荒野は今日も晴天である。家々の隙間からは白い洗濯物がはためいており、洗濯日和である事が
 窺い知れる。乾いた風も、湿気を吹き飛ばすには十分な効果を発揮するだろう
  しかし、そんな乾ききった中、酒場には妙に湿っぽい空気が流れていた。比喩表現ではない。一
 人の若い娼婦の周りには、彼女の体液――といっても色っぽいものではなく、鼻水とか涙とか、し
 ょっぱいものである――に濡れたハンカチが、何枚も何枚も投げ捨てられている。ぐちゃぐちゃと
 丸められたそれは、レースがついていたり、縁飾りがついてあったりと様々だが、何れも彼女の体
 液の餌食となっていた。
  そんな彼女を、心配そうと言うよりも困ったように――そして幾分か呆れたように――酒場のマ
 スターと娼婦仲間達は眺めやっている。先程からずっと口と鼻をハンカチで押さえ、ぼろぼろと鳴
 き続ける彼女に、娼婦達も言葉を掛けてやっているのだが、それらは悉く彼女の耳には届かないの
 で、いい加減娼婦達も飽きてきたのだ。

 「ねぇ、ローラ。いい加減におしよ。そんなに泣いてたってしょうがないじゃないか。泣いてあの
  男の性根が入れ替わるんだったら、とうの昔にそうなってるさ。」

  年嵩の娼婦の言葉に、ローラという若い娼婦は、ハンカチから顔を上げ、化粧の崩れた口を開く。

 「そ、そんな事、あたいだって分かってるよ。けど、けど、あの人ときたら………。」
 「ああ、はいはい。分かったから。」

  再び泣き崩れるローラに、娼婦達はうんざりしたように適当な相槌を打つ。
  ローラの大泣きの原因――『あの人』、つまり男だ――は娼婦達も良く知っていた。何処となく
 身持ちを崩した貴族のような優男。なにやら上品な言葉遣いをして、気障な言葉を並べ立てては女
 を引っ掛けていく男った。
  むろん、それが悪いわけではない。そういう男は何処にでもいるし、娼婦達は男のちやほやとし
 た言葉に良い気分になって、相手をしてやれば良いだけの事だ。ただし忘れてはいけないのは、そ
 ういう男の言葉を信用してはいけないという事。
  目利きの娼婦なら、男の貴族然とした振舞いが付け焼刃の――要するに真似事だ――ものでしか
 ないと見抜くだろうし、それにある程度経験を積んだ娼婦なら、そういう男の美辞麗句を信じるべ
 きではないと分かっている。
  娼婦達がそんな男に求めるべき事は、せいぜい、一時の甘い言葉だけだ。
  だが、若い娼婦のローラにはそんな事は分からなかったらしい。彼女は男の上品そうな素振りと、
 甘い言葉にころりと参ってしまった。そして、男に頼まれるがままに一緒に暮らし、食事の準備を
 し、様々な物を貢いだのだ。
  むろん、何人もの娼婦が、そして酒場のマスターも、彼女に忠告した。あれはお前を都合良く使
 っているだけだ、と。他に良い女がいたら、そちらに鞍替えする、と。
  しかし恋は盲目とはよく言ったもので、ローラはそんな忠告に耳も貸さず、男と一緒に暮らして
 いるのだ。そして男が他の女の所に行くたび泣いて、そしてその後、男が泣きながら自分に謝るの
 を見て、やはり自分しかいないのだと思い込む。それの繰り返しだった
  だが、それに付き合わされる他の娼婦達は堪ったものではない。いっそ、何処か別の場所でやっ
 て欲しい。しかしローラに何処か別の場所に行けというのは酷であり、では男のほうが何処か行く
 気配があるかと言えば、残念ながら何処をどう見ても無職の男に、そんな資金も伝手もない事は明
 白だ。つまり、この男、ローラが娼婦として働いた金で生活しているのだ。そんな男に、ローラに
 娼婦を止めさせようという甲斐性があるわけもない。
  げんなりするような事態に、娼婦達とマスターが溜め息を吐いた時、酒場のウエスタン・ドアが
 大きく押し開かれた。すっと切り込むように入り込んできた日差しと、そこを更に切り落とすよう
 に長く伸びた黒い影。ゆったりとした足取りで硬いブーツの音を響かせる人影に、娼婦達ははっと
 して顔を上げ、慌てて店の準備入る。

