殺すために知りすぎた気配はだからこそ心地よすぎて 02:陽だまりの背中







 空が砕けるのではないかと思うほどの轟きが地面を揺らしたのは、立ち込める暗雲を
 漂白した稲光のすぐ後だった。

 マッドが眉を顰めて怪しすぎる雲行きを見上げた時にはもうバケツの底を刳り抜いた
 ような大雨に見舞われていた。


 いつもは乾き切った荒野。
 それが今、何をとち狂ったのか、泥と濁流で覆われている。
 砂まじりの風も、今は雨粒まみれだ。


 舌打ちして馬首を翻し、とにかく雨をしのぐ事が出来る場所へと愛馬を走らせる。

 普通馬は繊細な動物で、稲妻や大雨を非常に嫌う。
 しかしマッドの愛馬であるディオは普通の馬と比べて、そういった繊細さに恐ろしく
 欠けており、泥の中を突っ切る事も厭わない。
 稲光にも雷鳴にも驚いた素振りを見せた事は一度もない。 

 が、そのディオでさえこの大雨には閉口したらしくマッドの命令を聞くや否や、汚泥
 を跳ね上げて疾走し始めた。

 幸いにしてこの近くには、マッドが時折使用している古びた空き小屋が建っている。
 ディオもそのことを心得ているのか、しっかりとそちら目掛けて駆けている。


 突然の雨に顔を顰めたマッドだったが、まあいいかと思いなおす。


 此処のところ、ずっと野宿だった。
 最後に町に立ち寄ったのは小粒の、しかし群れたがりの賞金首共を保安官のところに
 突き出した時だったか。  
 ならば、少し休んでいっても良いかもしれない。
 空き小屋といっても放置されっぱなしの朽ち果てたものではなく、まだ十分に人が住
 めるような小屋だ。
 野宿よりもよっぽどかましだろう。


 久々に身体を休められるのかと思ったその時、驟雨でけぶる視界の先に一軒の小屋が
 浮かび上がった。










 転がるように小屋に入った瞬間、木製の床に人一人分と馬一頭分の滴が広がった。
 挙句にディオはぶるぶると身を震わせ、毛に付いた雨粒を振り落としたので、湿気て
 いた小屋の空気が一層湿ったものになった。

 マッドは、まだ身体に残る水滴に不満そうなディオを小屋の入口にある厩に押し込む。


 マッドがこの小屋を多用している理由の一つがこの厩の位置にある。
 馬からそれほど離れる事なく身体を休める事ができる上、入口から何者かが入ってき
 たら馬が気づいて騒ぐ。
 馬泥棒については、ディオがマッド以外に対しては凶暴すぎるのであまり心配してい
 ない――寧ろ馬泥棒の命のほうが心配だ――が、小屋に忍び込んでくるならず者に対
 しては、例え眠っていてもマッド自身も気付くが、ディオが騒いだほうがもっと早く
 対応できる。


 そのディオは何やらまだ不満なのがごそごそしていたが、やがて納得したのか、居心
 地の良い場所を見つけたのか、大人しくなった。

 そんな愛馬の姿を横目で見ながら、マッドは小屋の中に添えつけられている暖炉に、
 なんとか死守したマッチで火をつける。


 ぽっと付いたオレンジ色の炎に、小さく息を吐き、壁に凭れるようにして座り込む。
 床に広がっていく染みに暖炉の炎が色を付けている様を眼で追っていると、次第に自
 分が酷く疲れている事を感じ始めた。
 ディオもそうらしく、大人しくなってからは、まるで彫像のように動かない。


 炎が映す二つの影を揺らめかすが、その持ち主達はしばらくの間じっと動かなかった。


 雨音が遠ざかる気配もなく、寧ろ一層激しく小屋の屋根を叩き始めた頃、ようやく服
 が乾いたらしいマッドが、のろのろと動き出した。
 ジャケットをずるりと脱ぎ、どこかその辺りにと視線を彷徨わせながら立ち上がる。
 簡素な椅子の上に被せるようにそれを載せると、更にその向こうにあるシーツに覆わ
 れたベッドに倒れ込んだ。
 その前に、暖炉の火を消す事も忘れずに。


 マッドの身体を受け止めたベッドは、抗議のように軋んだ音を立てたが、マッドには
 そんなものを気にするつもりは全くない。
 そんな事よりも、簡素とは言え久しぶりのベッドだ。
 溶けるように埃っぽいシーツに顔を埋め、大きく息を吐いて肩の力を抜くと、一気に
 身体が重くなったような気がした。
 それに付随して、瞼も自然に下がる。

 意識が途絶える最後に周囲の気配を探るが、あるのは自分とディオの呼吸だけ。

 あとは雨音ばかりだ。

 その雨音に誘われるように、マッドはずるずると眠りの縁を漂った。












 どれくらい時間が過ぎただろうか。

 マッドは雨音で震える埃っぽい夢の中に沈んでいた。

 湿気た空気は相変わらず震える事もなく、それ故にマッドはシーツの上でまどろんで
 いる。
 そこに、ゆっくりと、ごく自然に別の震えが混ざり合った。
 これが喧騒や殺気を伴った空気であったならマッドは飛び起きただろうし、ディオが
 何よりも黙っていない。
 しかしまどろみの空気と同化している愛馬は何の反応も示さない。
 それに何より、空気に混ざるその気配はマッドの良く知ったものだった。


 だが、普通に考えればそれこそマッドは飛び起きるはずだった。


 それは常日頃からマッドが追いかけている気配なのだから。



 ―――キッド………?



