眼の前で、真っ黒い銃口が大きく開いた。

 乾いた大地を照らす太陽は非情で、その白々しい光は黒光りする銃に一筋をつける。

 よくよく見てみれば、艶やかな黒い金属の身体には、薄っすらと埃が積もっており、今
 
 日も砂塵混じりの風が吹いている事を知らせる。

 その銃口の向こう側では、同じくらい艶やかで、夜露が溜まったかのような黒い瞳がこ
 
 ちら側を覗き込んでいた。

 仄かに赤い口元にはいつものように笑みを湛えて。

 けれど、銃口の肩から覗くしっとりとした眼には、明らかな怒りが浮かんでいた。





 six pence










「金があったからって幸せってわけじゃあねぇよな?」


 
 銃を携えたままそう告げたマッドが吐いた台詞に、サンダウンは眉を顰めた。

 普段あまり眼にする事のないマッドの心底からの怒りを見た所為もあるが、それ以上に
 
 マッドの口から零れるには些か奇妙に思える台詞の所為だ。

 

「貧しきものは幸いなり。その言葉を鵜呑みにするつもりはねぇが、金があったところで

 幸せになれるわけでもねぇ。」



 幸せ。

 
 
 正直、マッドが口にするには似つかわしくない。

 底抜けに貪欲で、誰よりも生を謳歌している男には、そんなものについて考える暇など
 
 ないと思うのだが。

 幸も不幸も喜んで飲み下すマッドに、幸せなんて概念が、あったのか。

 そして、そんな人生の教訓めいた言葉を吐くのか。



 決して間違った事を言っているわけではない。

 寧ろ真実を穿ち過ぎている。

 金が欲を呼び寄せ、人を不幸にしてきた様は、サンダウンも幾度となく見てきた。

 そしてそれはマッドも同じなのだろうが、しかし吐き捨てられた台詞はマッドにはあま
 
 りにも不相応な言葉だ。

 

「そりゃ、貧乏人にはこの言葉は多分傲慢以外の何物でもねぇだろうよ。

 食うに事欠く人間には、たった一枚のコインでも喉から手が出るほど欲しいもんだしな。

 それに、俺は芯から金に困った事はねぇし。」


 
 けどな、と彼が紡いだのは、誰も知らない過去の一端。

 何があったのかまでは推し量る事はできないが、サンダウンがはっとするには十分だっ
 
 た。



「金があって食うに困らなくても、幸せじゃなかった時期があったぜ。」



 金があろうとなかろうと、清も濁も踏み越えて笑っている人間だと思っていた。

 だが、微かに過去を零した時、怒りで濡れた眼の奥で小さな揺らぎを見つけた様な気が
 
 した。

 しかしそれにサンダウンが手を伸ばす前に、マッドはひらりと躱し、口角を吊り上げる。



「金があっても幸せじゃねぇのは、あんたも同じだろ?」



 5000ドルの賞金首さんよ?



「せっかく自分の首に5000ドルの価値があっても、自分じゃ使えねぇなんて随分な不幸だ

 よな。こうして賞金稼ぎに追いかけられてよ。」



 カチリ、と撃鉄が上がる音がする。

 僅かに見せた揺らぎは、いよいよ深くなった怒りの色で完全に埋没してしまった。

 きっと、普通の賞金首ならこの場で失神してしまいそうな、圧倒的な気配。

 だが――――。



「逃げ出したくなったって仕方ねぇよな。今のあんたにしてみりゃ、この俺に追いかけら

 れてる状況は不幸の極みだろうよ。別の土地に行ってやりなおしたくなっても仕方ねぇ。」



 この1ヶ月間楽しかったか?

 

「気配も絶って、見事にあんた消え失せてみせたよな。何処をどう捜したって見つかりゃ

 しねぇ。ああ、遂に海でも渡っちまったかと思ったくらいだぜ。」



 賞金稼ぎに追われない生活は、俺がいない生活は、幸せだっただろう?



