マッドが使用人だった女に連れ去られた後、サンダウンはしばらくその場を動く事が出来ずにい
 た。突如として現れた過去の亡霊は、未だに過去から逃れられずにいるサンダウンを怯えさせるに
 は十分だ。
  マッドの細い手足に、銀細工のような繊細な貴族の鎖が絡みついている事を幻視してしまうと言
 うのに、それが本物であると言わんばかりに、滅んだはずの貴族達はマッドを連れ去ろうとしてい
 る。
  それは途方もなく正当な要求であると、サンダウンも理解していた。
  マッドは、決してこの荒野にいるべき存在ではない。そんな事は、他ならぬサンダウンが一番良
 く知っている。繊細な長い指が、本当は銃の引き金を引く為にあるのではない事は、遠い昔に既に
 理解していた事だ。
  けれども、浅ましい、とてもではないが貴族になれないサンダウンは、腕の中にいるマッドを手
 放したくないと呟いている。いつかは手放さなくてはならないと、悟ったように言っているが、本
 心は真逆だ。
  まるで子犬のように自分に甘えるマッドを、手放したくない。誰よりも凶暴で峻烈な光を灯した
 眼が未来永劫自分だけを見ていればいい。苛烈で美しい獣を、ずっと手元に置いておきたい。
  サンダウンの中で、一番醜くおぞましい部分が牙を剥いて唸り、今すぐにでも何処かに行こうと
 するマッドを引き止め、何処かに閉じ込めてしまいたい衝動に駆られている。

     このままマッドが戻って来なかったなら。
  そんな不安と焦燥に駆られながら、のろのろと店を離れた時、一人の女に捕まった。大胆に胸元
 を広げたドレス姿の女は、挑発的にサンダウンを見て、腕を取ろうと細い手を閃かせている。
  だが、もともと淡白な上、更に今は全てが味気ないと感じるサンダウンには、それらの魅惑は何
 の効果も齎さなかった。マッドが引き抜かれてしまった事によって、サンダウンの世界は一瞬で色
 褪せ、萎びてしまった。
  マッドが背後で興味津々に書物を見ているだけで十分に魅力的だった店先でさえ、魔法が解けて
 しまったかのように埃っぽい古びた店先に戻ってしまったのに、ただ大胆な服を着ただけの女に興
 味を惹かれるわけがない。
  しなだれかかろうとする女を、路肩の石であるかのように無視しサンダウンはマッドを待つ為に
 宿へと向かう。本当に戻ってくるだろうか、という一抹の不安を抱えて。マッドを喪失する不安は、
 女では埋める事ができない。他ならぬマッド本人でなければ満たす事が出来ない。

  マッドの名前だけを頭の中で繰り返しながら、サンダウンは宿へと鈍い足取りで向かう。今にも
 マッドが気を変えて背後から追いかけてくるのを夢想しながら。そんな事は、よほどの事がない限
 り――貴族達に襲われる予兆を見て取ったとかがない限り――起こらないだろうが。
  自分の女々しさに自嘲しながら、それでもサンダウンはマッドの事を考えてしまう。

  しかし、マッドの事に気を取られているからと言って、賞金首サンダウン・キッドが、命を狙わ
 れる事について鈍感になるはずがなかった。
  纏わりついてきた女が諦めたのか視界の端から消えるや否や、次に捕えたのは見慣れた銀の照り
 返しだ。強い日差しを浴びて、物陰で鋭く光ったそれが真鍮の黒い穴を開かせている事をサンダウ
 ンは知っている。
  何よりも、その真鍮の光からは、はっきりと殺気が込められている。
  サンダウンが身を引いた瞬間、先程までサンダウンが立っていた場所に銃声が撃ち込まれた。耳
 を劈くような音に、人通りは少ないもののゼロではない大通りから、はっきりと悲鳴が起こった。
 その中で、もう一度銃声が湧き起こる。しかしそれもサンダウンを穿つには程遠い。
  三発目はなかった。流石に人の悲鳴が大きくなり過ぎたのだろう。駆けて逃げ出す音が、遠くに
 聞こえた。
  その様子に、どうやら相手がただの賞金稼ぎではない事が知れた。気配を隠すでもなく、自分の
 居場所を隠す事も出来ず、まして人が周りにいる時に更に銃弾を撃ち込んで、声高に逃げるなど。
  どう考えても、素人だ。

