連れて行かれたのは、路地裏の隅にある場末の酒場だった。
  衰退していこうとしているとはいえ、表通りには大きな酒場が軒を連ねていると言うのに、こん
 な所を選んだ使用人に、マッドは少し背筋に力を込めた。
  今、この時期に現れた、かつての使用人と、かつての友人達。自分に逢いたいのだと言う彼らの
 言葉を鵜呑みにするほど、賞金稼ぎマッド・ドッグは愚かではない。落ちぶれて旅芸人となったと
 はいえ、気位の高い貴族が、かつて友人だった、けれども賞金稼ぎに好んで逢いに来るとは到底思
 えなかった。
  賞金稼ぎとは、アメリカ西部では確かにメジャーな職業だ。けれどもそれは同時にダーティでも
 あり、ならず者と紙一重の位置にある。そんな彼らの頂点に君臨するマッドとて、いつ賞金が懸け
 られるか分からない。そんな職業だ。
  だから、体面を重んじるであろう斜陽貴族が、何の意図も持たずに――ただ逢いたいという理由
 だけで、賞金稼ぎを隣席させるわけがないのだ。

  金か。
  それとも、伝手か。

  マッドはケイトに連れて行かれる間、そんな事を考えていた。
  そうして連れてこられたのが、うらぶれた酒場だ。先程までの思考もあり、マッドが思わずバン
 トラインの銃把をなぞったのも、無理のない事だった。いつ、何が出てきても良いように、黒光り
 のする相棒は、銃弾を満腹になるまで満たしている。それを唯一のお守りのようにして、マッドは
 ケイトに導かれるまま、埃っぽい酒場の中へと入っていった。

 「ご主人様を、お連れしました。」

  扉のすぐ近くで、ケイトが酒場の奥に向かって一礼し、ひっそりとそう告げた。
  途端に、奥の暗がりにで蟠っていた幾つかの塊が、はっとしたように顔を上げる。その様子を、
 闇を透かすように眼を細めて見やり、マッドは彼らの気配を知っているか記憶の中を遡る。

 「ああ、本当だ……!」

  闇の中から生え出てくるように、金髪の先端だけがウェーブがかった男が声を上げた。その隣で
 も、ブルネットの短い髪の男が立ち上がってマッドを凝視している。

 「本当に、来てくれるとは。」

  太い腕で大袈裟に十字を切って神への感謝を示した男は、浅黒い肌をしている。
  彼らをゆっくりと、吟味するように見回していると、歌うような声が両手を広げてやってきた。

 「ああ、久しぶりだわ……!やっと逢えたのね………。」

  金の羽根のように巻き毛をふわふわと漂わせて、白いドレスを身に纏った女がマッドに向かって
 腕を広げる。それを微笑みながら眺めやる男達。その様子を、昔、確かに見た事がある。小さなダ
 ンスホールで、まだ少年少女の域を出ない彼らが、南北戦争の影を引き摺りながらも貴族然として
 踊りに興じていた時の事を、覚えている。
  淡い金の髪をした、背の低かったクリフ。
  そばかすだらけで、髪を短く刈ったセドリック。
  厳格なクリスチャンの家系に育ったジェイコブ。
  そして金の巻き毛の麗しかったグロリア。
  ゆっくりと思いだされたそれらに、とりあえず彼らが斜陽貴族を騙るならず者連中ではない事を
 確認する。尤も、斜陽貴族であるならず者である可能性が消え去ったわけではないのだが。

    彼らの姿から、それ以上の要素をもっと汲み取ろうと、マッドはじっと斜陽貴族達を眺める。そ
 の視線に何を思ったのか、腕を広げたグロリアはマッドに近付いてくる。
    再会の言葉を紡ぎながら近付いてくる女は、その唇で一つの音を組みたてようとした。
 それを見て、マッドははっとする。
  それは、この荒野では、決して口にしてはならない言葉だ。

 「…………俺を、その名で呼ぶな。」

  吐き捨てた声は、マッド自身が驚くほど低く、固かった。
  それを耳にした男女は、途端に凍りつく。表情を強張らせ立ち尽くす男達の中で、両腕を広げた
 女も浮かべた笑みを歪にしている。おそらく、自分が呼びだした相手が、かつての友人の姿とかけ
 離れた姿になっていた事に、ようやく気が付いたのだろう。
  所詮、貴族の眼などそんなものだ。サンダウンのように、マッドの現在を見ても変わらず抱き締
 めてくれる事などあるはずがない。
  マッドはひんやりとした気分で、酒場の中に入ると促されるのを待たずに男達の座るテーブルの
 前に座る。

