少し前に一人で訪れた街に、今回は二人で訪れた。
  かつては近くにある大きな金鉱で賑わい、それに伴って街の規模も大きくなり、駅馬車が一日に
 幾つも往復するような場所だったのだが、時代の波には逆らえない。ゴールド・ラッシュの波が過
 ぎ去り、膨れ上がった街はその大きさを維持する事が出来ず、徐々に寂れていった。
  もしも、何か観光の要となるような、或いは産業の要となるようなものがあれば、廃れていく事
 もなかったのだろうが、生憎と金鉱以外にめぼしい物のなかった――言いかえれば金鉱だけで膨ら
 んだ街は、年々人の数を減らし、ゆっくりと衰退の様子を見せている。

  そんな、巨人の老衰のような街の様子が珍しいのか、マッドはきょろきょろとあたりを見回して
 いる。
  確かに、こんな大きな街の寂れの過渡期を見るのは、滅多にない事だろう。そもそもマッドが荒
 野を席巻し始めたのはゴールド・ラッシュの波が通り過ぎ始めた頃だろう。きっと、マッドはゴー
 ルド・ラッシュの波に乗ってそのまま上昇し続けた街か、或いは波から転落した街しか見た事がな
 いだろう。この町のように、未だに大きく、人もいて、けれども衰退する途中の様子は、珍しいに
 違いない。

  そう思って、サンダウンははっと気が付いた。
  そう言えば、マッドは一体いつ頃、この荒野に来たのだろうか。
  マッドの名前が荒野でちらほらと聞こえ始めた時の事は、サンダウンも大体覚えている。それは
 サンダウンが保安官の任を辞して、少ししてからだ。けれども、名前が通るまでに例えマッドと雖
 も少しの時間は要したに違いない。

  ちらりと隣にいるマッドを見れば、子供の頃と変わらない屈託ない眼で、街の様子を眺めやって
 いる。遠目に見ても端正な立ち姿は、サンダウンの想像を超えて秀麗な青年に育った事を示してい
 る。その身体が完全に作り上げられてから、この荒野にやってきたのだろうか。

  いつ頃マッドがやってきたのかを考えれば、自然に考えるのはマッドの母親の事だ。南北戦争に
 よって精神を崩し、夫亡き後、頼れる相手を探して男を何度も取り替えていた女。そして幼い子供
 であるマッドが誰かに襲われるのではないかと怯え、結果的に愛情を歪めて監禁し続けた。
  マッドが彼女に対して何を行い、そしてその手元から飛び出したのか、サンダウンはそれを聞く
 事ができない。彼女の生死すら、未だに聞けずにいる。
  彼女が死んだから抜け出す事が出来たのか、それとも無理やり彼女の両腕を抉じ開けて出てきた
 のか。その時に彼女は何か言わなかったのか、マッドを繋ぎとめようと叫ばなかったのか。
  それらはサンダウンには聞けぬ、マッドの過去の残滓だ。だから、サンダウンが考えたところで
 埒は明かぬし、そもそもマッドはサンダウンに逢う為に荒野にやってきたと告げた。その言葉だけ
 でサンダウンには何もかもがどうでも良くなってくる。

    マッドの過去の事は、決して忘れてはいけない事だ。
  サンダウンがマッドの父親を殺した事――例え戦争が理由であったとしても――も含めて、本当
 ならば、マッドはサンダウンのものにはなるべきものでない。
  南部の貴族の家庭に生まれた彼は、本来この荒野を生きる場所とする人間ではないのだ。何処か
 都会で、父親のような名士として、或いは母親のような音楽家として、成功しているはずの人間だ。
 間違っても、賞金稼ぎとして血と銃声と砂埃に塗れるはずではなかった。まして、サンダウンの腕
 の中に身を委ねるなど。

