滔々と溢れては零れる滴を、アニーはまるで散り行く花弁のようだと思った。
 
  睫毛に積もってはその重みに耐え切れずに零れ、形の良い白い頬を滑り落ちるのを見て、いいや
 
 と思い直す。

 
 
  むしろ、男の肌の方が花のよう。

  その上を、夜露のような透き通った滴が滑り落ちていく。



  人気の少ない酒場で声一つ立てずに涙を零す男は、どうやっても治まらない滴を前に、自分の状
  
 態に諦めたのか濡れた黒い眼を閉じた。

  その静かな様子とは対照的に、おろおろとうろたえるのは、その原因を作ってしまったビリーと
  
 自分の兄である酒場のマスターだ。





 
  終咲












  切欠は、パチンコに使う弾だった。

  クレイジー・バンチの罠の一つとしてパチンコを使うと言い張ったビリーは、けれども普通の弾
  
 では役不足だという事も同時に主張した。

  そこで、対クレイジー・バンチ用の弾として特別な弾を、ちょうど罠を仕掛け終えたばかりで手
  
 が空いていたマスターと一緒に作ったのだ。

  旅芸人の一人であるデロスが持っていたタバスコと収穫されたばかりの玉ねぎの絞り汁を混ぜ合
  
 わせた液体を小麦粉で閉じ込めた、極悪非道この上ない代物は、確かに大の大人でもぶつけられれ
 
 ばただでは済まないだろう。

 

  しかし唯一の誤算は、皆が罠を仕掛けに行って人が少なくなった酒場で、その凶悪な弾を試し打
  
 ちと称してパチンコで飛ばしていた時に起こった。

  たまたま、罠に使う物を探し終えたばかりのマッドが、酒場の扉を開けて帰ってきたのだ。そし
  
 て背の高い彼の顔面は、ちょうどパチンコの弾の弾道に位置していた。

  結果、まさかそんな凶悪な代物が酒場から発射されるとは露ほども思っていなかった彼は、咄嗟
  
 に躱す事も出来ず、見事に顔でそれを受け止めた。


 
  顔や髪に飛び散った小麦粉は、慌てたマスターとビリー、そしてアニーによって直ぐに取り払わ
  
 れた。けれど、眼の中に入った液体までは拭いきれない。

  夜空のように澄み切った黒い眼は、その清澄の中に入り込んだ異物を流し去る為に、はらはらと
  
 滴を生み出しては零し始める。

  自分に起きた悲劇に、マッドが唖然としていたのは一瞬の事だった。

  何が起きたのかを理解した彼は怒鳴る事もせず、ただ仕方なさそうに溜め息を吐いただけだった。

 まるで、子供の悪戯を呆れと共に流してしまうように。



  もしも、これがもっと大勢の人の前だったなら、もっと別の反応もしたのかもしれない。けれど
  
 も幸いにしてか、此処にいるのは事の発端を知るマスターとビリーとアニーだけだ。だから、こう
 
 して落ち着いているのかもしれない。むしろ、原因であるマスターとビリーのほうがうろたえて、
 
 意味もなくうろうろしている。

 