 「それで、俺に何の用があるんだ?」

    殊更ぞんざいな口調で、マッドは未だに立ち尽くして動かない彼らを見上げる。マッドが優雅に
 脚を組んだのを見て、彼らはようやく我に返ったのか、慌てて席に座る。マッドに向けて腕を広げ
 ていた女も、何かを諦めたように腕を下ろしてゆっくりと席に着いた。ケイトは座らずに、従僕の
 ようにテーブルの脇に佇立している。
  そんな彼らの顔を一つ一つ眺めていき、マッドは椅子に凭れて膝の上で指を組み、もう一度同じ
 台詞を吐いた。

 「それで、この俺に、何の用があるんだ?」

  賞金稼ぎの台詞に、旅芸人紛いの事をしている斜陽貴族達は顔を合わせ、そして其々が口を開く。
 その唇の形を見て、マッドは眼付きを今度こそ鋭く尖らせた。

 「てめぇらは同じ事を俺に言わせて楽しいのか。俺は、さっきその名で呼ぶな、と言ったはずだぜ。」

  彼らが口にしようとしたのは、マッドの昔の名前だ。荒野に来た時に捨て去った、古い古い名前。
 この荒野でその名を知る者は誰も――いや、サンダウンを除いて誰もいない。そしてサンダウンは
 マッドがその名を捨て去っている事を承知しているのか、マッドの事をその名前で呼んだ事はない。
  サンダウンと同じ事を、この連中に求める事は無意味な事であるとは分かっているのだが、その
 あたりの機微をもう少し理解して欲しいものではある。
  苛立たしげにそう思っているマッドに、彼らはようやく諦めたように呟いた。

 「分かった。お前がそう言うのなら………。」

    わざとらしく咳払いし、やっと本題に入る素振りを見せ始めたクリフに、マッドは溜め息を吐く。

 「で、俺に、何の用があるって?」
 「……いや、用というほどの用があったわけじゃない。ただ、お前の噂を耳にして、逢いたくなっ
  ただけだ。」

  西部一の賞金稼ぎが、南部の没落貴族であったなど。

 「最初は半信半疑だったんだ。お前が賞金稼ぎだなんて。」
 「そういう奴は大勢いるぜ。俺はこの仕事をし始めてから、実は昔は南部でプランテーションを経
  営していたって言う奴を、数十人は見てきた。」

  本当かどうかは知らないが、と付け足すと、クリフは表情を歪めた。どうやら、笑おうとして失
 敗したらしい。彼の中では、未だに失われた財産を口にするのは辛いのだ。

 「でも、お前は本物だろう。一目見てすぐに分かった。賞金稼ぎマッド・ドッグが、正真正銘の貴
  族だって事に。」
 「だから、なんなんだ?」

  本題に入ったと思ったら、まだ近付かないクリフの言葉にマッドが再び苛立ち始めた時、グロリ
 アが歌うように声を上げた。

 「貴方に逢いたかったのよ。」

  うらぶれた酒場だと言うのに、まるでそこが豪奢なオペラハウスかと勘違いしてしまうかのよう
 な、極上の声音。そういえば、彼女の家系は代々音楽家だった事を思い出す。その関係で、マッド
 の家とも関わりが深かったのだが。

 「本当よ。信じて。貴方が西部にいると聞いて、逢いたくなったのよ。」

  舞台女優のように抑揚に富んだ声音は、聞く者に説得力を持たせる。
  しかし、賞金稼ぎの王になるまでの幾多もの死線を潜り抜けてきたマッドにとって、それはただ
 の音の連なりに過ぎなかった。

 「でも、それだけじゃねぇだろう?逢いたいだけなら、こんな所に呼び出さなくても良かったはず
  だ。それこそ、どこででも良かったんじゃねぇのか。でもわざわざこんな隠れ家みたいな場所に
  呼びだしたって事は、俺に何か言いたい事があるんだろう?」

  容赦なく暴き立てるマッドに、グロリアの流れるような音階が詰まった。よもや、かつての友人
 から此処までの追撃を受けるとは思わなかったのだろう。或いは、眼の前にいるマッドを、賞金稼
 ぎマッド・ドッグであると真に理解していなかったか。
  酷薄な笑みを浮かべたマッドに、グロリアの表情が震え始めた。今にも泣きだすかと思うほど蒼
 白になった顔と、マッドの間に、遮るように太い腕が割り込む。

