日が傾きかけた午後、賭博をする男達が犇き合うサルーンの中に、徐々に融け込むように艶やか
 な色が混ざり始めた。夕暮れ時を待ち侘びるように現れた色とりどりのドレス達は、高いヒールな
 どものともせずに、砂埃で幾つも引っかき傷のある床を、物怖じ一つせずに闊歩する。
  荒野で生きる男達の癒しと言えば、酒と煙草、そして女である。
  フロンティアが狭まったとはいえ、まだ荒れ地の多く残る西部である。そんな不便な場所では女
 の絶対数が少ない。しかし、だからといって荒野が荒くれた男達だけのものかと言えば、そうでも
 ないのだ。むしろ、数が少ないが故に、女達の地位は高い。選挙権云々はまだ認められていないも
 のの、女の発言を無視する事は稀だろう。
  そんな世界で、より力の強い女は誰かと聞かれれば、それは婦人連に参加しているような格式ば
 った者ではなく、夜になればその腕と胸で男達を受け止める娼婦だと男達は答えるだろう。
  法整備もろくに進んでいない荒野では、保安官よりも賞金稼ぎが伸し上がっていくのと同様に、
 素行正しい一般市民よりもカウボーイなどの荒くれた男が多い地では、貞淑で品を求める女よりも、
 金さえ払えば誰も彼も受け止める娼婦のほうが求められるのは、当然と言えば当然だった。
  夜の世界で羽根を広げる彼女達の主な鳥籠は、宿が隣接する酒場だった。男達と同等の立場で酒
 を飲みながら男達の口説きに身をしなだらせ、彼女達は静かに算段を始める。一夜の夢と引き換え
 の代金を、ゆっくりと吊り上げていくのだ。
  若くて何も知らない青年など、一溜まりもないだろう。尤も、そんな彼らは年配の先輩に釘を刺
 され、よほどの事にはならないし、娼婦達の中にはそこまで悪どいものはいない。彼女達は若い子
 供をからかい、手解きをする事もしばしばだ。
  しかし、勿論、彼女達は子供達を手解きするだけではない。自分をより高く買う男を品定めもし
 ている。金を持っていそうな男の傍に身を擦り寄せ、己を売り込んでいく。それ故、金を持ってい
 る男ほど、良い娼婦を買う事が出来るのは、必然中の必然だった。
  そして、力のない金を持たない男は、そこから次第に弾かれていくのも、また必然だ。だから、
 荒野の男達は一夜の夢を見る為に、いつも力を持っていなくてはならなかったし、女達にそれを見
 せる必要があった。それをする必要のない、常に己の地位が確立している男など、限られている。
  そして、その限られた男の最たる者が、ゆっくりと傾いていく太陽を眺めながら酒を飲んでいた。
  仲間の話に相槌を打っていたその男――マッド・ドッグは、サルーンの中が現れた娼婦達にざわ
 つき始めた事に興味も示さず、グラスを傾けている。そんなマッドの様子を、賞金稼ぎ仲間は苦笑
 とも羨望ともつかぬ眼差しで見やる。
  マッドは、他の男達のように女を捕まえる為にわざわざ特別に何か気負う必要はない。そんな事
 をしなくても、女の方からマッドに近づいてくる。その端正な容貌と、西部一の賞金稼ぎの肩書き
 に惹かれて。
  今や荒野の王と言っても過言ではないマッドにとっては、女など望む必要もない、望まなくても
 手に入る存在だった。
  そして今、正しく一人の女がマッドに近づいてきた。黒い髪を結い上げた女は、この町で一番位
 の高い娼婦で、金持ち連中がこぞって一夜の相手を求める女だった。しかし彼女は、そんな男ども
 を尻目に、当然のように賞金稼ぎの王に身を寄せた。

 「久しぶりね、マッド。」

  ぞくりとするようなハスキーな声で、派手に開いた胸元を更に見せつけるように、マッドの身体
 にそれを押し付ける娼婦に、マッドはゆっくりと視線を向ける。マッドの眼と髪は、女の黒髪より
 も更に濃い、何もかもを呑み込んだような混沌とした黒をしている。
  端正な顔を女に向けたマッドは、その形の良い唇に薄っすらと笑みを刷く。

 「久しぶりだな、ジェーン。」

  ジェーンという娼婦の腰を抱きながら、マッドは少し首を傾げる。

 「香水が前と違うな………変えたのか?」
 「ええ………つい最近、行商からいい物が手に入ったから。」

  鼻先が触れ合いそうなくらい近くで囁き合う二人に、男も女も羨望とも嫉妬ともとれる眼差しを
 向ける。しかしそれを大っぴらにしないのは、ジェーンがこの町一番の娼婦で、そしてマッドが荒
 野を掛ける賞金稼ぎ達の頂にいる男だからだ。
  ジェーンはともかく、マッドの不興を買う事は、ひいてはこの荒野から弾き出される事を意味す
 る。
  酒場の中が諦観の溜め息を吐く間も、二人の今にも口付け合いそうな囁きは終わらない。ジェー
 ンの指がマッドの白い米神をなぞり、頬を伝って、じらすように首筋に落ちていく。信じられない
 くらい美しい陰影を描く喉仏を伝い落ちた彼女の指は、何かを求めるように硬く閉ざされたマッド
 のタイに触れる。
  が、マッドの細長い指が、解こうとするジェーンの手を止めた。