  なのに、マッドはサンダウンに懐いてくる。何も知らない子供ではないはずなのに。父親の事、
 それを殺したサンダウンの事、それらについて、何も思わないのだろうか。
  それは、母親の事よりももっと聞く事が出来ない真実だ。
  マッドに向かって父親の事を話せば、嫌でもサンダウンが殺した事に眼を向けねばならなくなる。
 その際に、何故それでも自分に懐くのかを聞く事ができるだろうか。いや、サンダウンには聞けな
 いだろう。聞けないまま、また一つ問う事が出来ない疑問が増えるだけだ。

  何れにせよ、マッドに問い掛けられぬ問いは、多かれ少なかれマッドを失う可能性を孕んでいる。
 サンダウンは、ようやく見えた彼を、再び失う事に耐えられないだろう。
  むろん、マッドがいつかサンダウンを置いて何処かに行くかもしれない事は分かっている。むし
 ろ、サンダウンとこの先永遠にいるほうがおかしい。それにサンダウンの中にも、マッドには幸せ
 になって欲しいという感情がある。
  ただ、それと相反しながらも、傍にあれという感情があるのも、また事実だ。矛盾した感情は、
 結果、サンダウンにはっきりとした答えを出させぬまま、ずるずるとマッドとの別れを先延ばしに
 する方法を模索している。

  保安官の任を辞して賞金首になると決めた時でさえ、きっぱりと判断できたのだが、マッドが絡
 むと結論は悉く先延ばしになってしまう。マッドがあの時の少年の気付かなかった時でさえ、マッ
 ドを殺す事を延々と先延ばしにしていたが。
  たった一人の青年によって、この世の全ての躊躇いを掻き集めたかのような優柔不断の状況に陥
 っている自分に溜め息を吐いていると、マッドがくいくいと袖を引いた。

 「なあ、あそこの店に入りてぇんだけど。」

  強請るような甘い声は、わざとやっているのだろうか。
  いや、おそらく、無自覚だ。無意識のうちに子供の頃のような口調になっているだけだ。
  しかし、端正に成長した現在でそれをやられると、サンダウンとしては非常に、なんというか、
 そそられるのだが。
  そんな、不埒な考えを押え込み、サンダウンはマッドが指差す店を見やる。通りに面した場所に
 ある店は、かつては多くの輸入雑貨を取り扱っていたのだろう。大きな店構えは、しかし今は物品
 の流動が少ないのか、微かに埃っぽさを感じさせた。その埃っぽい中に幾つかの書物が見え、なる
 ほどとサンダウンは頷いた。
  マッドはこう見えても読書家だ。いや読書家と言うよりも、幼い頃に閉じ込められていた所為も
 あるのかもしれないが、遠い土地の出来事などを出来る限り得ようとする。その手段として書物を
 漁る事が多い。
  流動の少ない、けれどもある程度の大きさを誇る店には、少し古めの本が見つかる可能性がある。
 そこにマッドは眼を付けたのだろう。

  マッドに手を引かれて店の中に入れば、古い書物の匂いがした。何処となく甘さを孕んだその匂
 いを嗅いでいると、マッドの手が解け、堆く積もった本のほうへと向かってしまう。子供のように
 眼を輝かせながら本を漁り始めた様子に苦笑し、サンダウンも古い道具へと視線を向ける。
  一昔前の古くて懐かしい道具の並ぶそこには、もしかしたら掘り出し物が埋まっているかもしれ
 ない。それはマッドが喜ぶものかもしれない。
  背後で本を漁る気配を探りながら、サンダウンはマッドが喜びそうなものはないだろうかと一見
 ガラクタに見えるそれらを見分し始めた。子供の頃であったなら、マッドは何を与えても喜んだだ
 ろう。サンダウンが訪れただけでも喜んだのだ。何かを与えたら、戸惑いながらも嬉しそうに顔を
 綻ばせたはずだ。尤も、当時、サンダウンはマッドに何かを贈る事は一度として出来なかったのだ
 けれど。
  その代わりと言うわけではないが、今のマッドに与えてもおかしくないものを、サンダウンはじ
 っくりと探し始めた。
  鈍い銀色の指輪から、真鍮の留め金が打たれたホルスター、銀細工のついたペンとそれと対にな
 る細工が刻まれたインク入れ。こうした、西部にあるには些か上品すぎる代物は、しかしマッドの
 手には映えるだろう。肩越しにマッドをこっそりと見れば、ちょうど繊細な指先が本のページを捲
 っているところだった。
  ピアニストと言ってもおかしくないような繊細な指先を見て、サンダウンはまだマッドにピアノ
 を弾いて貰っていない事を思い出した。マッドはいつでも弾くと言っているが、いざピアノのある
 場所に行くと、なんだかんだでサンダウンもマッドも忘れてしまっていて、結局まだ果たされてい
 ない。
  今夜、それを果たして貰っても良いのではないだろうか。
  ふとそんな事を思って、それなら今のうちに酒場でも探そうか、という気分になった。マッドに
 一言断りを入れて、その場を離れようと振り返ろうとした時、高い声が響いた。

