大丈夫だ、と言ったマッドを疑うわけではなかった。
  だが、マッドを疑わない事と、マッドの事を心配する事は全くの別物だ。
  マッドの心変わりやマッドの銃の腕に不安があるわけではない。ただ、マッドの拒絶されるであ
 ろう斜陽貴族達が、果たして何をしでかすのか、サンダウンには想像できない。いや、むしろマッ
 ドに拒絶された己を想像すれば、どう考えてもおぞましい行為しか思い浮かばず、それが不安と焦
 りを増長させた。
  サンダウンは、斜陽貴族にただ一人で逢いに行ったマッドへの焦燥が、己自身から生み出された
 欲望の所為である事を、良く理解している。

  マッドに手酷く拒絶されたなら。
  きっと、サンダウンは黙ってその手を離してやる事など出来ない。
  そう思うからこそ、これからマッドに振り払われる貴族どもの行為に、激しい焦燥を感じるのだ。

  だから、大丈夫だと言って出ていったマッドを、一瞬躊躇ったが、押し寄せる不安に勝てるはず
 もなく、こっそりと追いかけた。 
  何事もなければそれで良い。マッドに気付かれて、そんなに信用がないのかと詰られても平気だ。
 マッドがサンダウンに苛立ったとしても、マッド自身が無事ならば、サンダウンはそれくらい呑み
 込んでみせる。
  だが、マッドの身に何かある事だけは、駄目だ。
  その身に一筋、消えようのない痕が付こうものなら、きっとサンダウンは傷つけた相手と、何よ
 りもそれを阻止できなかった自分を未来永劫憎み続ける。
  それは、サンダウンがマッドの父親を殺してしまったからという、負い目や贖罪などという綺麗
 事の為ではない。
  単に、サンダウンがマッドを誰にも渡したくないという、醜い独占欲を持っているだけた。
  マッドの昔の友人だか古く由緒正しい血筋の貴族だか何だか知らないが、そんな肩書はこの荒く
 れたアメリカ西部では何の意味も持たない。
  乾いた砂と風が支配する荒野では、力こそが全てだ。欲しい物は力で奪い取り、奪い返す。それ
 は、この荒野で生きていく時に狂気の名を冠する事を決めたマッドが、一番良く知っている。だか
 ら、マッドを組み敷きたいのなら力で圧倒するしかなく、それが出来るのはサンダウン唯一人だ。
  その権利は、血筋や社会的地位などでは決して奪われる事はない。
  もしも、彼らが勘違いをして、カラカラ鳴りするような肩書を振りかざしてマッドを奪おうと言
 うのなら、サンダウンはマッドが何を言おうとそれを阻止してみせる。

     途方もなく湧き上がってくる欲望を押し殺しながら、サンダウンはマッドの後を付けていく。程
 よい距離を保ちつつ、その姿が消えてしまわないように。
  西部一の賞金稼ぎの名を名実ともに得ているマッドを、気付かれないように追いかける事が出来
 るのは、この世でサンダウン唯一人だった。
  遠目から見てもすっきりとしなやかな体躯を持つマッドは、人ごみの中でも抜きん出て端正だ。
 どう見ても目立つはずのその身体が、しかし少しでも意識を逸らせば消えてしまいそうに見えるの
 は、マッドもまた追手の眼を逸らそうとしている所為か。
  その追手は、果たしてサンダウンであるのか、それとも他に思い当たる者がいるのか。

  そう思うのと、マッドが路地裏へと脚を運ぶのと、そして何か鈍い光が視界の端で弾けるのは同
 時だった。

  咄嗟に脚を止めて身を捻った瞬間、何処かで銃声が聞こえ、あっと言う間にあちこちで人の悲鳴
 が沸き立った。いきなり、白昼堂々と聞こえた銃声は、人々を沸騰させるのに十分だった。そして、
 路地を曲がったマッドの気配を見失うのにも。

