ころりころりと転がる涙に、いけない、とマッドは思う。
  セイレーンの涙は、世にも稀な宝石だ。こんな物を人間に見せてしまえば、どうなる事か分から
 ない。サンダウンが、例えそうでなくとも欲に塗れた人間が、宝石を手に入れようと何をする事か。
  だが、そうは言っても涙というものは思って簡単に止まるものではなかった。
  頬を伝い落ちる間に降下して、サンダウンの手を打ちながら落ちる涙は、マッドの脚の下に降り
 積もっていく。 
  瞬くだけで零れ落ちる涙の向こう側で、サンダウンが酷く困ったような顔をしていた。
  マッドの涙を拭おうにも、石と化した涙は拭うまでもないし、かといって掬うのも何かおかしな
 話だ。 
  どうやらサンダウンはマッドの状態に手を拱いているらしい。
  自分を持て余しているのだ、と気が付いたマッドは、それならとサンダウンの手から離れようと
 頬に当たるかさついたその手を振りほどくが、途端にサンダウンは追いかけてきてマッドの頬を再
 び手で挟み込む。
  どうすれば良いんだろうな、と呟いたサンダウンに、マッドはそれはこっちの台詞だと思った。
  サンダウンが生きている以上、マッドは延々とサンダウンの呪いが解ける瞬間に怯えなくてはな
 らないし、しかしサンダウンが今から死んでみせてもマッドの歌声は戻ってこない。
  どうしようもなく面倒臭く、しかしマッドに触れる事を市場の喜びとして、マッドの震える声一
 つでさえ、神の信託か何かが下りてきたかのように過敏に反応している男。
  マッドに焦がれているくせに、マッドに無理強いは出来ない。せめてマッドに何らかの焼き鏝を
 与えようとして、小さな芙蓉の苗木を捧げた。
  そうして、マッドを貫いた。
  花はセイレーンにとっては生命の糧だ。自ら咲かせて、蜜を得るものだ。他人から与えられるも
 のではない。
  いや、与えられたとしてもそれは利益供与の為でなくてはならない。
  勿論、普通の贈り物でも構わない。
  それが、ある一定の則を超えない限りは。
  正確にいうならば、贈る相手の想いの深さが、セイレーンの魔力を超えない限りは。
  そんな事は普通は起こらないのだ。セイレーンは自分達の則をよく知っているから、利益供与以
 外で花を贈ったりしない。ほとんど起こらぬことだが、他種族からセイレーンに花を贈ったとして
 も、セイレーンの魔力を超えるほどの想いを持った輩などいない。まして、高々人間如きが。
  なのに、高々人間如きが贈りつけた芙蓉の苗木は、あっさりとマッドの歌声を飛び越えてみせた。
  呪いの所為で、サンダウンの卑小であるはずの想いとやらは、セイレーンの歌声を凌駕するほど
 のものとなって、逆にマッドを縛り付けた。  
  サンダウンが生きているという事が既に脅威であるのに、更に二重にマッドを絡みつく。
  いや、それどころか、それはマッドに一つの恐怖さえ与えた。
  もしもセイレーンの魔力を超えるほどの想いを花に込める人間がいたなら、それはセイレーンの
 呪いさえ解くことができるかもしれない。
  サンダウンは今や、マッドの命を握り潰せる存在なのだ。
  芙蓉の花をサンダウンが贈る前に、マッドはサンダウンを殺しておくべきだった。いやその時で
 はもう遅い。呪いをかけたその時点で殺しておかなくてはならなかったのだ。サンダウンという人
 間を知るよりもその前に。 

 「マッド。」

  名前を呼ぶ声は、困っているが酷く優しかった。
  だが、それは全て呪いの所為だ。マッドがかけ、そしてマッドに跳ね返ってくる。呪いとはそう
 いうものだった。だから、セイレーンの歌は、植物にのみ働きかけるべきものなのだ。情など知ら
 ぬ純粋無垢なる植物に。  
  あの芙蓉の花は、とマッドは思う。
  純粋無垢ではない。あれには、サンダウンの焦がれが蕾から零れんばかりに溢れかえっている。
 だから、その焦がれを以てマッドの歌を焼き尽くしてしまった。
  呪いを返されたセイレーンなど、愚かで滑稽なだけだ。そして、現状を打開する術も持っていな
 い。 