 しかし、やはり疲れがたたっていたのだろうか。
 覚める事のない頭では、その気配を認知しても身体を動かそうという判断はできない
 ままで。

 ひっそりと近づく気配からは、微塵も殺気やそれに類するものが感じられず、空気に
 溶けてしまいそうなほど静かだ。
 白く霞む眼で気配を辿ると、自分を見下ろす青い双眸にぶつかった。


 ―――ああ、夢か。


 マッドは判断もおぼつかない頭で、そう判断した。


 気配も姿形もそれは確実にサンダウンである事を知らせているが。


 ―――でも。


 青い眼に浮かんだ穏やかな光と、微かに微笑んだような気配。


 そんなものは見た事がないから。


 ―――夢だ。


 そう断定して、マッドは再び重い瞼を閉じ、夢の中に引きずり込まれた。











 
 それは、本当に大雨だった。


 荒野を馬で駆けていたサンダウンは、怪しい雲行きを警戒してずっと屋根のある場所
 を探していた。
 しかし結局間に合わず、痛いくらいに降りかかる雨粒を受ける事となった。
 乾いた大地は忽ちのうちに泥と濁流に飲み込まれ、弾かれた雨が水煙のように視界を
 遮る。


 白と茶と黒に支配された世界に、ようやく、ぽつりと建った一軒家を見つけた。
 そこに愛馬と共に駆けこんだサンダウンは、すぐさま人の気配に気づく。
 いや、人の気配に気づかなくても、小屋の入口に添えつけられた厩に馬がいる事で人
 がいる事はすぐに知れた。
 そしてその馬がディオであり、この小屋に先に辿り着いたのが誰なのかという事にも。


 そして、その誰かが無防備とも言える気配を発している事にも。


 愛馬をディオのすぐ傍に繋ぎ――ディオは特に何も言わなかった――ベッドの上に投
 げ出された身体に近づく。
 シーツに沈むように眠るマッドは、そこでようやく身じろぎした。

 が、それ以上の動きは見せない。

 そっと顔を覗き込むと、ぼんやりと開いた瞳と眼が合った。
 明らかに夢と現実の間を彷徨っているような瞳は、マッドを妙に幼く見せる。
 普段とは全く違うその姿に、サンダウンは思わずごく僅かに苦笑した。


 ゆるゆると塞がる瞳と、小さく丸まる身体。

 唇が動いたような気がしたが、それはただの吐息だったのかもしれない。


 再び夢の世界へ戻ったマッドの背を見て、サンダウンはこんなに無防備でいいのかと
 少し不安になる。

 そして、そう言えば、と思う。

 マッドの背を見る事はあまりないな、と。

 普段から彼に追いかけられる事がほとんどで、彼の背を見た事はあまりない。
 シャツに包まれた背は整った形をしており、すんなりとごく自然に綺麗に筋肉がつい
 ている事がわかる。



 この背が、落ちかかりそうな青空や降り注ぐような星空を背負って、自分のもとに現
 れるのか。


 世界に背を向ける自分に、その喉元に突きつける為の世界の断片を従える背は、湿気
 て薄暗い小屋の中でも良く映え、温かな呼吸を見せている。


 篠つく雨音に守られて穏やかな空間を作り上げる寝息に、サンダウンは、今逢えて良
 かったと、ふっと思った。



 長い間一人で彷徨っているとどうしても忘れてしまうものがある。

 どれだけ大切なものであっても、だ。

 ましてサンダウンは自らこの世から眼を背け逃げている。
 それを後悔するつもりはないが、だが人として愛おしいものの手触りや音を忘れてし
 まうのは紛れもない事実だ。
 そしてそれらの記憶が一つずつ薄れていけばいくほど、自分の奥底に冷たく広がり燻
 る絶望が大きく口を開けて全てを飲み込もうとする。

 特に、こんな自分自身の熱も奪うような冷たさが身体を濡らすような日は。



 だから。



 忘れてしまいそうなものを全て背後に従え、自分を追いかける彼に逢えて良かった。



 束の間の休息を貪るその背には今は何も乗っていないけれど、サンダウンが求めてや
 まないもので満たされている。


 ひたり、と手を当てると、そこはやはり暖かかった。













 次の日。


 眼を覚ましたマッドが、自分の背中を抱え込むようにして休んでいるサンダウンに気
 付き、咄嗟に蹴り飛ばしたとか。

 でもその蹴りは容易くかわされてしまったとか。

 その光景を二頭の馬がまったり眺めていたとか。

 怒りと羞恥で顔を真っ赤にしたマッドが、とりあえず決闘を挑んだとか。



 その辺りの事は本人達だけが知っている。 



 





  I feel your back to be reliable