を聞くから!」

  もはや支離滅裂な台詞に、マッドはにっこりと微笑む。端正な顔に浮かぶあどけない表情は、ま
 るで天使のよう。日差しを浴びて銀に煌めく黒髪も、弾けるような光を灯す瞳も、秀麗な弧を描く
 唇も。そのまま絵画から抜け出したかのような、完璧なアルカイック・スマイル。
  そして、声は完璧な旋律を保っている。

 「じゃあ、この場で俺に撃ち殺されろよ。」

  ただし、吐き捨てられた台詞は、完全な死の宣告だった。掲げられた黒光りする銃口は、地獄の
 縁のように深い。
  もしも、男にほんの少しでも聖書を思い出す暇があったなら、マッドの頬笑みが天使のそれでは
 ない事に気付いただろう。人を堕落に誘う悪魔が、天使よりも美しい事を思い出したはずだ。仮に、
 天使であったとしても、それは無慈悲に命を刈り取るサマエルだ。
  しかし、その事に気付いた時は既に手遅れだ。マッドの銃弾は、無慈悲なほどに正確に、男の心
 臓を砕いている。
  胸と背中から、勢いよく血を噴き出してしばし虚空を睨んだ男は、その睨んだ眼付のまま、ばっ
 たりと乾いた地面に倒れ伏す。尤も、乾いた地面はすぐさま、男の血を吸ってどす黒いものに変色
 しているのだが。
  腐ったような色の地面に斃れた死骸を一瞥し、マッドは自分の仕事の出来に満足したのか、薄っ
 すらと皮肉な笑みを動かぬ男の身体に投げつけると、それ以降は足元を這う蟻に対するものほどの
 興味も見せず、保安官を呼びに行った。




  小屋に戻ったマッドは、不機嫌そのままの表情で風呂を磨いていた。きゅっきゅっというスポン
 ジの音が正確に響き、泡がもくもくと立っていく。
  なんだよあのおっさん、あの時はちゃんと言った癖に、口だけかよ。
  ぶつぶつと呟きながら、風呂桶を磨いていく。そのまま風呂桶が擦り減ってしまうんじゃないか
 と思う勢いで磨いているマッドが怒っているのは、昼間撃ち殺した賞金首の事では、当然ない。火
 の玉気質だの癇癪玉だの言われているマッドだが、実は結構冷然としているマッドは、実は他人の
 する事について――徒党を組んでマッドに襲い掛かりでもしない限りは――そこまで口出しする事
 はない。だから、そこまで怒り狂う事も滅多にない。
  そんなマッドが、愚痴を零すほど腸煮えくり返る相手は、この西部ではサンダウン・キッドくら
 いしかいなかった。そして、今まさに、マッドはそのサンダウン相手に怒り狂っているのである。
  この前、マッドが一手に担っている家事を少しでは手伝うと言ったはずの男は、今、そんな事記
 憶の彼方にすっ飛ばしてソファでごろごろしている。どう見ても暇そうなその様子に風呂掃除を頼
 んだら、事もあろう事か『忙しいからまた後で』という返事が返ってきた。
  てめぇのどの辺が忙しいんだ今やらんかい、と思わず喉元まで出かかったのを寸での所で止め―
 ―言ってやった方が良かったのかもしれないが、言ってものらりくらりと躱されるのは眼に見えて
 いる――マッドは声高くスポンジを鳴らして風呂桶を磨いているわけである。
  八つ当たり気味にスポンジに洗剤をつけ、更に激しく風呂の床を磨く。
  マッドは忙しい。賞金稼ぎの仕事をして、仲間から情報を貰って、娼婦の相手をして、馬の面倒
 を見て、食事を作って、掃除をして。毎日が眼も眩むような忙しさだ。
  なのに、自分よりは遥かに暇な――現在無職であるから暇である事に間違いはない――男は、ゴ
 ロゴロしている。賞金首の癖に悪さもせずに、ひたすらゴロゴロしている。ちょっとは賞金首らし
 く、どっかから金庫でも盗んでこんかい、と言いたくなるほどに。いっそ、昼間撃ち殺した賞金首
 のほうが真面目に働いているようにさえ見えてくる。
  そんなおっさんに、一度堪忍袋の緒が切れて、マッドはストライキを起こした。つまり家事を一
 切放棄したのだ。そしたら、あのおっさん、今度から家事を手伝うと言った。言った癖に。

 「くそ、やっぱり口だけかよ!」

  賞金首の言う事など信じた自分が悪いのだと分かっているのだけれど、何故か怒りがこみ上げる。
 その原因は、非常に情けないものであるのだが。しかし、悪態は止まらない。
  役立たず、ごく潰し、甲斐性なし、当分晩酌は抜きだ、などと、到底賞金稼ぎが賞金首に向けて
 使う悪態とは思えない言葉が飛び出てくる。
  怒りに任せて思いっきりシャワーのコックを捻り、ふかふかと一面に広がる泡を洗い流す。まる
 で白い泡がサンダウンであるかのように虱潰しにシャワーで押し流していると、マッドの視界の隅
 に、何か黒い物が映った。はっとしてそちらを見れば、そこには何もない。だが、神経を研ぎ澄ま
 せれば、確かに、此処には、何の気配がする。
  シャワーのヘッドを持ったまま、注意深く周囲を見渡す。そして、再びマッドの視界の端で、そ
 れが走った。

 「そこか!」

  叫んでシャワーをそちらに向ければ、西部一の賞金稼ぎの巧みなシャワー捌きを、それはカサカ
 サカサと素早い動きで避けた。が、マッドの眼はしかとそれを捉えている。
  つるり、ぬらりと油で濡れたような黒光りするそのフォーム。
  次の瞬間、



