抱き上げたマッドは、いつになく大人しかった。
  普段なら、子供扱いするなだとか、きゃんきゃんと吠えるのに、今日はサンダウンに抱き上げら
 れても何も言わない。それどころか、きゅっとしがみ付いてきたりする。
  いつにないマッドの行動に、サンダウンは何かあったのか、と訝しんだ。
  その怪訝は、すぐさまサンダウンの不安を映しだす。マッドがサンダウンと共にいる事で、誰か
 に苛められているんじゃないかという不安、或いは、マッドが自分の居場所に悩んでいるのではな
 いかという不安。
  それらをマッドに問いただせば、いつもはすぐに、きゃんきゃんと吠えて否定するのに、今日は
 マッドは何も言わずにサンダウンに抱きついている。
  そういえば、マッドをこうして抱き上げるのは、久しぶりの事だった。
  マッドがもっと小さい頃――よちよち歩きしかできないくらい小さい頃は、良く抱き上げたり負
 ぶったりしていたし、マッド自身がそれをせがむ事多かった。けれど、マッドが一人前ぶってお喋
 りするようになってからは、マッド自身が嫌がる事もあって、ほとんどその機会はなかったのだが。
  久しぶりに抱き上げたマッドの身体は、以前よりも少し、重くなっているような気がする。それ
 は、マッドが順調に成長している証だ。けれど、それでもまだまだ軽い。
  細い身体はサンダウンが力を込めれば潰れてしまいそうで、その細い腕でサンダウンにしがみ付
 くものだから、サンダウンはマッドに何かあったのではないかと邪推してしまう。

 「どうした………?」

  恐る恐る、と言ってもいいほど慎重に問い掛ければ、マッドの垂れている尻尾が二、三回ぱたぱ
 たと動いて、サンダウンの腕を叩いた。

 「うるせぇぞ。てめぇになんか、しんぱいされるほど、おれはよわくねぇんだぞ。」

  ぎゅうっとしがみ付いている所為で、マッドの顔は見えない。だが、強がる口調がいつもよりも
 少し硬い。
  見たところ、マッドには怪我はない。マッドが手にしている白い袋にも木の実が一杯に詰まって
 いて、特に問題はなさそうだ。では、誰かに何か、酷い事を言われたのだろうか。それはとても今
 更のような気がするが、しかし心ない言葉を吐くのは誰にでも出来る事で、それらの中の何かがマ
 ッドの琴線に触れたとしても、普通に考えればおかしい事ではない。
  やはり自分の事を何か言われたのだろうか、と落ち込んでいると、それに気付いたのか、マッド
 がまた尻尾で腕を叩いた。

 「いっとくけどな、べつにあんたのことをなにかいわれたわけじゃねぇんだからな!うぬぼれるん
  じゃねぇぞ!あんたがおれをだっこしたそうなかおをしてたから、だっこされてやってるんだけ
  なんだからな!」

  だからあんたは、おとなしくおれをはこんだらいいんだ。
  小さい子犬のきっぱりとした口調に、サンダウンはそれ以上深く聞く事はできない。仕方なくマ
 ッドを抱え直し、自分が塒としている巨木の洞へと向かう。
  ざくざくと落ち葉を踏み鳴らして歩いていると、マッドが顔を上げる気配があった。黒い頭から
 黒い三角の耳だけが見えていたのが、その下にある黒い眼がぱっちりと開いてサンダウンのカボチ
 ャ頭を見上げている。
  しかし完全に顔を上げたわけではないので、サンダウンはそれに気付かないふりをして歩を進め
 る。どうせ、今何を言っても、マッドは答えくれない事は分かっているからだ。それならば、マッ
 ドが言いたくなるまで待つしかないのだ。
  物言いたげに上目遣いでサンダウンを見るマッドは、結局サンダウンが落ち葉を踏み潰している
 間は何も言わなかった。
  自分達が塒としている巨木の洞に戻り、サンダウンがマッドをマッドの特等席に降ろすと、マッ
 ドはじっとサンダウンを見上げてくる。膝の上に木の実の詰まった袋を置いて、マッドはサンダウ
 ンを見つめる。
  見つめられながら、サンダウンはマッドの膝の上にある白い袋を持ち上げる。マッドが一生懸命
 拾い集めた木の実は、一箇所に纏めて置いてある。それらは全てこの冬のマッドの食料になるのだ。
  しかし、マッドはそれをサンダウンから奪い返すと、再びサンダウンに押し付ける。