 「………よう、随分とのんびりしてんなぁ。」

  いそいそと酒やら何やらを準備し始めた酒場に、笑い含みの声が響く。その後ろからも、大勢の
 客の気配がする。賞金首を撃ち取った、賞金稼ぎ達がやってきたのだ。その先陣を行く黒い犬は、
 床に散らばるハンカチに眼を止める。

 「おい、何があったんだ?まさかこの酒場に、悲劇を演出するような旅芸人を呼んだのか?」
 「違うよ。」

  床に転がるハンカチを客に見られてしまったマスターは、頭痛を堪えるような表情で、客が来た
 にも拘わらずしゃくり上げているローラを見やる。マスターの視線を辿った黒い賞金稼ぎの王は、
 化粧を崩した娼婦を見て、怪訝な顔をした。

 「何があったんだ?」
 「男絡みだね。」
 「そうだろうな。」

  娼婦を侍らせる事に慣れた彼は、仲間達が適当に散らばるのを見やってから、自分も適当な椅子
 に座る。すると、すぐさま娼婦が両脇にやって来て、酒と肴を用意していく。まるで、猫の機嫌で
 も窺うかのような至れり尽くせりの状況に、臆する事なく彼は注がれたグラスを空け、両側にいる
 娼婦達に訊いた。

 「で、ありゃ、何があったんだ?」

  王者の興味がローラから退かないのを見た娼婦達は、溜め息交じりに説明をし始めた。

 「…………あんたとは、正反対の男に泣かされてるのよ、マッド。」



 「ふぅん…………。」

  娼婦達から事の次第を聞いたマッドは、小さく頷いて、再びグラスを空ける。すると、間髪入れ
 ずにそこには酒が満たされる。

 「何処にでもいるんだなあ、そんな駄目な男ってのは。」

  感慨深げに呟けば、他の賞金稼ぎ達も興味津々で聞いていたのか、何やら口々に呟いている。

 「でもなぁ、男にとっちゃあ、女には家事とかはちゃんとして貰いてぇよなぁ。」
 「ああ、やっぱり家で帰りを待っていて欲しいっつーか。」

  そんな声に娼婦達が反論する。

 「何言ってんだい、あの男は家事どころか仕事も碌にしてないんだよ。」
 「そうよ、女に食べさせて貰ってるなんて、最低じゃない。」
 「そもそも、女だけが家事をするなんて、不公平よ。そんな考え、時代遅れだわ。」

  思わぬ女性陣からの強い反論に、賞金稼ぎ達はたじろぐ。彼らは働いているとは言え、その日暮
 らしの者が多い。それ故、特定の女はいない者が多いが、しかしいる者はやはり家の事は女に任せ
 っきりだ。ヒモとまではいかなくとも、それに近い。

 「大体、女は家にいろって言って、自分は好き勝手してる癖に!」
 「狡いと思わないの、自分だけ良い思いをして!」
 「恋人がいるんなら、私達の所じゃなくて、彼女の所に行くべきよ!」
 「そうよ、その癖、恋人が浮気をしたら怒るんでしょう!」
 「浮気をされたくなかったら、もっと男も尽くすべきよ!」

  ガトリング砲のような娼婦の言葉に、賞金稼ぎ達は完全に蜂の巣になる。反論できない彼らは、
 銃口のような女性陣に囲まれている自分達の王を、救いを求めて見やる。
  娼婦達の、男としては耳に痛いであろう言葉を涼しげな顔で聞いているマッドは、呑気に葉巻に
 火を点けていた。彼は旨そうに煙を吸い込んで、吐き出した後、とりあえずとローラに視線を向け
 る。

