マッドがビリーの家に連れてこられたのは、二年前の秋でした。

 その頃、サンダウンはまだ大人になったばかりで、自分よりも小さい――とても小さい
 
 犬など見た事がありませんでした。

 まだ小学校にあがったばかりのビリーが、お小遣いをはたいて連れて帰ってきたのは、
 
 少しでも力を込めれば潰れてしまいそうな黒い子犬でした。

 生まれて二週間と経っていない子犬を見て、ビリーのお父さんはビリーを厳しく叱りつ
 
 けました。

 軽い気持ちで生き物を買ってはいけない、と。

 それに家にはもうサンダウンがいるのです。

 サンダウンがこの子犬を虐めるかもしれない、と。

 もちろんサンダウンにはそんなつもりは全くないのですが。

 

 けれども結局、ビリーのお父さんも最終的には子犬を飼う事を許してくれました。

 それは幼いビリーがお小遣いを使い果たしてしまった事と、それ以上に、ビリーが買わ
 
 なければその子犬は保健所に連れて行かれる事に気付いたからでしょう。



 幼いビリーが何とか拙いながらも説明したところによると、小さな真っ黒な子犬は、お
 
 父さんも知っている、とある良心的なブリーダーの所で産まれた子犬だそうです。

 血統書さえ持っているその子犬は、本当ならば幼いビリーが買えるような犬ではないの
 
 です。

 しかし、良心的なブリーダーはそうそう儲かるものではありません。

 そのブリーダーは、色々なペットショップから圧力を掛けられ、仕方なく別の場所に引
 
 っ越す事に決めたのです。

 けれど、ペットショップの店長達は、そのブリーダーが育てた犬が問題を起こしている
 
 とあらぬ疑いを掛け、

 その代償として手持ちの子犬達を引き渡すように迫ったのです。

 確かに、ブリーダーとしても子犬を抱えての引っ越しは非常に困難です。

 ですが、大切な子犬達をペットショップなどにおけるはずもありません。

 そこでやむなく、知っている飼い主達に、幼い子犬達を譲る事に決めたのです。


 
 そんな事情を知って、お父さんも黒い子犬を飼っても良いと言ってくれました。

 ビリーは喜んで、眠っている子犬をマッドと名付けたのです。

 そしてサンダウンに、小さな籠の中に入った、小さな小さな子犬を見せました。



「ほら、新しい家族だよ。」



 仲良くしてね、という少年の言葉と共に、サンダウンの眼に入ってきたのは、真っ白な
 
 タオルの中でぐっすりと眠る、赤ん坊と言ってもいい子犬でした。

 しかし、そのあまりに小さな姿にサンダウンが反応するよりも先に、ビリーのお父さん
 
 は子犬をサンダウンの前から取り上げてしまいます。



「サンダウンに会わせるにはまだ早いぞ。」



 子犬が怖がってしまう。

 サンダウンは子犬を怖がらせるつもりも虐めるつもりもないのですが、お父さんはそう
 
 は思ってくれないようです。

 けれど、お父さんの言葉は正しかったのです。

 マッドは、サンダウンが思うよりもずっとずっと幼かったのです。
 


 マッドが家に来て初めての夜、サンダウンはマッドの泣き声で眼を覚ましました。

 か細く頼りない声は、家族を捜す声です。

 夜の闇の中、一心に泣き続ける声に、けれどサンダウンにはどうする事もできません。

 やがて、泣き疲れて眠るまで、それはずっと続きました。

 

 そんな夜が一週間ほど過ぎ去ったある日、ビリーが、お父さんには内緒だよ、と言って
 
 再びサンダウンにマッドを会わせました。

 前と同じように真っ白なタオルの中に沈んだマッドは、けれども今日はぱっちりと眼を
 
 開いています。

 そしてこの時、ようやくサンダウンはマッドの正確な姿形を知ったのです。

 相変わらず小さく、それでも前よりも一回り大きくなった身体。

 真っ黒な身体には、小さな手足と小さな耳、小さな尻尾がついています。

 そのどれもが真っ黒です。

 大きく見開かれた瞳でさえ、艶々とした黒。

 鴉と同じくらい、いえ、それ以上に黒い子犬は、その眼にサンダウンを映しています。

 けれど、その様子は酷く怯えたものでした。

 無理もありません。

 突然家族と引き離されて、知らない人間の家に連れて来られたと思ったら、今度は大き
 
 な犬が自分を見下ろしているのですから。

 怯えで眼をいっぱいにして、真っ白なタオルに顔を擦りつけているマッドの姿に、サン
 
 ダウンは罪悪感を感じ、マッドの前から立ち去りました。



 マッドに対するサンダウンの罪悪感は日に日に増していきます。

 もちろん、サンダウンに非があるわけではありません。

 けれど、何も知らない眼に怯えた眼差しで見られると、どうしても自分が悪いような気
 
 持ちになってしまいます。

 時折、ビリーがこっそりとマッドを見せてくれるのですが、その度に恐怖に満ちた瞳に
 
 ぶつかると、とりたてマッドに特別な感情を持っていないにも関わらず、酷く気分が沈
 
 みます。

 夜毎繰り返されるマッドの切ない泣き声も、まるで自分が虐めたからだという思いがし
 
 てきます。

 せめて、マッドと顔を合わせるのがマッドがもう少し大きくなってからだったら、彼の
 
 言い分も聞けたのでしょうが、何せマッドはまだ言葉も上手く喋れないくらい小さいの
 
 です。

 

