人気のない酒場の隅に、それはぽつんと置かれていた。  
  黒い外骨格は薄汚れており、もしかしたら狂っているのかもしれない。そんな事を思ってサンダ
 ウンを見れば、サンダウンはそんな事考えもしていないのか、ピアノのすぐ傍の席にさっさと座っ
 ている。
  こういった事には全くサンダウンが役に立たない事を思い出したマッドは、ちらりとカウンター
 にいる酒場の主人に眼を走らせたが、こちらもあまり興味がないのか、客が勝手にピアノに触る事
 について咎めようともしなかった。
  そんな様子に、もしかしてこれは装飾品で、実は音なんかでないんじゃないかとも思ったが、ぱ
 かりと蓋を開けば綺麗に白と黒の骨が並んでいるのが見えて、本物であると知れた。

  その白と黒のコントラストを、こうして間近で見るのは久しぶりだった。荒野に来る時に、全部
 置き去りにして忘れたつもりだったのだが。

  サンダウンを見れば、サンダウンはじっとマッドの動向を見守っている。頼んだ酒をグラスの中
 で弄ぶだけで、口も付けずに見る様に、マッドは少し居た堪れなくなった。
  忘れた、と思っていても、結局この男を探した時点で忘れる事など出来なかったのだろうと思う。
 サンダウンに、いつかピアノを弾いてみせると言ったのは紛れもなく自分で、そしてサンダウンを
 探した以上、その約束を果たさねばならないであろう事は想像が付く。むろん、サンダウンが忘れ
 てしまっているという事も有り得たのだが、サンダウンはしっかりと覚えていた。
  サンダウンが、それほどにマッドに情を傾ける理由は、結局のところさっぱり分からない。
  父親を殺したからか。そう問えば、それだけではないと答えられた。父親を奪ってしまった罪悪
 感だけでなく、マッドに逢いたかったのだと、そうサンダウンは呟いた。

  それについて、マッドは喜ぶよりも先に頬を赤らめてしまう。
  サンダウンにそのつもりはないのかもしれないが、マッドを守る為に決闘を受け入れようとした
 り、恭しく手を取って甲に口付けたりとする、それら一連の行動は、果たしていつもの子供扱いに
 含んで良いものなのか。
  抱き合ったり、一緒にベッドで寝たりとしているくせに何を今更と言われるかもしれないが、し
 かし同衾するのはそれこそ子供時代の名残だ。サンダウンは、マッドがサンダウンの腕の中にいる
 時が一番安心している事を知っている。だから、サンダウンは何も言わずにマッドを抱き締めるし、
 ベッドを共にしたりもする。
  けれども、これまでに『守る』と言われた事はあっても、『奪う』『取り返す』と言った独占欲
 を示す言葉を口にされた事はない。一度『攫う』と言われたっきりで、それ以降のサンダウンはそ
 れに類する言葉を口にしなかった。
  それに何より、口付けられた事は――手の甲とはいえ――初めてだった。むろん手の甲への口付
 けなど、別に大した事ではないだろう。けれども、いくら子供の頃から知っているとはいえ、男相
 手にするものではない。そもそも、手の甲への口付けは子供にはしないだろう。

  では、サンダウンは何を思ってあんな事をしたのか。
  何も思っていないのか、無自覚なのか。
  ほんの一瞬であったとはいえ、微かに見せた子供扱いとは違う行動に、マッドは頭を抱える。

 「マッド?」

  ピアノの前で動かないマッドを怪訝に思ったのだろう。サンダウンが訝しむような、同時に案じ
 るような声を上げた。どうかしたのか、とそのまま腰を浮かせて近寄ってきそうな、過保護な様子
 に、マッドは何でもないと首を振り、鍵盤に指を下ろした。

  低音から高音へと、数回オクターブを駆け抜ける。放置されていた見た目とは裏腹に、音は錆び
 ついていなかった。そしてそれ以上に、きちんと音を追いかて動く指に安堵する。子供の頃に叩き
 こまれた習慣は、今でも身体の奥深くに染みついていたらしい。

  ようやくピアノを弾き始めたマッドに、サンダウンは近寄ろうとしていた気配を落とし、グラス
 を傾けながら耳を澄ませる。酒を手にしているがそれが酷く御座なりなもので、真剣にマッドの鳴
 らす音を追いかけているのが、マッドには妙に気恥ずかしかった。