 「今日は、駄目だ。」

  穏やかに、しかしきっぱりと言い放ったマッドに、ジェーンの動きが止まる。それでも物言いた
 げな指先にマッドはその指を止めた手に力を込め、もう一度言う。

 「今日は、駄目だ。」

  二度の制止は、次がない事を示している。
  諦めたようにすっと離れる娼婦に、マッドは笑みを崩さずに囁いた。

 「今日は、庭を見て回らねぇと。」

  賞金稼ぎの王たる彼が告げたその意味は、つまり荒野の掃除――狩りだ。マッドが頂点に君臨し
 ていても、賞金稼ぎの中にはならず者に限りなく近い者もいるし、賞金首などは後から後から湧い
 てくる。そんな彼らの塒を、マッドが時折一掃している事は、アウトローである娼婦の耳にも少な
 からずとも入ってくる。

 「また、今度、な。」

  頬に触れるだけの口付けを甘く落として、マッドはジェーンを押しのけると、ひらりと立ち上が
 る。その途端、人の波が割れて、マッドから酒場の入口まで一本の道が出来る。王者の凱旋だ。
  背の高い、突き抜けて黒い影が、一瞬辺りを舐めつくしたかと思った瞬間、それは扉に覆い隠さ
 れた。消え去った後ろ姿の余韻に、酒場の中は浸り続けた。
  マッド・ドッグという男は、そういった動作一つ一つ見ても、自他共に認める『いい男』だった。
 でなければ西部一の賞金稼ぎという肩書と端正な容貌だけでは、決してアウトロー達の王者たりえ
 なかっただろう。
  彼が娼婦や賞金稼ぎ達に跪かれているのは、彼がその体躯や銃の腕と同様に、西部の荒くれ者と
 は一線を画しているからだ。
  マッドは武骨な男が多い中、酷く繊細な部分がある。線が細いというよりも、微細な部分に気付
 くのだ。例えば他の男ならば決して気付かない香水の変化だとか。女が欲しがっているものをさり
 げなく渡す仕草だとか。駆け出しの賞金稼ぎとの共闘で相手の取り分を知らぬ素振りで上げている
 事だとか。
  一歩間違えれば滑稽に見える気取った動作も、マッドがすればおかしくはない。
  そしてそれらはあまりにも自然な動作で、彼らがその事に気付くのは、マッドが立ち去ってから
 ずっと後の事だ。
  他の賞金稼ぎ達にはそんな事は真似できない。現に彼らは、今日マッドが髪を切っていた事にさ
 え気付かなかった。だから娼婦達は他の賞金稼ぎ達にそうした気配りはあまり求めず、娼婦の些細
 な望みに気付くマッドにしな垂れかかるのだ。それを賞金稼ぎ達も分かっているからこそ、共に狩
 りをした時は賞金の配分をマッドに任せる。自分達が知らぬ部分まで見通しているマッドが、一番
 公正に配分できる事を、彼らは知っている。
  だから、誰もがマッドを良い男だと言い、そしてそれ故にマッドは荒野の玉座に座っているのだ。




