10: お前がいてくれてよかった、本当によかった











 朝靄のたゆたう時間、サンダウンは身を休める程度の浅い眠りの岸辺から這い上がった。

 白く下りた細やかな水滴が、乾いた埃っぽい世界を一時柔らかな青で包みこんでいる。

 吸い込んだ空気は冷え込んでおり、葉巻を摂取した肺には少し甘い。

 見上げた西の空はまだ幾つか星が残っている。

 東の空は白んでいるが、まだ眠りが地平を覆っている。

 目まぐるしく変化していく空の顔は、けれどまだ夜明けを見せる気はないようだ。


 
 大人しく足元に生えている草を食べている愛馬に視線を向けながら、サンダウンは珍しいと心中で零した。

 この夜明けの直前の時間、サンダウンの周りに一人の賞金稼ぎもいない。

 普段なら身体を休める事が出来れば賞金稼ぎ達の追随を振り切る為にすぐに身を起して出発するのだが、

 自分を狙う気配が一つとしてない今は、もう少し怠惰にしていてもいいかもしれない。

 しかし開いた眼を再び閉じる気にはなれず、サンダウンは刻々と変化してく空を見上げる。



 一つ一つと姿を消してく星は、まるで、人間の命のようだ。

 どれだけ燦然と輝いていても、夜が消えれば一緒に消え、夜が訪れると再び現れる。

 まざまざと時の流れを見せつける空の表情に、ずっと止まったままだった世界の事を思い出す。

 人一人おらず夜も昼もない色褪せた世界と、そこに住まう人を止めた魔王の事を。

 人である為の様々な証を忘れてしまった魔王の姿に、サンダウンは自分の姿を見たような気がしていた。

 人のいない世界に棲む魔王と、人の世界に背を向ける自分と、きっと忘れていくものは同じだろう。

 ただ、サンダウンの世界には時の流れが確実に存在していて、世界がサンダウンに忘却を許さない。
  


 その、世界を従える背が。


 
 ふっと思う。

 何故、魔王は自分を呼んだのだろう、と。

 自分の中に、魔王と重なる部分があったからだろうか。

 それとも、後々、魔王となる可能性があったからだろうか。

 魔王は『憎しみ』を倒したからだと言った。

 人の世界で永遠に争いの火種となる『憎しみ』を潰し、英雄となったからだ、と。

 けれどそれなら、自分でなくても良かったはずだ。

 いや、むしろ自分よりも―――



 世界を従えている、彼のほうが。


 マッドを呼んだほうが、魔王の悲しい世界にとっては良かったのではないか?



 人の世に背を向けるしかないサンダウンではなく、そのサンダウンにさえ世界の熱を突き付けるマッドのほうが。

 熱や色や影や、そういう人の中にある当然の流れを忘れる暇さえサンダウンに与えず、むしろ逆にそれらを与えに

 やってくるマッドのほうが、魔王の言う『英雄』には相応しいのではないだろうか。

 サンダウンの中にある絶望によって形作られた魔王は、マッドの手によって眠らされている。

 マッド本人は気付かずに、けれども笑いながら、魔王の牙を受け止めている。

 凶暴すぎる生命を抑え込もうともせず、死神さえも引き従えてサンダウンの首にその鎌を引っ掛けて、

 けれどその全てはサンダウンを裏切る事がない。

 
 
 人を信じる事が出来ず、人が人であるための熱だとか色だとか、そういう波を失った魔王にとっては、

 マッドを呼んだほうが良かったのではないだろうか。

 そのほうが、その魂に救いを流し込めたのではないだろうか。

 

 それとも―――。



 東の空に鋭い光が走った。

 青みを帯びていた世界が一瞬で様々な色に変化する。

 薄い霧が晴れていく。

 空に残っていた星達が逃げるように消え去っていく。

 何よりも強い光を放つ星が、夜の帳を一気にはぎ取った。

 それと同時にサンダウンは身を起こす。

 狂ったような馬蹄の音が、夜明けを飛び越える勢いで近づいてくる。

 太陽を背にしているそれは、猛々しい熱を乗せている。

 気配を隠す事など微塵も考えていないのだろう。

 いっそ無防備とさえ言える気配は、昇る太陽と同じ速度でサンダウンに辿りついた。

 