  しかし、何故。

        素人が故の浅はかさだろうか。賞金首サンダウン・キッドを撃ち取ろうと考えたのは、素人だか
 ら出来たのか。
  それとも、そうせざるを得ない、理由があったのか。

  一瞬、追いかけるべきか迷った。しかし、すぐに追いかけるべきではないと結論を出す。サンダ
 ウンが追いかけて行ったところで何が出来るわけでもない。せいぜい、銃を撃ち落とすか、或いは
 心臓を撃ち抜くくらいの事しかできない。
  それ以外のもっと建設的な方法――保安官に突き出すだとか、そういった行為は、賞金首である
 自分には出来ないのだ。
  それに何よりも、銃撃者の事を考える暇があったらすぐさまマッドの事に思考が切り替わるのは
 もはやサンダウンにとってはどうしようもない事だ。あんな銃撃者如きにマッドがどうにかされる
 とは思っていないが、それでも、大切な愛しい子の事を考えるのは、もはや今更だ。
  のろのろと宿に向かおうとしていた脚は、素早く踵を返し、マッドを迎えに行こうと確固たる意
 志を持って足早になる。
  マッドが何処に行ったのかは分からない。ただ、うらぶれた路地裏に入っていったのは気になっ
 て途中まで付けていたから分かる。その路地裏へと半ば駆け脚になりながら向かう。マッドがどの
 家に連れ込まれたのかまでは分からないが、最悪、一つ一つ開けて行けば良いだけの話だ。
  そう思って角を曲がろうとしたところで、はっとした。
  近付く気配が、慌ただしさを持ってサンダウンを目指している。その気配にサンダウンは両腕を
 広げてやりたい気分になった。そして実際そうして、何も知らずに角を曲がってきた彼を、確信を
 持って抱き締める。

 「………っ!」

  角を曲がった途端に抱き締められたマッドは、驚いたようだった。しかし、それは一瞬の事。す
 ぐにサンダウンと気付き、肩の力を抜く。だが、そこから先、何一つとして言おうとしないマッド
 にサンダウンは首を傾げる。

 「マッド?」

     名を呼ぶと、マッドの黒い瞳がサンダウンを見上げる。
  いっそ、無垢と言って良いほど透き通った眼に見つめられ、サンダウンは言葉を失いそうになっ
 た。それを誤魔化す為に、慌てて取ってつけたように呟く。

 「遅いから、様子を見に来た………。」

  遅いというのは嘘だ。まだ、約束の一時間も経っていない。
  しかし、マッドは何も言わなかった。代わりに、まるで子供だった時のように、ぎゅうとしがみ
 付いてくる。その仕草に、サンダウンは今度こそ困惑した。

 「どうした……?」

  問い掛けても、やはり返事はない。ぎゅうとしがみ付く腕に力がこもるだけだ。その腕の力に抱
 き返す事で応え、此処ではこれ以上は問い質せないと思い、囁く。

 「宿に行くか?」
 「うん……。」

  返答も、まるで子供のようだった。怯えたようなその手を引いて、サンダウンはマッドを宿へと
 連れていく。
  サンダウンに手を引かれるマッドは、驚くほど従順だった。宿に着いて、サンダウンがマッドと
 同室の部屋を取った事にも何も言わなかった。通された部屋で、途方に暮れたように立ち尽くし、
 頼りなさげにサンダウンを見るマッドは、普段の西部一の賞金稼ぎの面影は何処にもない。
  何処か弱々しいマッドの様子に、サンダウンは戸惑いながらもその傍らに立って、その白い頬に
 手を添える。

 「マッド、何か、あったのか?」

  もう一度問い掛けると、マッドの眼がゆっくりと動いてサンダウンを捕えた。そして、繊細な手
 がサンダウンの武骨な手に触れる。

 「あんたこそ、何かあったんじゃねぇのかよ。」

  まるで傷跡を探すかのようにマッドの手がサンダウンの手をなぞる。その言葉に、サンダウンは
 もしやマッドは先程の銃声を聞いていたのだろうか、と思う。しかしそれならもっと具体的に言う
 はずだ。つまり、マッドはサンダウンが狙撃された事は知らないが、何かがあった事は知っている
 のだ。