 「まあ、あれだ。そんな甲斐性なしの男なんかとは、さっさと別れちまえ。」

  さっくりと言い放った男は、眼を丸くして化粧の崩れた顔を自分に向けているローラに苦笑いす
 る。

 「だってよ、仕事をしてねぇってのは良いとしてだな。適正なんかもあるしな。聞くところによれ
  ば、どうも荒野での生活に向いてねぇ身体付きっぽいし。」

  そう告げるマッドは、どう考えても細身で荒事に向いていないような身体と指をしているくせに、
 西部一の賞金稼ぎの座にいるわけだが。

 「でもよ、仕事がねぇとしても、女に仕事全部任せるってのはどうなんだよ。女に食わせて貰って
  んなら、せめて家事の一つや二つ、するべきじゃねぇのか。家計簿をつけろとまでは言わねぇが、
  風呂掃除くらいはするべきだろ。洗濯物だって干したり取り込んだりすることくらい出来るはず
  だ。」

  風呂掃除もできねぇ男となんか、別れちまえ。

  きっぱりと言い放った賞金稼ぎの王に、賞金稼ぎ達は呆気にとられる。そして妙に具体的だった
 言葉に、小さく問うた。

 「マッド、そりゃ、一体、誰の話だ?」
 「一般論だ。」

  いや、風呂掃除はともかく、家計簿云々はどう考えてもすぐに出てくる言葉じゃねぇよ。
  賞金稼ぎ達はそう思ったが、断固として、マッドは一般論だと言い切った。





  小屋の中のソファの上には、ぷっくりと頬を膨らました賞金稼ぎが一人。その周りをうろうろと
 所在なさげにうろつく賞金首が一人。
  遂に耐え切れなくなった賞金首が、ソファの前に屈みこみ、賞金稼ぎの顔色を窺う。が、賞金稼
 ぎの機嫌は完全に下向きだった。

 「マッド………そろそろ、機嫌を直してくれ。」

  西部一の賞金首であり、その銃の腕前は誰の追随も許さず、それ故に孤高に荒野を放浪している
 サンダウン・キッドは、絶賛情けない男の仲間入りを果たしているところだった。
  事の起こりは、もはや何処にあるのか分からない。簡単に行ってしまえば、積年のサンダウンの
 無精に、マッドが遂に嫌気をさしたのである。洗濯物を脱ぎっぱなしにしている事だとか、皿を洗
 わずにテーブルに出しっぱなしにしている事だとか、マッドが掃除をしている間、何もせずにゴロ
 ゴロしている事だとか、そういった事が積み重なり、遂に先日、サンダウンがマッドの酒を――し
 かも一番高い奴から順番に――勝手に飲み漁った事で、マッドの日頃の鬱憤が爆発した。
  もちろん、マッドのこうした怒りはこれまでもあった事で、サンダウンはそこまで深く考えてい
 なかった。
  が、今回のマッドの怒りは、かなり根が深かった。
  これまではどれだけ怒り狂っていても、一度荒野に出れば、サンダウンを追い掛ける賞金稼ぎと
 して、サンダウンの前に姿を現した。その時になればマッドの口元には笑みが浮かんでいて、怒り
 が収まっていた事が知れた。しかし今回、マッドはサンダウンを荒野で見かけても、そのまま素通
 りした。まるで、タンプル・ウィードが横を通り過ぎていったくらいの興味しか示さず――要する
 に、全く見向きもしてくれなかったのだ――駆け去っていってしまった。
  それを見て、流石にサンダウンも焦った。普段、鬱陶しいくらいに自分を追い掛けてくる男が、
 まさかの素通りだ。何か変な物でも食べたのかと――全く以て見当違いだ――心配になった。そし
 て慌てて追いかけて、小屋で追いついてみると、そこにいたのは完全にむくれたマッドだった。
  その日から、マッドは一切の家事をしなくなった。
  サンダウンがどれだけ宥めても、何を言っても反応してくれない。お前の作ったご飯が食べたい
 と――これを言えばマッドは大抵の事は許してくれるのだが――言ってみても、マッドは膨れるだ
 けで何もしてくれなかった。苛立ってみても何の効果もなく、押し倒してみても抵抗さえみせずに
 組み敷かれるだけ。シャツを無理やり引き裂いた時、ようやくちらりと視線を向けたが、すぐに何
 かを諦めたように逸らしてしまった。
  それを見て、本気で、やばい、と思った。
  本気で怒っている。というか、サンダウンに対して諦めを持ち始めている。マッドがいる事だけ
 が生き甲斐となっている男にとって、それは何としてでも避けねばならない事態だ。マッドがサン
 ダウンを見放してしまえば、サンダウンは生きていけない。
  そんなわけで、サンダウンはマッドが怒り狂うこの数週間、ずっともそもそと家事をしていた。
マッドのように隅々までピカピカには出来なかったが窓硝子も拭いたし、石鹸の保管場所が分か
らなくて四苦八苦したが風呂掃除もした。皺を完全に消す事は出来なかったがアイロン掛けもした。
洗濯物も干した。けれど、マッドはまだサンダウンを許してくれない。どうしたら良いんだ、と酒
も何もかもを絶ってマッドの機嫌を取っているおっさんは、マッドに長らく触れていない事も相ま
って、泣きそうになっている。如何せん、対人関係スキルは著しく低い男だ。必死になって機嫌を
取るものの、スキルの低さもあって一向に効果が出ない。結果、家事が終わった後は、うろうろと
マッドが不貞寝をしているソファの周りをうろつくしかない。
 そんな男の物音に、同情をそそられたわけではないだろうが、マッドがようやく、口を開いた。

