サンダウンの前で泣き疲れて眠ってしまった日から、マッドは以前ほどサンダウンに対
 
 して怯えた様子を見せなくなりました。

 マッドが眠った後、サンダウンはずっとマッドの側にいました。

 それが、マッドの中でサンダウンは敵ではないという認識をさせるに至ったのかもしれ
 
 ません。

 だからといって、マッドが夜に切なく泣く事がなくなるといった事はありませんでしたが。



 ただ、サンダウンが側によると、泣くのを止めて潤んだ目で見上げてくるようになりま
 
 した。

 ふるふると震える耳も尻尾も、ゆっくりと落ち着きを取り戻します。
 
 籠の隙間から鼻先を近付けると眼を閉じて、大人しく小さな頭を預けてきます。



 人間達がこぞって構いたくなるような――けれどもなかなか心を開かない――愛らしい
 
 子犬が、ほんの少しですが自分に慣れていくのは、サンダウンとしても悪い気はしませ
 
 ん。

 尤も、まだ信頼されるほどの関係には至っていないのですが。

 それに、マッドは基本的に食事の時以外はまだ籠の中にいるので、サンダウンがしてや
 
 れる事など籠の側にいる事くらいしかないのです。

 だから、飼い主であるビリーの事でさえ、まだ飼い主であると認識していないマッドに、
 
 側にいるだけの大きな犬の事を信用しろというほうが無理です。

 むしろ、こんなに早く敵ではないと思って貰えた事が奇跡です。



 でもサンダウンは、もっと早く懐けば良いのに、と思います。

 この家でずっと暮らしていくのですから、慣れるのは早い方が良いのです。

 けれど、此処は自分の家ではないとべそをかくマッドに、もう以前の家には戻れないの
 
 だというのは、あまりにも残酷です。

 

 どうしたものか、と潤んだ顔をタオルに押し付けて眠る子犬を見下ろし、サンダウンは
 
 途方に暮れます。

 実はサンダウンが頭を悩ます必要などないのですが、一度その頬を舐めて宥めてしまっ
 
 た以上、留意してやる必要はあるのではないかと思うのです。

 ぐずぐずと泣くマッドに、そのままでは身体が弱ってしまうんじゃないかといらぬ心配
 
 までしてしまいます。

 事実、ただえさえ潰れてしまいそうなくらい小さいのに、体力だってなさそうなのに、
 
 涙に濡れてしまっては元気だとはお世辞にも言えません。

 壊れてしまいそうな子犬の様子に、サンダウンは溜め息を吐きました。








 マッドの様子が一向に改善されないまま、何日か経ったある日、物凄い雨が降りました。

 昼間だというのに空は真っ黒になり、夜が来たんじゃないかと疑うほどです。

 サンダウンが窓の側に近付いて空を見上げていると、分厚くて黒い雲の縁が、ぎらぎら
 
 と光りました。

 その少し後に、家が震えるのではないかと思うような轟音が降りかかってきました。

 それも、一度や二度ではありません。

 空は何度も何度も白く光り、その度に少し遅れて地面から響くような音がするのです。

 その音の合間合間に、激しく叩きつけるような雨音が聞こえてきます。



 びりびりと震える窓硝子の向こう側からでも漂ってくる湿気た匂いに、サンダウンは顔
 
 を顰めました。

 毛の長いサンダウンにとって、湿気はあまり嬉しいものではありません。

 やれやれと肩を竦めて窓から離れ、壁際に寝そべると、きゅっきゅっというか細い音が、
 
 太鼓のような雨音と、雷の轟音に混じって聞こえる事に気付きました。

 はっとして耳を澄ますと、雷鳴が轟くたびに、きゅっと悲鳴のような音が上がっていま
 
 す。

 何の音であるのか、サンダウンは直ぐに思い至りました。



 いそいそとだらしなく寝そべっていた身体を起こし、部屋の隅に置いてある籠の側へと
 
 向かいます。

 そっと籠の中を覗き込むと、案の定、真っ白なタオルに身体を埋めて震える小さな身体
 
 がありました。

 耳も尻尾も力なく垂れ、雷が鳴るたびに、きゅっと震える声を上げています。



「マッド。」



 名を呼ぶと、恐る恐るといったふうにマッドはいつもよりも強くタオルに押し付けてい
 
 た顔を上げました。

 酷い怯えで涙に濡れた顔は、雷鳴が響くたびにきつく歪みます。

 

「なにが、おきてるの………きゅっ!」



 ぎゅっとタオルにしがみ付いて、ふるふると震えるマッドに、サンダウンはこの子犬が
 
 雷を経験した事がないのだと気付きます。

 本来、動物は雷が苦手なのですが、それが初めてとあっては恐怖もひとしおでしょう。
 


「マッド………大丈夫だ。」



 此処にいれば何も起こらないから、と言ってみても、この場所を未だに見知らぬ場所と
 
 認識している子犬には安心できるはずがありません。

 きゅうっという喉の奥から絞り出されるような声は、いつもの夜の泣き声以上に悲痛で
 
 す。

 雨に打たれてもいないのに、それと同じくらいの惨めさを見せる子犬の姿に、サンダウ
 
 ンは本来ならするべきではないと思いつつ、籠の扉に手を掛けます。

 以前、マッドが開く事が出来た扉は、当然サンダウンにも開ける事が出来ました。

 開いた扉から顔を突っ込み、マッドの細い首根っこを掴みます。



「うきゅっ?!」



 突然首を咥えられ持ち上げられて、マッドは思わず叫んでしまいました。
 
 そんなマッドには構わず、サンダウンはその小さな体をフローリングの床の上に降ろし
 
 ます。

 つるつるとした床の上に降ろされ、マッドは眼をぱちぱちさせます。

 その眼の前を、砂色の毛並みが遮りました。



「こうしていれば、何も起きない。」



 サンダウンの毛並みに包まれ、耳元でそう囁かれてマッドは大きく眼を見開きました。

 こんなふうに毛皮に包まれる事は本当に久しぶりな気がしました。

 けれど、親や兄弟以外にこんな事をされたのは初めてです。

 驚いているマッドに、サンダウンは再び囁きます。



「何か起きても、私の側にいれば大丈夫だ。」

「………ほんとう?」

「ああ…………。」



 本当に雷が落ちてきたら、サンダウンの手ではどうしようもないのですが、小さな子犬
 
 をこれ以上不安がらせる必要はありません。

 軽くその頬を舐めてやると、マッドはおずおずとサンダウンの毛並みに顔を埋めました。

 雷が鳴るたびに震える身体を撫でてやると、少しずつ落ち着いていくのが分かります。

 時折、サンダウンの様子を窺う眼差しには、鼻先を擦ってやります。



「眠っても良いぞ。」

「ん…………。」



 雷が響くのは一時的な事です。

 しばらくすれば、後は雨音だけになるでしょう。

 そうなれば、眠りやすくなるはずです。

 腹の上に掛かる小さな重みを撫でてやりながら、サンダウンはそう思いました。