  軽い舌打ちをして、サンダウンはこのままマッドを追うべきか考え、その考えを頭から追い払っ
 た。本当ならば追いかけたいが、あの銃声は明らかにサンダウンを狙っていた。素人臭い狙撃だが、
 けれどもそれを張り付けたままマッドを追うのは、同時にマッドを危険に曝す事であり、それはサ
 ンダウンの望むべき事ではない。
  それならば、さっさと狙撃者を捕え、始末なりなんなりしてマッドを追ったほうが得策だった。
  そう考えたサンダウンは、身を翻して物陰に身を隠す。相手はどう見ても素人だった。そしてそ
 れは、昨日の事も考えれば斜陽貴族の誰かと考えて間違いがないだろう。実戦を伴わない彼らの狙
 撃は、相手を誘導しておびき出し、狙い撃ちするなんて事は出来ないに違いない。サンダウンが身
 を隠せば、その姿を追って、自らの姿を白日のもとに曝すだろう。

  果たして、サンダウンの思惑通りになった。
  軽い足音を立て、三方から近付く気配に、サンダウンは眉を顰めたが一抹の同情も感じなかった。
 無言で銃を引き抜くと、鈍い光が見えた先を撃ち落とす。

 「あっ………!」

  高い悲鳴が聞こえた。それと共に何かが地面に落ちた固い音。おそらく、銃を落したのだろう。

 「グロリア様!」

  慌ただしくそちらに駆け寄る足音にサンダウンは容赦なく銃弾を叩きこんだ。悲鳴が二つ上がり、
 どさりと膝を突く音が聞こえた。それらがもがくだけで立ち上がらないのを見て、サンダウンはそ
 ちらに向けて姿を見せた。
  途端に、この世のありとあらゆる恨みを込めた視線がサンダウンを射抜く。

 「貴様……!」

  まるで落城した城主の夫人のように公然と顔を上げ、そう吐き捨てたのは金の巻き毛を惜しみな
 く零した女だ。瀟洒なドレスを身に纏う彼女は、女主人のようにその両脇に二人の従者を突き従え
 ている。
  一人は昨日マッドを連れ去った女。マッドを主と呼び、マッドにはケイトと呼ばれていた女だ。
  もう一人はサンダウンに突き纏った女。娼婦のように身をくねらせながら、銃弾の元に導こうと
 した。

    では、とサンダウンは巻き毛の女を見下ろした。
  まだ見ていないこの女が、一時とはいえ、マッドと婚約関係にあった女か。

  それを見た時、けれども不思議な事にサンダウンの中にさほどの衝撃は訪れなかった。
  それは女の両眼が青く、しかし濁っていた所為だったのかもしれない。
  その色が好きだ、とサンダウンの眼を見て躊躇なく告げたマッドは、続けて澄んだ空のようなそ
 の眼が好きだと言った。マッドに好まれているらしい自分の眼と比べてみると、女の眼は激しくく
 すんでいた。その優越感故に、サンダウンはマッドの婚約者を見ても特に感慨を得なかったのだろ
 う。
  黙って女達を見下ろすサンダウンに、最初に反応したのはケイトだった。忠実なる僕である彼女
 は、牙を剥く番犬のように吠えたてる。

 「この人殺し!旦那様を殺した挙句、ご主人様まで誑かして!」

  サンダウンの胸を抉らんとして叫んだ声は、けれどもやはりサンダウンには傷を付けなかった。
 何故なら、サンダウンは自分を罰するのがマッドであると知っているからだ。そしてマッドがサン
 ダウンの死を願わぬ以上、サンダウンは他の誰かに殺されてやるわけにはいかないのだ。
  例えそれが、マッドの忠実な僕であろうとする女であろうとも。
  しかしそれを口にしてやるほど、サンダウンは優しい人間ではなかった。
  そもそも、彼女達に何か言葉をかけて付きき合ってやるには、サンダウンが今一番気に懸けてい
 る存在は、女達の為にに例え一時と雖も忘れ去るには、大切すぎた。それどころか、サンダウンの
 頭はくずおれた女達を見下ろして、すぐさま今現在マッドと顔を合わせている貴族どもについて思
 い巡らせている。
  今ここに女達がいるという事は、マッドの元には男達がいるという事だ。それは、サンダウンに
 再び焦燥を募らせる。
  例え、彼らがマッドに対して、サンダウンと同じ欲を持っていなかったとしても、だ。
  サンダウンは、どうしようもないほど、マッドの危機には臆病と言っても過言でないほどに、敏
 感だった。

