私はお前に口付けた
 


「サンダウン・キッド!その首に掛けられた賞金は5000ドル!

 その賞金をいただくのが、この、マッド・ドッグ様よ!」


 安っぽい酒場の木の扉を押し開いた若い男は、舞台役者のように高らかに、その扉から覗く突き抜けるように白く眩しい
 空を背負っている。

 空と同じくらい眩しいくらいの光を灯している黒い瞳は、直線に掛ける炎の柱のようだ。

 狂いの名を戴く男は、しかし狂いとは程遠い、冷然としてあけすけで、だが問い正せばはぐらかしてしまうような眼差し
 をしている。

 そして、その手に銃一つだけを持って、世界に向けて、サンダウンの首を所望する声を叫び続けている。




 Salome





 
 夜も更けたサクセズ・タウンは、しかしまだ眠る事をしない。

 ならず者『クレイジー・バンチ』に蹂躙されている町は、その日、彼らに一矢報いる事を決めたのだ。

 その為に、町の住民は眠りの縁を漂う事もせずに、町の至る所に罠を張り巡らせている。



 その様子を見ながら、マッドは葉巻を燻らせていた。


「あらかた町の中も見て回ったし、後は罠を仕掛け終わるのを待つだけだな。」


 笑い含みの声は普段と変わらず、今の状況を楽しんでいる節さえある。

 誰かにとっては命懸けな物事でも、この男にとっては人生を楽しむ為の一片でしかないのかもしれない。
 
 人生を謳歌する事に貪欲で、しかし賞金稼ぎという命をぎりぎりまで削る道を選んでいる事は、矛盾しているようにも思
 えるが、マッドを見れているとあまりにも道理に適った生き方のように見えてくる。

 
「さて、と。」


 マッドはくるりと、罠を仕掛けている住民に背を向け、同じく葉巻を――しかしこちらは黙って――燻らしているサンダ
 ウンを見た。


「鐘が八つ鳴り終わったら、奴らがやってくる。奴らを倒した後は、晴れて俺とあんたの関係も終わるってわけだ。

 ま、それまで束の間の時間を楽しめよ。」


 薄く、こうして共にあるのは一瞬だと言い放ち、マッドはいつもと同じく、サンダウンの首を所望する。

 その眼には、屈託といったものは何一つ見えない。

 世間話でもするような穏やかささえ見え隠れしている。

 不意にサンダウンから眼を逸らし、曝された横顔は月白に映え、頭上高くに千億の星を従えている。




 世界の破片をサンダウンに突き付けるほどに世界を背負っているくせに、何故その世界に対してサンダウンの首を所望す
 るのか。

 そんな事せずとも、その指一つで世界を動かせるだろうに。




 サンダウンがちらりと思った事は、決して戯言ではない。

 事実、マッドが賞金稼ぎ仲間に声をかければ、サンダウンを捕える包囲網くらいは簡単に作れるだろう。

 サンダウンが幾度それを破っても、幾度も編み上げる事が出来るはずだ。

 いつの日か、サンダウンが疲労困憊し、引っ掛かるほどに。

 にも関わらず、マッドは一人、ただただサンダウンの首を所望し続けている。



「…………そんなに、私の首が欲しいか?」



 心の中で吐いたと思った台詞は、何故か声に出していたらしい。

 はぁ?とマッドが怪訝な声を出し、同じくらい怪訝な表情を作っている。

 そして、みるみるうちに眉間に皺を寄せると、口元に浮かべていた笑みを消して苦く言い放った。


「あんたの首なんか欲しくねぇよ。」

 
 誰が髭面のおっさんの首なんか。

 口を尖らせて言うマッドは、なんだか心底嫌そうだ。

 それを見たサンダウンは、ほんの少し――本当に微々たるものだが――傷ついたような気がした。


「俺が欲しいのはあんたの首に掛けられた賞金であって、てめぇの首なんか欲しくねぇ。ってか貰ってどうするよ、そんな
 もん。ぜってぇ、いらねぇ。」


 邪魔になるだけだとまで言って、マッドは最後に独り言のように呟いた。



「大体、首を貰って喜ぶ奴がどこにいるよ。………俺はサロメじゃねぇぞ。」



 いきなり転がってきた謎の言葉に、今度はサンダウンが怪訝な表情を作った。

 ふいと顔を背けたマッドは、もうサンダウンに答えようとはしない。

 サンダウンも問い掛ける気などないが。

 問い掛けるよりも、マッドの黒髪と、それを彩る星光と月白に言葉を奪われる。

 煙たいだけの葉巻の白煙も、世界を構成する一部に成り上がる。

 月の光が滑り落ちた背中が綺麗な呼吸を描くのを眺めているうちに、ちりちりと葉巻が短くなり、その頃になってようや
 くサンダウンは言葉の意味を思い出した。

 
 
 サロメ。

 聖者の首を、王に所望した、王女。

 踊りの代償に、聖者の首を要求した少女。

 聖書の一遍で、最も有名な狂気。



 それとは違う、とマッドは否定したのだ。

 あんな狂いではないと、狂気の名で呼ばれる男は言った。

 確かにその通りかもしれない。

 その気になれば世界を焼きつくせそうな熱を瞳に込め、しかしその世界を背に背負う姿は、狂気とは紙一重のように見え
 ても大きな隔たりがある。

 清も濁も燃やし尽くせる彼には、正義の名も英雄の名も勇者の名も、悪の名も魔王の名も冥王の名も似合わないが、何よ
 り狂気が最も似合わない。


 けれど。

 
 サンダウンは新しい葉巻に火をつけ、マッドの背を見やる。


 それでも、お前は、私の首を望むのだろう?