 「ならば、単刀直入に言おう。」

  低い声が降ってきたのを見て、マッドは顔を上げる。するとそこには、厳しい顔をしたジェイコ
 ブがいた。首から下げられたロザリオが、彼の属性が未だに家から離れていない事を示している。
 何が起きても神だけは捨て去らないという信念に、ある種の滑稽さを覚えているマッドに、ジェイ
 コブは厳しい声を傾ける。

 「お前も、私達と一緒に来るんだ。」
 「やなこった。」

  マッドはその第一命令を一蹴した。
  そもそも、この荒野で、マッドに命じようとする事が間違っている。しかし、荒野の掟など知ら
 ない信徒は、マッドの言葉に眉根を寄せている。

 「お前の歩く道は間違っている。」
 「てめぇに、そんな事言われる筋合いはねぇよ。」
 「人を殺し、姦淫をしているお前の何処が正しいと言うのだ。」
 「正しいなんて俺は一言も言ってねぇだろ。」

  相変わらずの頭の固さに、マッドは溜め息を吐く。
  マッドは自分の歩いている道が正しいだとは思っていない。しかしそれでもマッドが選んできた
 道だ。マッドがこの道を選んだ以上、マッドはそれに責任がある。無責任に放置して、新しい道を
 歩くなんて出来るはずがない。
  だが、それを理解させるのは非常に骨が折れる。どうしようかと言葉を選んでいると、ジェイコ
 ブの手がいきなりマッドの手を掴んだ。ジェイコブの浅黒い手に比べて、マッドの白い手は傷が多
 くても繊細だ。そのまま握り潰されてしまいそうなほど。

   「お前のこの手は、何の為にあるんだ。」
 「ああ?」
 「今のお前に、ピアノを弾く権利があるとでも思っているのか。」

  その言葉を聞いた瞬間、マッドの表情に鋭い氷のようなものが浮かんだ。途端に広がるマッドの
 気配。漣のように広がるそれは、その気になれば弱い獲物ならば泡を吹かせて倒れさせる事も可能
 な、賞金稼ぎの王者としての気配だ。
  しかし、その王者の気配の発端が、貴族であるマッドの血脈から醸し出されるものである事を知
 る者は少ない。

 「ジェイコブ………。」

  いっそ氷の河のような冷酷さを帯びた声は、けれども怒りは微塵も感じられない。ひたすらに感
 情を欠いた、まるで小蠅でも相手にしているかのように、マッドはジェイコブを見つめる。

 「お前は、いつから俺に命令できる立場になったんだ?」

  特に力を込めたわけでもないのに、マッドの眼は違える事なくジェイコブを射抜いた。宇宙を刳
 り抜いてそのまま持ってきたかのようなマッドの眼に射抜かれたジェイコブは、炎の槍に射抜かれ
 たように力を失う。
  浅黒い手を振り払い、マッドは冷ややかに立ち上がった。

 「待ってくれ!」

  そのまま立ち去りそうなマッドの姿に、先程までずっと黙っていたセドリックが口を開いた。

 「君が、ここでの生活を失いたくない気持ちはよく分かるよ。長年暮らして、一つ一つ積み上げて
  きたんだ。簡単に失えるはずがない。」
 「だったら黙れ。」

  その後に『でも』と続くであろうセドリックの言葉を、マッドは遮る。これ以上、埒もない会話
 を続けるのは無意味だからだ。
  しかし、そんなマッドの前に、ケイトが立ちはだかる。

 「お待ちください、ご主人様。どうか、あの方々のお言葉に耳を傾けてください。」

  縋るような使用人の言葉に、マッドは口角をくっと持ち上げた。マッドはもうご主人様でもなん
 でもないのだ。ケイトが付き従う人間は、マッドの母親で途絶えている。だから、マッドにはケイ
 トの言葉に立ち止まる必要はない。
  そもそもマッドを主と言うのなら、その主たるマッドに口答えするとは何事か。

