ずっとケージの中にいたマッドが、最近ケージの外に出して貰えるようになりました。夜寝る時
 以外は、ケージの外でよちよちと歩き回っています。
  狭いケージではなく、広い部屋の中は、マッドにしてみれば珍しいのでしょう。カーペットの毛
 玉を突いてみたり、テーブルの下に潜り込んではテーブルの裏側の模様を眺めてみたりと、何かと
 忙しそうです。
  そんな子犬の様子を、サンダウンは床に伏せったまま、しかし眼の届かない所に行かないように
 と逐一眺めています。

 「きっど。」

  一通り部屋の中を歩き回ったマッドは、ぽてぽてと柔らかい足音を立てて、寝そべっているサン
 ダウンの傍に近付いてきます。そして、ぽん、と小さい身体をぶつけてきました。まだ、サンダウ
 ンの前脚ほどの大きさしかないマッドがぶつかってきても、サンダウンはびくともしません。サン
 ダウンはゆっくりとマッドを見ると、擦り寄ってくる子犬の鼻先に自分の鼻先を近付けました。

  サンダウンの鼻先に、ひときしり自分の鼻先を擦りつけた後、マッドは踵を返してサンダウンの
 尻尾にじゃれつきました。
  ケージの外に出たマッドにとって、部屋の中は冒険するには十分なものでしたが、けれども冒険
 に飽きた後は誰かと遊びたくなります。もしも夜ならばビリーと遊ぶのですが、生憎と昼間はビリ
 ーは学校に行っていて、マッドは一人で遊ぶしかありません。けれども一人遊びをする玩具もなく、
 結局、マッドの遊び相手は専らサンダウンの尻尾でした。

  サンダウンのふさふさとした尻尾に飛び付くと、サンダウンの尻尾はすすっと逃げていきます。
 それでもめげずに追いかけていると、ぱたん、と大きく尻尾が振れて、マッドを飛び越して元の位
 置に戻ります。それを見たマッドは、くるりと身体を回転させて、倒れ込むように尻尾に短い前脚
 を伸ばします。
  ようやく前脚が届き、そのまましがみ付くと、サンダウンの尻尾は再び動きます。ただし、今度
 はマッドがしがみ付いているので、マッドも一緒に床を滑って動きます。

  そんな事を何度も繰り返しているうちに、やがてマッドが尻尾から離れて、今度はサンダウンに
 よじ登り始めました。サンダウンの毛は長いので、小さいマッドにも捕まりやすく、マッドは簡単
 にサンダウンの背中によじ登る事が出来ました。
  サンダウンの背中に登頂したマッドは、柔らかい肉球で、サンダウンの背中をぺちぺちと叩き始
 めました。けれども、マッドは小さいし肉球も柔らかいので、当然痛くありません。
  なので、サンダウンは大型犬特有の鷹揚さで、子犬のやりたいようにさせていました。

 「きっど。」

  マッドが、最近覚えたばかりのサンダウンの名前を嬉しそうに呼びます。
  けれども、きょうのそれには、少しおねだりの色が混ざっていました。

 「おれも、さんぽにいきたい。」

  サンダウンの背中の上で、自分の短い黒い尻尾を揺らしながら、マッドはサンダウンに甘えるよ
 うに言いました。こうすれば、サンダウンが自分の言う事を聞いてくれるのを、マッドはちゃんと
 知っていたのです。
  ですが、

 「駄目だ。」

  今日のサンダウンは、マッドの言う事を聞いてくれませんでした。

 「なんで?おれも、さんぽにいきたい!」
 「お前は、まだ、小さ過ぎる。」

    きっどばかりずるい、とマッドは言います。けれどもサンダウンにしてみれば、まだ小さなマッ
 ドを散歩に連れていくなんてとんでもない事でした。
  マッドはまだ、やっとケージの外に出して貰えるようになった子犬なのです。部屋の中を歩く足
 取りもおぼつかないのに、家の外に連れていく事など出来ません。家の外は、危険がいっぱいなの
 です。

 「おれもきっどといっしょに、さんぽにいきたい。」

  ころりとサンダウンの背中から滑り落ち、サンダウンの眼の前に回ってそう訴えるマッドの眼に
 は、涙が浮かんでいます。うるうるとなった眼に、サンダウンは少しだけ罪悪感を覚えました。け
 れども、こればっかりは頷いてあげる事はできません。

 「うー、おれもさんぽにいきたいー!」
 「マッド………。」
 「きっどと、いっしょに、いたいー!」

  うるうるとそう訴えるマッドに、サンダウンは鼻先を近付けます。ですが、さっきまで擦り寄っ
 てきたマッドは、ふい、と顔を背けてしまいます。

   「マッド……昼間はずっと一緒にいるんだ。散歩の時くらい、我慢できるだろう?」
 「ううー、いやー!」

  尻尾をたらんと垂れさせて、マッドは駄々を捏ねます。眼を潤ませたマッドの姿は、非常にサン
 ダウンの心を締め上げるのですが、しかしサンダウンの一存で、マッドを外に連れていくなんてで
 きるはずがありません。

 「マッド……散歩の時以外は、ずっと一緒にいてやるから、な?」

  ぐずるマッドにもう一度鼻先を擦り寄せ、顔を舐めてやります。ぽろぽろと涙を零したマッドの
 顔は、少ししょっぱい味がしました。それでも、サンダウンはマッドを何度も舐めて、マッドの機
 嫌の回復を図ります。
  マッドが泣くのは、サンダウンとしても出来る事なら避けたい事態です。泣きじゃくるマッドは、
 小さいからとても憐れっぽく、放っておいたら死んでしまうんじゃないかと思えるからです。なの
 で、きゅっきゅっと泣くマッドを何度も舐めて、宥めます。

      「私だって、お前を一人置いていくのは嫌なんだ………。」

  小さいマッドを外に連れていくのはとんでもない事です。けれども、一人残しておく事も、サン
 ダウンには憂慮が残ります。もしも、家に誰かが忍び込んで、マッドを連れ去ったりしたら。小さ
 なマッドには抵抗らしい抵抗なんて、出来ないでしょう。
  なので、一通りの散歩コースを回った後は、すぐに家に帰るようにしているのです。以前なら、
 犬達の集会に顔を見せたりもしたのですが、ここ最近はマッドを優先させて、全く顔を出していま
 せん。
  なので、サンダウンは今、近所の犬の間で何が起こっているのか全く知らないのです。そんな世
 間話よりも、小さいマッドのほうがサンダウンには大切です。

   「大きくなったら、一緒に連れて行ってやるから………。」

  それまで我慢してくれ。

  そう囁いて、サンダウンはマッドの顔をもう一舐めしました。
  けれども、マッドの顔は、どう見ても納得しているようには見えず。サンダウンはどうしたもの
 か、と溜め息を吐きました。