 八つの鐘の音が鳴り響き、無法を体現したかのような馬蹄が激しく地面を揺らす。

 その中で時折上がる叫び声は、罠にかかるならず者のものか。

 吹き抜ける銃弾の中で、マッドの身体が踊る、踊る。

 手の中では鮮やかに銃が回転し、脚は軽快に跳ねる。

 口元に薄っすらと笑みを刷いて、ディオの前で、踊ってみせる。

 その背に、世界の熱が形作った、大鎌を携えて。



 

 喧騒が消え失せて、銃弾の跡が深く地面を穿つ中で、住民達の歓喜の声が弾けた。

 人としての身体を保つ事の出来なくなったディオは、黒い馬へと転じ、荒野へと走り去る。

 全滅させられた第七騎兵隊――カスター大尉の憎しみを焼き尽くされて、もはや何も背負うものもないのだろう。

 すっきりとした足取りで去っていった。

 安堵と歓喜。

 住民達が抱き合い、少年と娘――ビリーとアニーが自分達に駆け寄る。
 
 やった、よかった、と。

 しかし久しぶりの喜びを入り乱すその中で、そこに混じらずに立っていた男は誰よりも冷然とした声を吐き捨てた。

 
「喜ぶのは、まだ、早ぇぜ。」


 彼らに背を向けて、マッドはクレイジー・バンチよりも遥かに身体の芯を凍てつかせる声を出す。

 大きな声ではなかったにも関わらず、ぴしゃりと氷水を浴びせかけられたように、喜びに沸いていた人々の声が萎んだ。

 先程まで、ゆったりとあちこちで爆ぜていたマッドの熱が、ただ一点に集束する瞬間。

 気の強いアニーでさえ後退る。

 この世界をそのまま体現したような気配を受け止められるのは、きっとサンダウンだけだろう。

 そのサンダウンの首を、荒野の真ん中の小さな町で艶っぽく踊ってみせたマッドは、再び所望する。

 まるで、まだ、踊りの続きでも踊っているような立ち振る舞いで。


「ディオを殺る為に一時的に手を組んだ………そうだろ?」   

 
 しかし、その眼は狂気と言ってしまうには、あまりにも冷徹だ。

 冷徹に、しかし赤裸々に、サンダウンの首を要求している。



 そんな要求せずとも、望めば誰もがこぞってお前の為に動くだろうに。

 なのに、何故、ただ一人で現れて、背負う世界にだけ望みを告げて、叫ぶのか。

 いつだって、そうだった。

 賞金首を撃ち取るのに決闘なんて手段を取る必要もないのに、この男は背負った世界にすら手出しをさせず、サンダウン
 を迎えるのだ。

 

 いっそ、此処でその銃弾に撃ち抜かれてやろうか。



 一瞬、脳裏を掠めた思いつきは、しかしそれは酷く愉快な事のように思えた。

 望むものが手に入った瞬間、この男はどんな顔をするのか。

 いらないと口にしていたが、この首が実際にその手の中に入れば、どうするのか。
 
 この首を拾い上げて、その腕に囲ってくれるだろうか。

 持ち上げて天に掲げて、いつものように笑むだろうか。

 それとも―――――。

 だが、願いを叶えてやっても、その時を見られないのが残念だ、と。

 

 ふっとマッドの眼に灯る熱がいっそう激しく噴き上げた。

 視線が貫くのは、サンダウンの浅はかな思いつきだ。

 掠め去ったその尾びれを見送る暇すら与えず焼き尽くしたマッドに、サンダウンは内心で苦笑した。
 

 そして悟る。


 狂っているのは自分のほうだ、と。


 この男の肌でしか、声でしか、髪でしか、世界の持つ熱を感じる事が出来ない。

 この男に背負われている世界の熱でしか、世界と繋がる事が出来ない。
 
 この男なしでは、世界との差を埋める事が出来ない。

    
 マッドもそれに、本能で薄々感づいている。

 あけすけな瞳の裏で、それを黙殺して、受け止めている。

 サンダウンの狂気を、時に焼き尽くしながら。



 ならば、この男を自分だけのものにしてやろうか。

 

 思い浮かぶのはやはり狂気だ。

 夜明けの薄明かりの中で残る月の前で、羽ばたいている。

 腕を縛り上げて、肌を引き裂いて、首を切り落して。

 それこそ、聖書の預言者のように。


 じりじりと浮かび続ける狂気を、マッドは黙って見つめている。

 その視線に、はっと現実に立ち戻る。

 崩れる緊張の一線。

 ふわりと緩んだのは、マッドの瞳に籠っていた究極的なまでに肥大した熱だ。

 サンダウン一点に集中していた熱が、あっと言う間に拡散する。

 口にはいつものように皮肉な笑み。



「へへ………また、逢おうぜ。」



 柔らかく向けられた背からは、幾つかの世界の欠片が降り落ちている。

 サンダウンの狂気を吸い取って、代わりに落としていく。

 サンダウンと、世界の間に広がる溝を、埋める為に。





 預言者よりも遥かに優しい男は、自分自身に叩きつけた所望の代わりに、焼き尽くした狂気の灰を抱え込んで飛び去った。