 「てめぇはぜんぜんあつめてねぇみたいだからな。やさしいおれさまがわけてやる。かんしゃしろ
  よ。」

  その台詞にサンダウンは戸惑った。
  サンダウンはお化けカボチャ、彷徨える行き場のない魂だ。この身体は謂わば仮初のもので、食
 事は必要としない。そんな事は、例えサンダウンが何者であるのかマッドが知らないとしても、毎
 年毎日サンダウンが食事をとっていない事を見ているマッドが、知らないとは思えなかった。
  が、マッドは途方に暮れたサンダウンに、頑として言い張る。

    「てめぇはおれがいないと、しょくりょうもあつめられないやつなんだからな。だから、おれがか
  わりにあつめてやったんだ。ありがたくうけとれよ。」
 「……マッド。」

  これは私には必要ない。
  そう言って、マッドの膝の上に戻そうとした。そこで、はっと気が付いた。マッドの黒い眼が、
 何か切羽詰まったように潤んでいる。まるで、ごつごつとした木の実を、良く噛み砕きもせずに呑
 み込んでしまったような表情だ。
 
 「うるせぇぞ!てめぇはおれがいないと、なにもできねぇんだから、おれがあんたにやるものは、
  おとなしくうけとったらいいんだ!どうせ、あとでおれにかえしたことをこうかいして、どこか
  のだれかが、めしをよういしたっていったら、それがわなだときづかねぇでいっちまうんだから。
  だからおとなしく、おれさまのこういをうけとりやがれ。」

     そう言ってぎゅうぎゅうと木の実の詰まった袋を押しつけるマッドは、そのまま自分の身体も一
 緒にサンダウンに押し付ける。

 「あんたは、だまっておれのそばにいたらいいんだ。」

  むぎゅむぎゅぐりぐりと身体を押し付けてくるマッドを受け止めながら、サンダウンはこの子供
 は気付いているのだろうかと思った。
  サンダウンが、いつか、マッドを置いていく事に。
  マッドを獣人の生活に帰す事は、サンダウンにとっては重要事項だ。少なくともサンダウンはそ
 う思っている。ずるずると陰ばかり引き摺って、未来永劫彷徨い続ける愚かな炎と一緒にいるより
 も、本来あるべき場所にいるほうが、ずっと幸せである事は誰の眼に見ても明らかだ。
  しかし、ぎゅうっとしがみ付く子犬は、そうではないと言い張る。

 「あんたにつきってやれるのは、おれくらいしかいねぇんだからな!どっかのばかがあんたをひろ
  っても、どうせすぐにすてられちまうんだからな!そこんとこ、よくおぼえとけよ!」

  けれど、それではサンダウンは困るのだ。
  マッドの言う通り、これまでサンダウンと一緒にいようとする者など、何処にもいなかった。例
 えいたとしても、きっと何か算段があっての事だろう。マッドのように、身体ごとぶつけてくる者
 など、何処にもいなかった。
  マッドの言う通り、サンダウンに付き合えるのは、マッドしかいない。
  けれど、それではいけない。
  マッドは生ある獣人で、季節の移ろいと共に生きる者だ。一方でサンダウンは、浅はかな炎を灯
 して彷徨い続けるお化けカボチャだ。お化けカボチャは何も望んではいけないし、何かを得てもい
 けない。
  お化けカボチャが手に入れる事が出来るのは、カボチャの中を灯す愚かな炎だけだ。
  間違っても、小さな子犬を手に入れてはいけないし、望んでもいけない。
  しかし同時に、サンダウンにはマッドを突き飛ばす事はできない。腕の中にいる幼いマッドを、
 今すぐに突き放してしまう事はできない。そんな事をしたら、まだまだ子供であるマッドは、死ん
 でしまう。マッドにはまだ、庇護が必要だ。
  いや、そうではない。
  それらは、結局はサンダウンの言い訳だ。
  サンダウンは、まだ、マッドを手放す勇気を持っていない。一度手に入れたものを手放すのは、
 腕を切り落とすのと同じくらい苦痛だ。それが些細なものであっても、誰しも微かに惜しいと感じ
 る。それが、ようやく手に入れる事の叶った、或いは手に入るはずがないと諦めていたものならば、
 尚更。
  不毛の炎の中に灯った、唯一の光を手放す事など、出来るはずがなかった。