 「もっと、よく考えろ。」

  ジェイコブが再びマッドの肩を捕える。

 「自分の立場を、居場所を。此処がお前の居場所なはずがないだろう。」
 「そうよ。私達が、それほど貴方を必要としているか、貴方はもっとよく考えて。」

  縋りつく声に、マッドは冷たい一瞥を向けた。どう考えても、彼らとの言葉は平行線を辿るだけ
 だ。

 「明日、もう一度返事を聞くよ。」

  セドリックの弱々しい声を鼻先で嗤い、マッドはジェイコブの手を振り払い、ケイトを押しやり、
 酒場から抜け出した。

  そして―――

  酒場の裏側に回り込み、彼らのテーブルがあった窓際に身を寄せると、そっと聞き耳を立てた。
 薄っぺらい壁はあちこち痛んでいて、微かにではあるが声が聞こえる。
  何故、彼らがあんなに執拗にマッドを引き止めようとしたのか。
  マッドを自分達の側に引き戻そうとするだけにしても、マッドが立ち去ろうとする時の引き止め
 方――ケイトまでもが道を塞ぐようにして引き止めようとするのは、些か行き過ぎたきらいがある。
 むろん、それだけでは弱いが、しかしあの時の全員の慌てたような眼。入口に眼を走らせたケイト
 は、まるで誰かの帰りを待っているようだった。
  その誰かが帰ってくるまで、マッドを引き止めようとしたのか。それならば、その誰かとは誰な
 のか。そして引き止めようとした理由は――。

  素早く頭を回転させていると、ほどなくして一組の男女がうらぶれた酒場へとやってきた。口髭
 を生やした男と、黒いドレスを着た赤毛の女。その二人に、何処か見覚えがあるような気がした。
  そして二人が酒場に入ってほどなくして、彼らの会話が聞こえてきた。

 『―――どうだった、オージアス。』
 『首尾は―――。』
 『駄目だ、失敗し――。』
 『キャサリンが誘っても――。』
 『―――弾が当たらず――。』
 『こちらも、途中で――。』

  聞こえてきた名前は、確かに聞き覚えがあった。
  しかし、それ以上に会話の中身が気になる。マッドをそこに引き止めて、何を仕出かそうとした
 のか。キャサリン――これも貴族の娘だ――に誘わせようとしたと言うのは、普通に考えれば男だ
 ろう。だが、男は誘われず、そして銃で撃とうとした。
  だが、その企みの何が、マッドを引き止める何の理由に――。

  思って、マッドは表情を消した。

  サンダウン。

  殺そうとした時にマッドが邪魔になる相手など、あの流れから考えて、サンダウンしかいない。
 あの連中は、サンダウンを殺そうと考えて、マッドを引き剥がしたのだ。
  だが、何の為に。
  いや、それよりも。
  マッドは未だに何かを離し続けている酒場の壁から身を離し、足早にその場から離れた。むろん、
 サンダウンがあんな連中に何かされるなどとは思っていないし、先程の会話からしても計画が失敗
 に終わった事は分かっている。
  だが、それでもマッドの脚は早くなる一方だ。何の為にあの連中がサンダウンを狙ったのかは、
 今は考えるだけ無駄だ。それよりも自分の見えないところでサンダウンに何かあったという事が、
 どうしようもなくマッドを不安にさせた。

  ――キッド、……キッド。

  子供のようにサンダウンの名前だけを頭の中で繰り返しながら、サンダウンが待っているであろ
 う宿に急ぐ。うらぶれた家並が続く路地を抜け出して、角を曲がる。

 「………っ!」

  その瞬間、同じく角を曲がってきた相手にぶつかった。そしてそのまま抱き締められる。ぎょっ
 とする暇もなく、その腕の強さに安堵しそうになった。

 「マッド?」

  頭上から低い声が降って来て、見上げるとサンダウンが見下ろしていた。サンダウンは、マッド
 と眼が合うと少し困惑したように呟く。

 「遅いから、様子を見に来た………。」

  戸惑いがちの声は、けれどもそれ以外の異常は見当たらない。抱き締める腕にも血の色や硝煙の
 匂いは見当たらず、その事にマッドは安堵した。
  そして、ぎゅうっとしがみつく。

 「どうした……?」

  マッドの様子を訝しむサンダウンに、マッドはますます強くしがみ付いた。すると、マッドの様
 子に戸惑いながらも、サンダウンは抱き締める腕に力を込めてくれる。自分を甘やかす事に長けた
 男の腕の中で、このまま甘えていたいと思う。
  すると、そんなマッドの意を汲んだのか、サンダウンは抱擁を解き、マッドを促す。

 「宿に、行くか?」
 「うん……。」

  行く、と答えると、そっと腕を引かれた。