  それ故、これ以上用はないと無言で身を翻して、再びマッドを追いかけようとした時、呪詛のよ
 うに女の声が湧き上がった。その声に振り返れば、巻き毛の女がサンダウンを睨み上げていた。

 「あの人は、渡さないわ。」

  きっぱりと言い切った声は、少しずつ記憶から薄れ去ろうとしていた、あのくすんだ悲しい世界
 で聞いた魔王の声に似ていた。

 「あの人を、貴様のような下劣な輩になど渡さないわ。あの人は、私達の日輪なのよ。貴様如き罪
  人が触れて、我が物のように扱って良い人ではないのよ。」

  身の程知らずが。
  そう呟く堕ちた貴族は、自らが自ら認めた王に弾かれるような顔をしている事に気付いていない。

 「貴様などには渡さない。どんな方法を使っても、あの人を取り戻してみせる。貴様があの人に悦
  楽を持って近付いたと言うのなら、私達も同じ方法で取り返す。」

  それがあの人を傷つける事になろうとも。

     その台詞に、サンダウンは腹の底がすっと冷たくなるような気がした。マッドを取り戻す為なら
 マッドに何をしても良いと告げた女は、サンダウンの中に横たわる醜い欲望をそのまま体現したよ
 うな顔をしていたからだ。
  サンダウンが、マッドからの信頼と、マッドに対する慈愛で抑え込んでいるその欲望を、あっさ
 りと自らの為に解き放った女に、サンダウンはマッドへの不安が一気に吹き荒れた。そして、大切
 だと喚きながらも、結局は自分の為にマッドを傷つける彼、彼女らに、言いようのないおぞましさ
 を感じた。
  その衝動に突き上げられるようにして、サンダウンはピースメーカーを跳ね上げる。

 「ふ、ふふ、女に銃を向けるというの!所詮は下劣な田舎者か……!」

  哄笑しようとする女に、サンダウンは容赦なく引き金を引いた。銃声と共に、笑い声が途絶える。
 そして、身体ごと地面に倒れる音。

 「貴様!」

  倒れた女帝に、その他の二人が反応した。立ち上がり、銃を片手に、おろかにも西部一の賞金首
 を撃ち取ろうとしている。マッドでさえ撃ち取れない荒野の魔王に、身の程知らずにも銃口を向け
 ている。
  それらに対して、サンダウンはやはり無言で、けれども圧倒的な嫌悪感を持って銃を撃ち払う。
  正確無比な弾道は、今回も狂い一つなく女達を撃ち取っていた。どさりと倒れる軽い音。
    ただし、血は一滴も流れていない。
  サンダウンが狙ったのは女の頭のすぐ脇。一瞬で巻き起こった風圧に、女の弱い頭は耐えられず
 脳震盪を起こしたのだ。
  しかし、殺さなかったのは、決して情けなどではない。殺せば後々面倒になるという打算が働い
 た末の事だ。例えばマッドを追いかける事に、或いはマッドを貴族どもの毒牙から掬い上げる時に、
 女を殺したという事実が何らかの足枷とならぬ可能性がないわけではない。
  それは単に、ただひたすらに滑稽なほど、マッドの為だけに成された慈悲だった。

  もしもこれが男であったなら、町中でなかったなら。

  きっと、サンダウンは表情一つ変えず撃ち殺していただろう。愛しているのだと叫びながら、愛
 している相手の身を危機に曝すなど、それは生きたままハゲワシに啄ばまれてもおかしくないほど
 の罪だ。

  そしてその罪は、今も現在進行形で執り行われようとしている。サンダウンは、それを何として
 でも阻止せねばならない。
  阻止できなかった場合、その瞬間、この世界はサンダウンごと破壊されて然るべきだ。

   動かない女どもに背を向けて、サンダウンは今度こそ、絶望を食い止めるために、マッドのも
  とへと脚を速めた。