 「ぎゃあああああああっ!」



  マッドの悲鳴がして、サンダウンはソファから飛び起きた。
  一週間前に風呂掃除をしたばかりなのに、また風呂掃除をしている賞金稼ぎの、ただならぬ悲鳴
 の後には、耳を劈くような銃声まで轟いた。
  風呂掃除の間に一体何が。まさか何者かがいつの間にか侵入し、マッドを襲っているのか。
  慌ててピースメーカーを持って脱衣所の扉を開けば、ちょうど飛び出そうとしていたマッドとぶ
 つかった。半泣き状態のマッドを抱き止めると、その身体は震えている。

 「マッド、どうした。」
 「あれが………!」
 「あれ?」
 「あれが、いたんだ!」

  いつになく取り乱した様子の賞金稼ぎの姿に、サンダウンも流石にただならぬと感じる。
  だが、マッドは叫ぶだけでサンダウンの質問に答えようとしない。

 「もう駄目だ!この小屋もあれに汚染された!せっかく大切に綺麗に使ってたのに!今夜中に荷物
  纏めて逃げ出すぞ!」
 「だから、あれとは、一体………。」
 「あれはあれだよ!ほら……!」

  瞬間、何か羽音が聞こえ、マッドの顔が見る間に蒼褪めた。サンダウンも、物凄い勢いで飛来す
 るそれに気付く。持ち前の反射神経で、マッドごとそれを避けたが、サンダウンの動体視力は、自
 分の脇を掠め去っていった黒光りするそれが何なのか、ちゃんと捉えていた。

 「あれはゴキブ……。」
 「その名前を言うなぁあああっ!」

  名前を言っただけで世界が滅びると言わんばかりの声で、マッドはサンダウンの頬を平手打ちし、
 サンダウンが最後までその名を言うのを防ぐ。平手打ちされたサンダウンは、地味に頬が痛い。そ
 して平手打ちしたマッドは、ぶつぶつと何事か呟いている。

 「一匹いるって事は、あと百匹はいるって事だ。つまり、放っておいたら倍々ゲームでどんどん増
  えて……。」
 「マッド、落ち着け。」
 「落ち着いていられるか!あんなのが、まだいるんだぞ!どうやって太刀打ちしろってんだ!この
  小屋に火を点けるくらいしかねぇだろうが!」
 「まだ住みついたとは限らないだろう。偶々迷い込んだだけかもしれない。」
 「それで卵を産みつけられてたらどうすんだ!」
 「卵を燃やすなりなんなりして、処分すれば良いだろう。」
 「どうやって、あんな気持ち悪い生物の卵を見つけろってんだ!俺はそんなもん見たかねぇぞ!」

  今にも泣き出しそうなマッドの様子に、サンダウンは溜め息を吐いて、分かったと告げた。

 「私が捜して処分してやるから、お前はそこで待っていろ。」

  その前に、廊下の壁に止まっている一匹を始末しておくか。
  のっぺりと壁に張り付く黒い物体目掛けて、サンダウンはスリッパを投げつけた。西部一の賞金
 首の、過たぬ投球を受け、憐れ黒い昆虫は潰されてスリッパと一緒に床に落ちる。

 「………そのスリッパ、燃やして処分しろよ。」
 「ああ………。」

  マッドに言われた通り、スリッパを焼却処分した後、サンダウンは小屋の中を隅から隅まで調べ
 た。ベッドの下から戸棚の裏、食糧保管庫の中も見て、天井裏も調べた。

  そして3時間後。

  サンダウンは、ソファの上で毛布に包まって何処から飛んでくるか分からないという恐怖から身
 を守っているマッドのもとに戻ってきた。

 「マッド……何処にも何もなかったぞ。」
 「………洗面台の裏は?」
 「ない。」
 「台所の隙間は?」
 「ない。」
 「飼葉桶の裏は?」
 「なかった。大体、そんな所にいたら、お前の愛馬が怒るだろう。」
 「いいや、あいつ結構無神経だから、もしかしたら飼葉と一緒に喰ってるかも。」

  ディオが聞いたら、酷い!と叫びそうな事を呟くマッドに、サンダウンは、卵も幼虫も成虫もい
 なかった、と告げる。すると、毛布の中のマッドが少し身じろぎし、

 「……あんた、あの潰れたあれを処分した後、手ぇ洗ったんだろうな。」

  つまり、その手で触るなと言う事か。
  サンダウンはすごすごと洗面台に戻り、石鹸でみっちり手を洗ってから、再びマッドの所へ戻る。

 「洗ってきたぞ………。」

  そう告げると、ようやくマッドが毛布の中から顔を出した。その黒い眼は、潤んでいる。そして、
 彼は毛布から這い出すと、勢いよくサンダウンに抱き付いた。

 「キッドー!あんた最高だー!」

  珍しいマッドからの熱い抱擁に、サンダウンは思わず鼻血が出そうになった。が、それは辛うじ
 て堪える。そんなサンダウンの様子などには気付かず、マッドは何も思わずに――マッドの頭の中
 は『あれ』から解放された事でいっぱいだ――サンダウンに抱き付く。

 「ごく潰しとか甲斐性なしとか言って悪かった!俺にはあんたがいねぇと駄目だ!」
 「………ああ、私もお前がいないと生きていけない。」

  どう考えても、そこに込められた温度には圧倒的に交わらない差がある。
  が、感激に咽び泣くマッドと、マッドの身体の感触を楽しんでいるサンダウンが、互いの言葉の
 温度差に気付く事はない。  
 
 
  
  こうして、一番の寄生虫であるサンダウンは、益虫としての地位を確立したのだった。
  そしてその益虫は、マッドの身体を楽しみながら、こんな事になるのなら『あれ』を何処かから
 捕まえてきて、偶には小屋の中に放してみようかと考えるのだった。