 夜明けの光を浴びて、有り得ないくらい黒い影を引いている馬が土煙を上げて止まるや否や、ひらりと細身の身体が

 地面に降りる。

 ずかずかと足早に近づく足音は、サンダウンが許しているのを良い事にサンダウンのすぐ脇までやってきた。

 そして、いきなりサンダウンが目深に被っていた帽子を、無遠慮に、実に無遠慮に引き上げる。

 何事だと見上げると、酷く複雑な――喜んでいるような怒っているような怯えているような――光を灯した

 黒い瞳とぶつかった。

 形の良い唇からは、浅く息が吐かれている。

 今にも震えそうなそこから、死んでなかったか、というあんまりな台詞が飛び出した。

 何だそれはとサンダウンが眉根を寄せると、先程までの複雑な光を消した眼でサンダウンを睨みつけ、

 いつもの口調で吐き捨てる。


「随分しばらくぶりじゃねぇか。遂にどっかで野垂れ死んだのかと思ったぜ。」


太陽を背にしたマッドの身体と、サンダウンの間に、太陽の白い粒子が帯のように割って入る。

 それと同時にマッドの表情が逆光で隠された。

 サンダウンはマッドの言葉に、そういえば、と思う。  

 あの世界から戻ってきてから、こうしてマッドと直に顔を合わせるのは初めてかもしれない。

 気配は所々で感じていたのだが、マッドのほうに邪魔が入ったのかいつも会えずじまいだった。

 サンダウンとしては気配を感じるだけで良かったので、特に何も思わなかったのだが、どうやら、。
 


 消え失せてしまった眼の光を見る限りでは。 
 


 マッドのほうではそうではなかったらしい。



「それとも何か?俺から逃げられるとでも思ってんのか?」

 
 ぐりぐりと銃口をサンダウンの額に突き付ける様は、拗ねているようにも見える。

 ただ、光の粒子に囲まれて守られているように見える姿に、サンダウンは隔絶されたあの世界を思い出して軽い寒気
 を感じた。

 割り込む光の帯を引き千切るように、サンダウンは突き付けられた銃口を力づくで引き下ろし、代わりにマッドの腰
 を引き寄せる。

 ぎゃっ、と上がったマッドの悲鳴は無視してその胸に顔を埋めると、ふぎぎぎぎという変な声を出してマッドはサン
 ダウンの顔を自分から引き剥がそうとする。


「てめぇ!何しやがるんだ!何考えてやがるんだ!何のつもりだ!」

  
 じたばたと暴れる身体ごと地面に転がると、うぎゃっと再び悲鳴が上がった。

 組み敷いた身体は太陽光から引き剥がされ、ようやくその全貌をサンダウンの下に曝した。


「いい加減にしねぇか!おい!ってか変なもんでも食ったか!しっかりしろ!」


 徐々に変な方向に思考回路を回転させ始めたマッドに、サンダウンはそっと囁く。


「寒いんだ…………。」

「は…………?」


 嘘は言っていない。

 思い出したあの世界の寒気は、再びじわじわと骨の中に沁み込もうとしている。
  
 夜明けの光がマッドと自分の間に割り込んだ瞬間、まるでお前はあちら側の人間だと嗤われたような気がした。

 何より凶暴な命を腕に閉じ込め、その胸元に顔を押し当て鼓動を聴く。

 近づく破綻の足音を、鋭い鼓動で塗り潰す。


「キッド…………?」


 狼狽した声は、しかしサンダウンの様子がおかしいと気付いたのか、抵抗を止める。

 
「寒いって………そんなぼろい服着てるからじゃねぇのかよ。」
 

 何気にさらっと酷い事を言いつつ、マッドはそれでもサンダウンを引き剥がそうとはしない。

 人の良い性格に付け込み、サンダウンは更にその身体を抱き締める。

 熱やら鼓動やら匂いやら、それはあの世界には乏しいもので。

 マッドの持つ鮮やかなそれらに、身を埋める。

 あの世界の記憶が、薙ぎ払われ、焼き尽くされていく。

 悴んだ神経が、繋ぎあわされていく。



 魔王が、マッドを呼ばなかった理由。

 それは、単に呼べなかったのだろう。

 マッドの命は鮮烈過ぎて、マッドがその地に立った瞬間、あの世界は一度に全てを与えられてしまって、そして与え
られたものは許容範囲を超えていて破裂してしまう。

 だから、呼ぶ事ができなかった。

 もし、呼ぶ事ができたなら、あの魔王もきっと――――。




 きっと、この男の気配を自分に向けようとする。

 

   
「っ………もういいだろ。あとは女にでも頼めよ。」

 
 マッドが身じろぎし、サンダウンに放せと言う。

 だが、サンダウンは腕に更に力を込めて、マッドの身体に檻を降ろす。


「…………此処にはお前しかいない。」

「そんなん知るかよ!街にでも行って女に相手してもらえ!」

「マッド………。」


 頼むから。

 懇願に近い声を出すと、マッドが小さく呻いた。

 再び抵抗を失った身体を、サンダウンは一層深く抱き寄せる。

  
 

 誰が。


 誰が、渡すものか。


 魔王であろうと何であろうと、この男の気配は自分に向けられて然るべきものだ。

 だから、どれだけ憐れと思っても、この男はどの世界にも渡さない。

  


  
 お前は、此処に、いろ。



   
 
 

 
 
 
Only the blue moon kept an eye on the two