 「ご主人様。」

  女の声は、はっきりと店内に響き渡った。その声にサンダウンが反応するよりも早く、細い足音
 が近付いてくる。それは、きっかりと、確かにマッドの前で止まった。

 「ご主人様………。」

  微かに震えた、感極まった声。
  マッドに向けて放たれたそれに、サンダウンは背骨が強張ったような気がした。
  マッドの事を、ご主人様と呼ぶ者はこの荒野にはいない。いるとすれば、それはマッドが置き去
 りにした過去の中だけだ。それは、マッドに仕えていた使用人に、他ならない。

 「お捜ししました。」

  今にも跪きそうな雰囲気を湛えた女を、サンダウンは視線だけを動かしてその姿を捕える。見れ
 ば、まだ若い女だ。もしかしたら、マッドがサンダウンと別れた後で仕えるようになった使用人な
 のかもしれない。

 「…………ケイト?」

  マッドの声が、不思議そうに響いた。しっかりと女の名を告げたその声は、サンダウンの推測を
 計らずとも肯定している。
  
 「お前、どうして此処に?」
 「先程申し上げた通り、お捜ししておりました。」
 「…………。」

  微かに、マッドが眉を顰めたのが、気配で分かった。もしもマッドがこのまま立ち去るつもりな
 ら、サンダウンは躊躇う事なくその腕を取って共に逃げ出すつもりだ。

 「ケイト、俺は……。」
 「分かっております。お戻りになられない事は。けれどもかつての御友人達が貴方様に逢いたいと
  申されているのです。」

  女の懇願は必死の態を示していた。

 「皆様、貴方様の事を常に気に懸けていらっしゃいました。御自分達も決して楽な生活をしている
  わけではないのに。南北戦争の後、家族を分断され、生きる術を悉く奪われ、現在は旅芸人のよ
  うな事をして生活していらっしゃいます。」
 「……来てんのか、此処に。」
 「はい。わたくしは、皆さまに無理を言って連れてきて頂いたのです。貴方様がこの西部にいると
  いう噂をお聞きして、奥様の代わりに貴方様にお目見えしようと考えたのです。」

  マッドの躊躇いが、はっきりと伝わった。その気配に、サンダウンは行くな、と言いたくなった。
 今すぐにでも振り返って、マッドの手を取って未だに追い縋ってくる過去の残影から逃げ出したか
 った。
  しかし、それをする権利はサンダウンにはない。

 「……一時間だけだ。」

  マッドが、低く答えるのが聞こえた。

 「それ以上は、時間を取れねぇ。俺にも、予定ってもんがある。」
 「承知しております。」
 「じゃあ、さっさとそいつらの所に連れていけ………。」

  かつての使用人にぞんざいに命じ、マッドはサンダウンにだけ聞こえる声で囁いた。

 「悪ぃ………。」

  宿で待っててくれ。
  何か思い詰めたようなその声に、サンダウンはただ頷くしかできない。本当は、その腕を掴んで
 攫ってしまいたかったが、それを押し殺して同じくマッドに聞こえる程度の声で呟いた。

 「待っている……。」

  万感の思いを込めたそれは、マッドに届いたのか。
  微かにマッドが頷くのが、視界の端に映った。