  一向に止まらない涙に、マッドは静かに瞼を下ろした。もしかしたら眼が沁みるのかもしれない。

 その瞬間、また、膨れ上がった滴が黒い睫毛からほろりと零れる。

  その様子は、アニーが知るどの男の泣き方とも違っていた。

  アニーが見た事がある男の涙は、酔った時に泣くような無様なものだった。大声を上げて喚き、
  
 机を叩き、理不尽さを嘆く。クレイジー・バンチに蹂躙されるこの町では、そんな泣き方をする男
 
 が少なくない。



  もちろん、今のマッドの涙には感情はなく、ひたすらに生理的なものだ。悲嘆も、憤怒もない。

 しかしそれにしたって取り乱しもせずに、声もなく泣く姿は透き通るような秀麗さを感じる。

  まるで、夏の終わりに一斉に散っていく花のようだ。

  涙の所為で赤味を帯びた目尻が白い頬と対照的で、やけに艶めいて映えている。



  だが、力を抜いていたマッドの肩が、急にびくりと強張った。

  その直後、乾いた風と共に酒場の扉が開いて、マッドよりも背の高い影がすっと床を伸びてくる。

  それが誰なのか分かった瞬間、アニーはそれがマッドにとっては今一番逢いたくない人間である
  
 事にも気付いた。



  女子供には鷹揚でそれ以外の人間に対しては冷然としているマッドは、大抵の事はあっさりと受
  
 け入れて受け流す。今の自分の状態を、呆れを滲ませつつ甘んじて受け入れいているのも、彼本来
 
 の気質の所為だ。

  しかしその気質は、ある一人の人間に対しては、全くと言っていいほど発揮しない。その人間の
  
 前では、マッドは何処までも我儘で強がりで、弱みを見せる事を良としない。

  だから、今のこの状態――花が散り行くように涙を流す様など見せたくもないだろう。

 

  だが、マッドよりも少し遅れて罠探しを終えたサンダウンは、酒場に戻って直ぐにマッドの様子
  
 に気づいた。

  サンダウンは、決して誰かの事をからかうような人間ではない。仮に内心でそう思っていたとし
  
 ても、寡黙な彼は、表情には決して出さないだけの分別も配慮も持っている。

  しかし、マッドの様子に気付いた時のサンダウンは、明らかな表情を浮かべた。

  尤も、それはからかいや馬鹿にするような表情ではない。

  彼の顔に浮かんでいたのは、はっきりと狼狽だった。



  常日頃強気で笑みを湛えている賞金稼ぎの、思いもよらぬ姿に、サンダウンはうろたえ、そして
  
 直ぐに真剣な色を瞳に浮かべると、状況を理解するべく酒場の中を見回す。

  そこにいるのがマスターとビリー、そしてアニーという、マッドに涙を流させる者がいない事に

 気付くと、真剣な眼差しそのままでマッドに歩み寄った。



 「マッド。」



  サンダウンの声は、実を言えばあまり聞いた事がない。それに聞こえる声は、いつだって短く、
  
 必要以上はなかった。

  今回も、素っ気ないほどに短くマッドを呼んだ。

  しかし声に籠るのは素っ気なさからは程遠い。

  その場にいるマスターもビリーもアニーも存在しないかのように、ただマッドの為だけに、まる
  
 でその一言で全ての想いが伝わるような気配があった。

  それを、アニーよりも遥かに付き合いの長いマッドが気付かぬわけがない。

  逃げる事も出来ないマッドは、宝石を生み出す鳥として皇帝に捧げられたかのような諦観の念を
  
 浮かべて、閉じていた瞳を開いた。

  

 「クレイジー・バンチにぶつける為のタバスコと玉ねぎを、間違ってぶつけられただけだ。」 

 

  ともすれば拗ねたように聞こえるマッドの言葉に、サンダウンの表情に刻まれていた、いっそ危
  
 機迫るような真剣さが、波紋が消えていくように薄れていく。

  代わりに浮かんだものは、やはりマッド以外の人間を無視した繊細な仕草だった。

  鮮やかに銃を扱う男らしい指先が、未だ落涙を続ける眦に添えられ、そっと赤いそこをなぞる。

 途端に零れて、サンダウンの指を伝っていく涙。そして、今にもそのまま顔を近付けるのではない
 
 かと思うように、サンダウンはカウンター席に座っているマッドに眼線を合わせた。

 

 「………痛むのか?」

 「少し沁みるだけだ。もうすぐ止まる。」



  マッドの声は酷く不本意そうだが、しかし子供が駄々を捏ねるような甘えがある。それは、アニ
  
 ー達だけがいた時には感じられなかった響きだ。

  止めどなく流れる賞金稼ぎの涙は、流れ星のように稀有で、けれどもあっと言う間に一人の賞金
  
 首の為だけの物になってしまった。今から彼の言うとおり止むまでの間、星の散るような光は全て
 
 サンダウンの手に受け止められてしまい、他の誰にも与えられないだろう。

  
 
  その事実に気付いたマスターとアニーは、何も分からないビリーの頭上で顔を見合わせた。
  
  

  皆が帰ってくるまでにマッドの涙が止まり、彼ら二人だけの世界が終っているようにと祈りなが
  
 ら。