 「………お前こそ、何が、あった?」

  サンダウンの身に何かがあったと思わせるような事が、あったのか。
  問い掛ければ、マッドの眼は微かに揺れ動いた。こんなふうに、マッドが弱々しい感情を相手に
 悟らせる事はまずない。その、まずない事が起きている時点で、何かがあった事は明白だ。
  それを肯定するように、マッドはそっとサンダウンから眼を逸らした。

 「一緒に来いと言われた。」

  呟いたマッドの言葉に、誰に、と問うのは愚問だ。先程までマッドは貴族であった頃の友人と逢
 っていたのだから、その連中に言われたに違いない。
  そしてそれは、サンダウンの胸を大きく抉った。よろけてしまいそうなほどの衝撃だったが、そ
 れを辛うじて堪え、無表情を保ちつつ何とか声を出した。

 「それで、お前は、何と返事をしたんだ………?」

  声は、震えていなかっただろうか。もしかしたら、眼は縋るような色をしているかもしれない。
 幸いにして、それらは俯いているマッドには気付かれなかったようだったが。

 「嫌だ、と答えた。」

  俯いてはいたが、マッドの答えは明快だった。きっぱりと言い放ったマッドに、サンダウンは安
 堵が胸の中に満ちていくのを感じる。

 「でも、あいつらはよく考えろと俺に言った。明日、もう一度返事を聞きに来るって。それで……。」

  そこで、マッドの声が詰まった。マッドにしては珍しい事に、サンダウンは思わずその顔を覗き
 込む。同時に、マッドが意を決したように顔を上げた。図らずとも間近で見る事になった黒い瞳に、
 サンダウンはたじろいだ。しかしマッドはたじろがずに、一気に言い募る。

 「あいつらは、あんたを殺す気だ。その為に俺をあんたから引き剥がしたんだ。あいつらは失敗し
  たと言っていた。当り前っちゃ当り前だ。あいつらがあんたを殺す事なんか出来るはずがねぇ。
  でも、また来るかもしれねぇ。あんたが殺される事はないって分かってる。でも………。」

    堰を切ったかのように一気に溢れだしたマッドの言葉に、サンダウンは先程の一連の流れに全て
 合点が言った。そして、どうしようもなくマッドが愛おしくなって、思わず抱き締めた。

 「大丈夫だ………。私は、お前以外には、殺されない。」

  サンダウンを狙撃した貴族達。彼らの気持ちは、サンダウンには痛いくらいに良く分かった。
  彼らはサンダウンを殺す為にマッドを呼び寄せたのではない。
  マッドをサンダウンから奪い返す為に、マッドを元いた世界に呼び戻す為に、サンダウンを撃ち
 殺そうと考えたのだ。それは、マッドがサンダウンを追いかけていると知ったからなのか、それと
 も共にいるところを見てそれ以上の何かを嗅ぎ取ったからなのか、そこまでは分からない。
  ただ、彼らはマッドをサンダウンから奪い返すつもりなのだ。
  サンダウンにとってマッドが手放し難いものであるのと同様、彼らにとってもマッドが諦めきれ
 ないものであるから。
  それを理解できぬのは、当の本人であるマッドだけだ。誰からも欲しがられている自分自身を目
 的と思わず、サンダウンを殺す事を目的と考えた段階で、それは分かっている。そして、サンダウ
 ンが傷つけられるのではないかと怯えているのだ。サンダウンに懐き、サンダウンを喪失する事に
 怯えて震える様子が、途方もなく愛おしかった。

  マッドを腕に囲ったまま、二つあるベッドのうち片方に腰を下ろす。マッドの身体を膝の間に座
 らせ、耳元で大丈夫だともう一度囁く。するとマッドはいつものようにサンダウンに身を凭れさせ、
 何もかもを委ねてくる。
  使われないであろうもう一つのベッドをちらりと見やり、マッドを腕の中に囲いこむ。サンダウ
 ンに全てを投げ出したマッドを見下ろし、痛いくらいにその気持ちが分かる貴族達の事を思った。
  そして、見知らぬ彼らに腹の底で唸る。

  この美しい獣は、渡せない、と。