「サンダウン。」
 「ねぇ、サンダウン。」
 「ぬぅ、サンダウン殿。」
 「よお、サンダウン。」



 「おい、キッド。」



  他の犬猫が、サンダウン・キッドの事を『サンダウン』と呼ぶ中、一緒に暮らしているマッドだ
 けが、『キッド』と呼びます。  
  それは他の犬猫から見れば、一つ屋根の下に住む者の特権なのだろうと考えてしまいます。
  ですが、それは別に特権でも何もなく、マッドがまだ小さかった頃に、原因があったのです。




  最近、ケージの中にいるマッドは、サンダウンを眼で追いかけるようになりました。何かあった
 らすぐに駆けつけてくれるサンダウンに、親犬や兄弟に対するものと似たような感情を持ち始めて
 いるのかもしれません。
  マッドの視線に気付いたサンダウンが、鼻先をケージの隙間に押し付ければ、マッドも鼻先を近
 付けてきたり、まだ肉球の柔らかい前脚を伸ばしてきたりします。まだまだ小さなマッドのそれら
 は、サンダウンが少しでも動けばマッドの身体ごと、ころりと倒してしまいそうで、マッドに触れ
 られるサンダウンはマッドを傷つけない為に、じっとしている必要があります。
  けれども、普通の犬ならば苦痛に思うかもしれないそれを、サンダウンは誰に教えられるでもな
 く、黙って実行します。それはどちらかと言えば鷹揚なサンダウンの気質の所為なのかもしれませ
 んし、或いは小さなマッドの姿にサンダウンが庇護欲を掻きたてられたからかもしれません。
  いずれにせよ、サンダウンはじっとしている事を特に苦痛とも思わず、マッドに触れられるがま
 まになっています。

  サンダウンの鼻先に自分の鼻先をひっつけて、サンダウンがすぐ傍にいる事に安心したマッドは、
 少しだけ尻尾を振りました。
  実は、マッドは人間相手にはまだ尻尾を振りません。飼い主であるビリーにも、怖がりこそしな
 いものの、その短い尻尾を振った事はないのです。今のところ、この家の中でマッドに僅かながら
 でも尻尾を振って貰った事があるのは、サンダウンだけでした。

  確かにマッドはまだ小さくて、最初の頃は親や兄弟を恋しがってきゅうきゅうと泣いてばかりい
 ました。
  けれども、猟犬や番犬として育てられた犬種であるマッドは、犬の中でもどちらかと言えば我の
 強い性質を持っています。なので、構って欲しい時はきゅうきゅうと泣いて誰かを呼びますが、放
 っておいてほしい時は一人で遊んでいます。
  でも、そんな子犬の機微を子供であるビリーに分かれと言うのは無理なものです。ビリーは子犬
 であるマッドが可愛くて、いつでも何処でも構おうとしてしまうのです。その度にお父さんに怒ら
 れているのですが。
  その一方、同じ犬であるサンダウンには、マッドの気持ちは何となくですが理解できます。小さ
 な時の記憶などサンダウンも忘れてしまっているのですが、マッドが大人しい時はそれで良いと思
 って放っていますし、逆にマッドが憐れっぽい声で泣いている時は誰よりも早く駆け付けて、マッ
 ドに擦り寄ります。
  人間よりもずっとマッドを甘やかすのが上手いサンダウンに、マッドが尻尾を振るのは当然です。
  サンダウンとしても、マッドに尻尾を振られるのは悪い気がしません。まして、マッド散歩の途
 中に見かけるどの犬よりも可愛いので、尚更です。

  ただし、サンダウンに慣れたとは言っても、それはまだまだ不満の残る慣れ方です。何故ならば、
 サンダウンは、まだ一度としてマッドに名前を呼ばれた事がないのです。
  マッドがサンダウンの名前を知らないはずがありません。一緒にいる時、サンダウンは何度か、
 ビリーに呼ばれた事があるからです。なので、マッドがサンダウンの名前を呼ぼうと思えば、いつ
 でも呼べるはずです。
  けれど、マッドは一度もサンダウンの名前を呼ぶ事がありません。サンダウンに傍に来てほしい
 時も、きゅうきゅうと泣くだけで、サンダウンを呼ぶ事はないのです。だから、今までサンダウン
 はマッドに呼ばれているわけでもないのに、マッドが泣くたびにいそいそと、マッドのいるケージ
 へと脚を運んでいるのです。

  その事に、ささやかな不満を感じたサンダウンは、ある日の事、マッドが泣き始めても放ってお
 く事にしました。憐れっぽい、きゅっきゅっという鳴き声に、胸が痛まないわけでもなかったので
 すが、マッドがサンダウンの名前を呼んだら、すぐにでも駆けつけるつもりでした。
  けれど、マッドは泣きながらも、一向にサンダウンの名前を呼ぼうとしません。きゅっ、と時折
 高い声を上げて、サンダウンに自分の存在を主張しているようですが、名前を呼んで来て貰おうと
 はしません。
  徐々にしゃくり上げるように間隔の狭まっていくマッドの泣き声に、サンダウンは顔を顰め、そ
 ろそろ行ってやった方が良いだろうか、と仕方なく腰を上げました。
  その時。

 「………だん。」

  微かな声がしました。慌てて耳を澄ますと、もう一度マッドの声が聞こえました。

 「さん、だん………。」
 「…………。」

  上手く呂律の回っていない声に、サンダウンは何となくですが、悟りました。そのぼやけた悟り
 を抱えたままマッドの傍によると、マッドがぷるぷると震えて涙を流しながら、サンダウンを見上
 げます。

 「……さん、だん。」

  そう言って、また膨れ上がるマッドの涙。それはサンダウンがなかなか来てくれなかった事より
 も、サンダウンの名前を上手く呼べない事にふてくされているようにも見えます。」

 「『サンダウン』。」
 「さん、だん。」

  サンダウンが念の為に自分の名前を言うと、マッドは復唱しますが、やはり呂律が回っていませ
 ん。どうやら、マッドはサンダウンの名前を呼ばないのではなく、呼べないようです。

 「さん、だん。」

  なんとかして呼ぼうと試みるも、やはり小さなマッドには無理なようで、マッドは眼をうるうる
 と潤ませます。
  そこまでマッドを追い詰めた自覚のあるサンダウンは、少し考えた後、もう一つの名前のほうを
 口にしました。

 「……『キッド』で良い。」
 「……きっど?」
 「そうだ。」
 「きっど………。」

  泣くのを止めて、より呼びやすい名前を、きっどきっどと何度か呟いてから、マッドは小首を傾
 げてサンダウンを見上げました。その様子は、取っておきたくなるくらい可愛らしくて。

 「きっど。」

  覚えた単語を口にして、マッドはケージの隙間に鼻先を押し当てます。サンダウンが同じように
 鼻先を押し当てると、尻尾を2、3回振って、きっどきっど、と繰り返します。

   「きっど。」

    嬉しそうに繰り返す子犬の頬を舐めてやりながら、サンダウンも尻尾を一つ振りました。