「けど、そんな簡単に俺から逃げられると思ってんのか。」

「………それで怒っているのか?」



 ようやくマッドの怒りの矛先と、その彼に似つかわしくない上やたらと迂遠な台詞に合
 
 点がいった。

 

 この1ヶ月間、マッドの言うとおり、サンダウンはこの荒野から姿を消していた。

 気配一つ残さず、その存在があったかどうかも分からぬくらい、消え失せていた。



 だがそれは、マッドが思っているように逃げたわけではない。

 唐突に、サンダウンでさえ理解できない摩訶不思議な力によって見知らぬ地へと引き寄
 
 せられていたのだ。

 古い石畳と城と街は、サンダウンが知らぬ風景で、そして誰一人として生きる者はいな
 
 かった。  

 否応なしに引き摺りこまれた世界は異形の者ばかりが徘徊し、聞こえる死者の声は怨嗟
 
 と呪詛ばかり。

 光さえ絶たれて色もくすみ、寒さばかりが支配する悲しい世界で、けれどサンダウンが
 
 思っていたのはマッドの事だった。



 どうして此処にいないんだという年甲斐もない八つ当たりめいた事から、自分の事を忘
 
 れていはしないかといった妙に不安げなものまで、

 マッドに対して一通り全ての事を思った。

 そして戻ってくるなり銃を突きつけられた上に、怒りをぶつけられておかしな事を口走
 
 られたわけだが、それは。



「うるせぇな、くそ!ずっと馬でだけ逃げてきて、それが急に本気でいなくなりやがって!

 何処捜してもいないとなったら、国境越えしたくらいしか思い浮かばねぇだろ!だった
 
 ら最初からそうしとけってんだ!」

「国境を越えたら諦めるのか。」

「諦めるか、ハゲ!」



 些か受け止めるには不本意な罵倒が投げつけられた。

 しかし怒りで我を忘れているのか、マッドは自分の罵倒でサンダウンが微妙な顔をして
 
 いる事に気付かない。



「国境なんぞそんなもん棒高跳びで飛び越えてやらあ!そうじゃなくて、逃げる時は気配

 ぐらい残していけっつってんだ!追いかける方の身にもなってみやがれ!」



 無理難題を賞金首に突き付けた賞金稼ぎの言葉は、もはや止まる所を知らない。

 そんな状態でぼろぼろと吐き出されるのは、全てが全てマッドの本音で。



「この1ヶ月間、俺がどんな思いをしたか分かってんのか!捜しても捜してもあんたは見

 つからねぇし、ああ遂に本気で嫌がられたのかって思って!でもすぐにどっかで野垂れ
 
 死んだり、どっかのアホに殺やれたんじゃねぇのかって思って、またあちこち捜して!

 なのに死体どころか噂も気配もねぇし、一体何処に行ってたんだ、カバ、人に心配させ
 
 るんじゃねぇよ!」



 名前だけは知っている動物の名で罵られ――それは罵りになるのか――しかしその前に。



「………心配したのか?」

「心配したに決まってんだろ、馬鹿野郎!」



 マッドの怒鳴り声が、だだっ広い荒野に響いた。

 遠くで自分達の様子を窺っていた何人かの賞金稼ぎ達が、何だか物凄くうろたえて慌て
 
 たように立ち去っていった。

 もしかしたら彼らはショックで賞金稼ぎを止めてしまうかもしれないが、それはサンダ
 
 ウンの与り知らぬところである。

 木霊が収まり、静けさが戻ってきた荒野で、マッドが我に返った。



「待て!今のは、なしだ!」

「そうか、心配したのか。」

「してねぇ!さっきのはあれだ!言葉の綾だ!最初からやり直すからちょっと待て!」

「やり直さんでいい。」


 
 ずいっと歩み寄ると、サンダウンの行動に何を思ったのか、マッドは慌てて背を向けて
 
 逃げ出そうとする。



「に、逃げるぞ、ディオ!」



 愛馬を呼んで賞金首の手から逃げようとする賞金稼ぎに、お前が逃げてどうすると冷静
 
 に突っ込むが、マッドの耳には入っていないようだ。

 仕方なく実力行使に出ると、掴んだ身体がじたばたと暴れた。



「は、放せ!てめぇなんか5000ドルの賞金に埋もれて窒息して死んじまえ!」

「……………その罵倒の意味は分かりかねるが。」



 首根っこを引っ掴んで引き寄せた耳に囁く。



「この一ヶ月間の思いは、大体は同じだ。」



 この1ヶ月間楽しかったか?

 ―――楽しいわけがない。 

 俺がいない生活は、幸せだっただろう?

 ―――幸せであるはずがない。

 マッドがサンダウンがいなくて心配したと言うのなら、サンダウンもマッドがいない事
 
 で追い詰められていた。

 それは、引きこまれた世界が金銀で埋め尽くされた世界でも同じだろう。

 マッドが言った通り、金があっても幸福であるとは限らないのだ。


 
 そして、この不幸の極致であった1ヶ月間、その期間でマッドが心配したと言うのなら。

 荒れ果てたこの地ほど、生きるに幸せな場所はない。

 唸っている狂犬に、サンダウンは撒餌を与える。



「追いついてみせろ………。」



 その、牙と爪を以て。

 その時は、この腕の中に引き落としてやろう。