 マッドが一向に新しい生活に慣れる気配がないある日の事、それは起こりました。

 昼間、家にはサンダウンとマッドの他には、誰もいません。

 サンダウンは床に寝そべり、マッドは小さな籠の中にいます。

 マッドは、ビリーが籠の外に出して遊ぶ時以外は、基本的にタオルに包まって眠ってい
 
 るのです。

 ですから、誰もいない家の中で、サンダウンが立てる足音以外には音などしないのです。

 なのに、今、何処からともなく怪しい物音がしています。

 それを聞き咎め、サンダウンはむくりと身を起こしました。
 
 空き巣でしょうか?

 それとも、何処か開いていた窓から鳥が迷い込んできたのでしょうか?

 足早に音がする場所へ向かうと、そこには人間も鳥もいませんでした。

 けれども、サンダウンが立ち止るには十分でした。

 広い部屋の中、ぽつんと置かれた籠の扉が大きく開いています。

 その扉の前にいるのは、真っ黒な子犬。

 マッドは突然現れたサンダウンの姿に、大きく眼を見開いていましたが、慌てて身を翻
 
 して逃げ出しました。

 その時になってようやく、サンダウンは籠の扉をマッドが開けたのだと言う事に思い至
 
 りました。

 恐らく、ビリーが開け閉めをしているのを見て、どうすれば扉を開ける事が出来るのか
 
 覚えたのでしょう。

 マッドはとても小さいですが、誰もが思う以上に賢かったのです。

 そして、なんとかしてこの見知らぬ家から逃げ出そうとしたのです。

 

 一生懸命逃げるマッドは、けれどもサンダウンから見れば、よちよちと歩いているよう
 
 にしか見えません。

 覚束ない足取りはフローリングの床で時折転び、あっと言う間に壁際に追い詰められて
 
 しまいました。

 床に座り込んで、震えながらサンダウンを見上げる眼は、やはり酷く怯えていて。

 サンダウンは、どうしたものかと困惑しました。

 普通ならば、マッドをもう一度籠の中に戻すべきなのでしょうが、今のマッドに触れよ
 
 うものなら、そのまま死んでしまうんじゃないかと思うくらい、

 その小さな身体は震えているのです。

 けれども、このままマッドを放っておくわけにもいきません。

 そっと手を伸ばし、その細い首筋を咥えようと顔を近付けると、きゅっという喉から絞
 
 り出されるような小さな悲鳴が響きました。



「や………っ!」


 
 今にも泣き出しそうな声での拒絶に、サンダウンは思わず身を引きました。

 恐怖の所為か、くたりと床に倒れ伏したマッドは、潤んだ目でサンダウンを見上げてい
 
 ます。

 ふるふると震える小さな尻尾と耳。

 その様子に、サンダウンは手出しが出来なくなります。

 ですが、マッドを此処から逃がすわけにもいかないのです。

 マッドがいなくなればビリーが悲しむ事は眼に見えていますし、マッドが帰る場所はこ
 
 の家以外にないのです。

 そもそも、マッドがこの家の外に出てしまえば、その命はあっと言う間になくなってし
 
 まうでしょう。

 

「マッド………大人しく籠の中に戻れ。」



 出来る限りマッドを刺激しないように静かな口調で言うと、マッドはふるふると首を横
 
 に振ります。

 いやだ、と幼い声は涙を孕んでいます。

 その声に困惑していると、マッドは頑是なく首を振り続けます。



「そんな、なまえじゃ、ない。」



 震える声で告げられた言葉に、サンダウンは眉を顰めました。

 マッド、ともう一度名を呼ぶと、違う、という答えが返ってきます。

 そんな名前ではない、と。

 恐らく、ブリーダーのもとにいた頃は、別の名で呼ばれていたのでしょう。

 それは良くある事です。

 尤も、サンダウンの場合は幼い頃に何と呼ばれていたのか覚えていないのですが。

 或いは、名前などなかった可能性もありました。

 けれど、この子犬の場合は、ちゃんと名前があったようです。



「やだ、こんなところ。もう、かえりたい。」



 しゃくりあげる音が喉元にまでせり上がっているのが分かります。

 潤んだ目からは、遂にぼろりと涙が零れ落ちました。

 けれど、どうしたってもう帰る場所はないのです。



「マッド…………。」



 ですがそんな事をマッドに言う事も出来ず、サンダウンは再びマッドに顔を近づけます。

 そしてその小さな顔を、そっと舐めました。



「泣くな………。」



 いつものように、高くか細い声での泣き声ではなく、押し殺したように泣くマッドの眼
 
 からは、次から次へと涙が溢れだします。

 それを舐めとってやりながら、サンダウンは他にどうする事も出来ずに囁きます。



「泣くな、………。」



 いつしか、マッドのしゃくり上げる声が途絶えました。

 泣き疲れて眠ってしまったのです。

 その小さな身体を、壊さないようにと恐る恐る咥え上げ、サンダウンは籠の中に入れます。

 白く柔らかなタオルで包んでやり、そっと扉を閉ざしました。