「今日、立ち寄った町の娼婦がな………。」

 しばらくぶりに聞くマッドの声に、サンダウンは慌ててソファの前に跪いてマッドの顔を覗き込
 む。が、残念な事にマッドの黒い眼は、サンダウンを映していない。

 「働きもしなけりゃ、家事を手伝うわけでもない男に、泣かされてた。」
 「……………。」
 「だから、こう言ってやったんだ。別れちまえってな。」
 「……………!」

  マッドの台詞に、サンダウンは大いに動揺した。流石にマッドの長期に渡る怒りによって、自分
 が何もしてない事を思い知らされた男にとっては、マッドの台詞はどう考えても自分達にそのまま
 当て嵌まる。

 「口の上手い男ってのは何処にでもいるもんだよな。女騙して女に養って貰って、で、自分は別の
  女と遊び回る、と。」
 「私にはお前だけしかいない。」

  確かにサンダウンもマッドに何もかもを任せているが、サンダウンは浮気をした事は一度もない。
 それだけは自信を持って言える。

  そもそも、サンダウンがこうして何もかもを任せて甘えるのはマッドだけだ。他の人間の前では、
 もっときちっとしている――とサンダウンは思っている。マッドの前だからこそ、だらけきった姿
 になれるのだし、マッド以外にそうやって甘えられる人間はいない。
  そう力説すると、マッドがようやく、じろりとサンダウンを見た――というか睨んだ。しかし久
 々に自分を視界に映したマッドに安堵するサンダウンには、その睨みも上目遣いの甘えた視線にし
 か見えない。

 「……俺はてめぇの母親か。」
 「まさか。」

  恋人のつもりだ。
  と、喉元まで出かかったところで、マッドの胡散臭そうな視線に気付いて止めた。なんとなく、
 その台詞を声にしたら、今度こそマッドが遠ざかりそうだ。
  だから代わりに、マッドの手を取って――久しぶりの体温にくらくらしそうだ――呟く。

 「すまなかった、マッド………本当に、すまなかった。」
 「それだけか。」
 「今度からは風呂掃除もするし、窓拭きも手伝おう。」
 「…………洗濯物も取り込めよ。」
 「わかった。」

  サンダウンは答えながら、マッドの頬に口付けを落とす。そしていそいそとその身体に乗り上げ
 る。久しぶりの体温を逃がさないようにと、マッドの愚痴に、分かった分かったと返事を返す。

 「てめぇ、適当に返事してんじゃねぇぞ。大体、なんでもっと早くに手伝おうとしなかったんだよ。」
 「…………お前が家事をしているところを見るのが好きだからだ。」

  サンダウンの前だけで、サンダウンの為だけに、くるくると料理だ掃除だと働く姿を見るのが、
 好きだった。まるで、マッドと一緒に暮らしているようで。
  しかし、それがマッドの負担となっているのなら、惜しいとは思うが家事を手伝おうとも思う。
  この身体を逃がさない為なら、皿洗いだってするというものだ。