  



  指慣らしと称して、何度も鍵盤の隅々まで両手を走らせる。ようやくそれが終わって、大分昔の
 ように弾けるようになったと思い、指を止めたところで、その隙を逃さずにサンダウンが問うた。

 「曲名は、何と言うんだ?」
 「特に大それた曲名はねぇよ。ただの練習曲だ。」
 「そうなのか?」

  マッドが弾いたのは小さい子供が弾くような、本当の練習曲だった。だが、それでもサンダウン
 は、感心したように頷いている。

 「そんなに複雑な曲が練習になるのか……。」
 「別に複雑じゃねぇよ。」
 「私には複雑に聞こえる。」

  真顔でそう告げる男は、マッドのピアノをこれまで褒めてきたどの大人とも違った顔をしていた。
 サンダウンは、お世辞でも何でもなく、本気でマッドを褒めているのだ。その所為で、マッドはま
 すます気恥ずかしい。

 「それで、次は何を弾くんだ?」
 「ん……あんたが聞きたい曲があるってんなら、それを弾くけど。」
 「すまないが、私はピアノの曲名など知らない。」

  だから、お前が弾きたい曲を弾いてくれ。

     微かに強請るような響きがあった。それを聞き咎めて追及するつもりは、マッドにはない。代わ
 りに、過去の記憶を引っ張り出して、覚えている曲を選び出した。
  先程の練習曲とは違い、ゆったりとした穏やかな曲だ。サンダウンには、もしかしたらマッドら
 しくない曲だと思われるかもしれない。けれども、マッドはその曲が好きだったのだ。子供の頃、
 重苦しく包み込む夜の闇が、微かにではあるが友人のようになったような気がして。






  弾き終わってほっとした時、鍵盤の上に乗せていたマッドの手に、かさついた大きな手が被さっ
 た。いつの間にか背後に近付いていたサンダウンに、マッドはぎくりとする。近付くサンダウンに
 気付かないくらい、ピアノに熱中していたらしい。
  重ねられたサンダウンの手に硬直していると、耳元でサンダウンが囁いた。
  
 「………本当は、そうやって暮らしたかったんじゃないのか?」
 
  そうやって、というのはピアノを弾いて、という事だろう。マッドの片方の血筋に音楽家が混ざ
 っているから、そちらの道に進むつもりはなかったのか、と問うているのだ。
  けれども、その問いにマッドは答えられない。
  ピアノを弾く事が嫌いだったわけではなかった。しかし、その選択肢を選ぶよりも先に、マッド
 の前にはサンダウンが現れてしまった。もしもサンダウンがあのままずっと傍にいたというのなら、
 その選択肢もあり得たのかもしれない。
  しかしサンダウンはマッドの前から離れてしまい、そうなるとマッドの手元にはサンダウンを追
 いかけるという選択肢しか残らなかった。

 「………そんな事、考える暇もなかった。」

  だから、正直にそう告げると、サンダウンが微かに動揺した気配がした。ただし、それは罪悪感
 からだ。おそらく、マッドの言葉の意味を、父親を失ってしまったそれどころではなかったと受け
 取ったのだろう。
  それに気付いたマッドは、慌てて己の言葉不足の説明を加える。

 「だから、あんたを探す事ばかり考えてて、ピアノで食ってく事なんか考えなかったんだよ。」
 「…………。」

  重ねられたサンダウンの手を見つめながら早口でそう告げると、サンダウンから奇妙な沈黙が落
 ちてきた。
  その沈黙を、サンダウンが情欲を堪える為の一抹の間であったとマッドが感じるよりも先に、サ
 ンダウンの腕が素早くマッドを抱き締めている。それは、いつもの抱擁よりもきつく、マッドは言
 葉に詰まった。そのマッドの耳元に、サンダウンが素早く言葉を吹き込む。
  その言葉が、微かにではあるが欲望を孕んでいる事に、マッドも気付いた。けれども、それに何
 か反応を示す前にサンダウンの腕は解け、その時には欲望など欠片ですら微塵も感じられない。
  だから、マッドはサンダウンの言葉に頷く事しかできなかった。

   
 「もう少し、ピアノを弾いてくれ………。」