 「マッド。」

  サンダウンが、もう一度マッドの名を呼んだ。困ったように、けれども一方でマッドの名前を呼
 ぶ事を喜んでいる。

 「お前の歌を、元に戻す方法はないのか?」
 「ねぇよ。」 

  マッドの歌声は、あの芙蓉の蕾が完全に焦がしてしまった。
  あの花が咲いた時、もしかしたら何かが変わるのかもしれないが、それは全て憶測にすぎなかっ
 た。
  すげないマッドの答えに、サンダウンはますます困ったようだったが、すぐに首を傾げて更に問
 いかける。

 「では、私の呪いが解けたら、お前は必ず死ぬのか。」

  死ぬ、という言葉を吐いた瞬間、少しだけサンダウンの手に力が籠った。それを無視して、マッ
 ドは厳然と頷いた。
  セイレーンの歌は、傍目に見れば命を弄ぶ。故に、返ってくる呪いも凄まじい。解けたなら、術
 者の命は潰される。
  だが、サンダウンは困ったよう、と言うよりも、何かに思い至ったような不思議そうな表情を浮
 かべ始めた。

 「だが、私の呪いが解けた解けないは、どうやって判断するんだ?」
 「あ?」

    高く澄んだ音を立てていた涙が、不意に止まった。
  サンダウンが何を言っているのか、マッドには分からなかったのだ。

    「私の呪いが解けた瞬間を、お前は、それともお前か誰かは分からないが、とにかく呪いの糸を持
  っている輩は、どうやって知るつもりだ?」 
  
  呪いの解ける瞬間。
  サンダウンはそれが分からないと言う。何を以て呪いが解け、そしてマッドが息絶えるのか。そ
 れはどうやって、誰が判断するものなのか。
  マッドはそれを聞いた苦く笑う。 
  呪いの解けた瞬間、サンダウンがどうなるかなど分かり切った事だろう。
  サンダウンの表情は、きっと、一瞬で凍り付く。凍り付かなくとも、今のような表情はしてはい
 ないだろう。それを悟った時、マッドは息絶える。

 「お前が、判断するのか?私が、お前から離れる、と?」

  サンダウンは、その時、何か酷く楽しげに笑った。まるで、マッドの呪いが、杞憂でしかないと
 言わんばかりに。

 「ならば、私がお前から離れなければ?」

  例えば、呪いが解けたとして、でもその事にマッドが気が付かなければ。呪いが解ける前と解け
 た後で、サンダウンが何一つとして変わらなければ。 

 「そんな事、あるもんか。」

  サンダウンの言い分に、マッドは反論した。サンダウンの言葉は、都合の良い解釈に過ぎなかっ
 た。呪いとは途切れた糸だ。一目惚れよりも、もっと理論も、それどころか感情さえない。意味の
 ない植えつけられた感情が、そのまま根ざす事などあるわけがない。
  だが、サンダウンはマッドの頬を撫でて、そのままマッドの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。頑
 是ない子供に言う事を聞かせようと言うかのように。

 「呪いが解けても、きっと何も変わらない。」

  サンダウンはマッドに焦がれ続ける。
  サンダウンが常々言っていた言葉だ。そしてその度にマッドは鼻先で笑い飛ばしてきた。しかし、
 今、サンダウンは妙に自信ありげに繰り返してきた台詞を告げている。

 「変わるわけがない。」

    青い眼が、信じられないくらい穏やかな光を灯してマッドを見つめた。真ん中に映るマッドの眼
 に、サンダウンの顔が映るほどに、透明だ。 
  
 「お前が、あの船縁に下りた時に。」
 
  マッドはサンダウンを呪う為に、歌いながら小舟に舞い降りた。
  
 「お前の影が小舟に浮かんだ時に。」
 
  サンダウンは、その時確かにマッドを見ていた。今と同じように、マッドを見つめた。  
  一目見た瞬間に。
  サンダウンは歌の事など忘れたのだ、と。
  黒い眼を見つめた瞬間に、世界が閉じる。これほどに滑らかで混沌とした黒を見たことがなかっ
 たから。歌は、その後だ。サンダウンがマッドを見た後に、閉じた世界を包んだだけだ。

    「私は、お前のことが、」

  呪いよりも早くかけられた呪いは、果たして解ける事があるのか。
  どちらが上位にあるとか、そういう事は言えるのか。
  その後の出来事が積み重なって、生み出され続けている感情も、丸ごと呪いの所為だと言い切れ
 るのか。
  呪いの前の呪いが、全ての土台であると言うのなら。いや、間違いなく一目見た瞬間の呪いのほ
 うが、全ての根幹であるに違いない。
  ならば、
  
 「私は、お前に、」
 
  サンダウンが、マッドの歌声で掻き消されてしまっていた、常に言い続けてきた、しかし置き去
 りだった言葉を、低く囁いた。 

    焦がれている。