  その、賞金稼ぎ達の頂点に君臨する男は、数時間後、酒場にいた時とは比べ物にならないくらい
 むっつりとした表情で、自分の塒に辿り着いていた。
  今、マッドの黒い眼差しの先には、マッドがその出所を知らぬソファでゴロゴロしているおっさ
 んの姿がある。日もとっぷりと暮れた宵時、荒野をずっと馬を走らせていたマッドも少し疲れてい
 た。そして辿り着いた塒では、五千ドルの賞金首が我が者顔で寝そべっていたのだ。
  夕飯の準備など何一つせずに。
  マッドは自他共に認める良い男である。女への気配りは誰にも負けないだろうし、一緒に狩りに
 行った賞金稼ぎ仲間達からは、銃の腕と一緒に――嬉しくないが――料理の腕も褒められた。狩り
 の準備も恐らく誰よりも万全にこなすだろう。
  そういった、なんとなく所帯じみた部分もひっくるめて『良い男』と言われている王者は、自分
 と正反対の玉座に座っているだらしない男を見て、カチンときた――賞金首と賞金稼ぎは確かに真
 逆の存在だが、だらしないとかそういった部分まで真逆である必要はない。
  大体、この男は無精なのだ。
  言葉は極端に少なく説明をとにかく省こうとする。マッドがその乏しい表情から感情を読み取る
 のを待っている節さえある。
  それを寡黙だと思うとしても、飲み漁った酒瓶をそのまま放り出して寝るとはどういう事か。そ
 もそも放っておいたら、それ以外に楽しみのない男は際限なく飲み始めるから、酒の類はマッドが
 全て管理していたはず。それを飲んでいるというのは、完全に約束を違えていないか。
  それに、酒を飲んでいる暇があったら夕飯の準備くらいしたらどうだ。主食を作れとまでは言わ
 ないが、湯を沸かすとか、それくらいできるだろう。なのに、つるりと綺麗なままの台所は、男が
 そこに見向きもしなかった事を示している。
  掃除しないし食事も作らない男に、マッドは腹の底で、ごく潰し!と罵る。役立たず!とも怒鳴
 った。図体がでかいだけで何もしない男など、いるだけ無駄だ。
  そうだ、しかもこのおっさん、これだけ家事を担っているマッドに、礼の一つも、謝罪の一つも
 言った事がない。  
  それどころか、夜になればマッドを押し倒して、好きなだけ弄り倒す。一週間前、荒野のど真ん
 中で押し倒されて良いようにされて次の日動けなかった事を思い出し、マッドはこいつヒモとして
 も最悪だ、と心中で呻いた。マッドはこの男に、気配りどころか、身体を気遣われた事もなかった
 のだ。
  いやそもそも、このおっさんの辞書にに気配りなんて言葉はないに違いない。多分、マッドが熱
 を出して倒れでもしない限り、マッドの変調に気付かないだろう。
  そんな、自分と真逆のおっさんに寄生されている事実に、マッドが怒りのあまり三日分の着替え
 の入った袋を、ぐうぐうと眠りこけているその顔に叩きつけても無理もない事だった。辛うじても
 う一本の腕に抱えていた牛乳瓶を叩きつけなかったのは、相手の怪我を考えたからではなく、単に
 後片付けが面倒だと理性が働いたからだ。
  西部一の賞金稼ぎに渾身の力で着替えを叩きつけられ、西部一の賞金首は、流石に眼を覚ました。
 突然の衝撃に跳ね起きて辺りを見回したサンダウンが、顔を真っ赤にしている妻、ではなくて嫁、
 でもなくてライバルがいる事に対して、ああ夕飯の時間か、と思ったあたり、その神経の図太さは
 もはや折り紙つきだろう。
  が、サンダウンが今日の夕飯は、とマッドに訊こうとした瞬間、マッドがサンダウンに突っ掛か
 ってきた。ぼかすかと子供のように腕を振り回すマッドを胸で受け止め、サンダウンは少しばかり
 呆気にとられる。
  しかし、いくらマッドがサンダウンよりも小さい――マッドが聞けば怒るだろうがサンダウンの
 ほうがマッドよりも背が高いのは揺るぎもない事実だ――と言っても、そこはやはり西部一の賞金
 稼ぎ。暴れる力が半端ではない。油断していると蹴り飛ばされてしまうだろうと思い、サンダウン
 も力を込めてマッドを押し込める。いつもよりも少しばかり抱き心地の悪いマッドを押え込み、黒
 い髪に鼻先を埋める。
  が、マッドはまだ癇癪を起している。一度自分の境遇の理不尽さに気付いたマッドは、その理不
 尽の元凶であるサンダウンに、怒り狂っている――それは些か、家事を手伝わない夫に腹を立てる
 妻の様相に見えなくもないが。
  だが、無自覚なサンダウンには、マッドの怒りを理解する事など出来ない。辛うじてサンダウン
 に分かるのは、今日のマッドの抱き心地がいつもと違うという事くらいである。
  じたばたと暴れるマッドを押え込みながら、はたとサンダウンはマッドの抱き心地が違う理由に
 気付く。少し、きしきしとする、まだこなれていない感じのするこれは、

 「ジャケットを新調したのか?」

  問い掛けると、マッドがぴくりと反応して、動きが止まった。

 「………タイも、新しいな。」

  落ち着いたボルドーの色のそれは、今までなかったはず。それに、とサンダウンはマッドの髪に
 顔を埋めながら、その触り心地を確かめながら呟いた。

 「髪も、切ったか…………。」

  そう呟いた時には、マッドはすっかり大人しくなっている。
  誰一人も気付かなかったそれらの事にサンダウンが気付いた事は、マッドの怒り狂った心を抑え
 るのに十分だった。

 「マッド?」

  急に大人しくなったマッドに訝しがりながらも、サンダウンはマッドの身体から離れようとはし
 ない。代わりに、ぴとりと胸に顔を押しつけているマッドの、露わになった耳に口付け、囁く。

 「冷たくなっている………随分と長い間外にいたのか。」

  そう囁いて抱き込めば、マッドはもう抵抗しなかった。