出会うには早すぎる




 力強い、空気から地面へと這うような音が、灰色の煙と同時に屋根のように広がった。

 ようやく出来上がったばかりの鉄道の上を、武骨な黒い鉄の塊が迫って来る。

 長年に渡り、政府の援助を受けて――時にはその事で政治的問題が複雑に絡み合いながら――数多くの鉄工会社を巻き込み、

 そして原住民だけでなく時には白人達の血と白骨を埋めながらも西へ西へと向かっていた枕木が、ようやく終着点を迎えたのだ。

 大陸横断鉄道が認可されてから、それはゆうに七年、一番最初の鉄道が完成してからは三十九年の月日が経っていた。

 そして今、西へと続く線路を行く人々が夢見るのは、黄金郷カリフォルニアだ。

 今まで馬と自分の足でしか行く事の出来なかったその場所へと、いとも容易く行く事が出来るのだ。

 一攫千金を狙う者達は、金山が掘り尽くされるまでの数十年間、倦まず弛まず西部へと向かい続ける。

 そんな荒くれ者や、或いは旅行気分の金持ち達の間に挟まれるようにして、まだ少年の線の細さの残る影が、とある町の駅に降り立
 った。







 Omnium rerum principia parva sunt.







 ブルネットの髪と髭をだらしなく生やした男が、そのだらしなさを更に強調するような粗野な声音で叫んでいた。


「なんだぁ、保安官?あんたまでその男の味方をしようってのか?」


 丸太のような太い腕を振り回し今にも掴みかからんばかりの男を前にしても、砂色の髪を持った保安官はその表情をぴくりとも変え
 なかった。

 青い眼は荒野の空のように、我関せずと言った色を湛えている。

 その背後には、これまただらしなく服を着崩した青年がにやにやとした笑みを浮かべて、男の怒鳴り声を聞いている。


「そいつはイカサマをしやがったんだ!保安官様は卑怯者を庇おうってのか?!」

「イカサマしたって証拠がないよねぇ。」


 答えたのは青年だ。

 にやにやとした笑みを絶やさず、細い指に煙草を挟み、神経質そうな口元に持っていく。

 賭博師である彼は、時としてこういった騒動を引き起こす。
 
 イカサマをしようがしまいが、賭博師のこういったにやけた態度が、人々の神経を逆撫でして些細な事象を大きくするのだ。

 そして今日の彼の獲物は、この粗野な男だったらしい。

 保安官はこの男の事も知っていた。

 最近、町で見かけるようになった賞金首だ。

 といっても大した犯罪を犯したわけではなく、どこかの民家から金品を盗んだとかそんなだった。

 むしろ、悪行よりもその性癖のほうが知れ渡っている。

 面倒な二人がかち合ったものだ、と内心で溜め息を吐く保安官をよそに、その面倒な二人の諍いは続いている。

 流石にそろそろ苛立ってきたのか、賭博師が甘ったるく言った。


「保安官サン。こんな因縁つけるような賞金首、さっさと捕まえちゃってよ。」


 女であれば身を持ち崩したかのような――しかし実際は北部の農家の出の――青年の声に何らかの反応もしたのだろう。

 しかし保安官は青年の素性を知っている上、残念ながらその手の趣味はなかった。

 猫なで声で囁く青年の声など聞こえていないかのように、保安官はようやく口を開く。


「失せろ。」


 低いが、十分に威圧感のある声。

 その声が向いているのは、賞金首の男だけではなく青年にもだ。

 見逃してやるから失せろ、と平坦な、しかし冷然とした声に二人は背筋に氷柱を差し込まれたように身を固くし、ずりずりと保安官
 の身体から離れていく。

 賞金首は保安官とまともにやりあって勝ち目がない事を知っているし、青年は保安官に自分の手管が通じない事を悟っている。

 すごすごと去っていく二人を見送り、保安官は内心で吐いていた溜め息を現実のものとした。

 カリフォルニアで金山が見つかって十数年。

 その時から西部を訪れる人の数は年々増え、鉄道が出来てからは爆発的に増加したと言っていい。

 それに伴って西部の人口は増え、町も増えた。

 この町を訪れる人の数も、保安官として勤務するようになってから三年ほど経つが、その間に格段に増えた。

 しかし増加したのは人の数だけでなく、それに付随して犯罪も多くなった。

 流れ込むのは決して、牧歌的な人間だけではない。

 むしろ、犯罪者や娼婦、そして先程のような賭博師のほうが多い。

 残念な事に彼らの行く先々では、彼らが望む望まないに関わらず、どうしても騒動が起きてしまうのだ。 

 そのような生き方しか出来ない彼らに憐憫の情が湧かないわけではないが、しかしそれ以上に、彼らに巻き込まれる一般人への感情
 が大きいのは確かだ。

 保安官である以上、それは仕方のない事だ。

 
 
 けたたましい汽笛が、蒸気と共に鋭く噴き上がる。

 人を弛まず連れてくる列車が、再び人を連れてくるために背を向けた。











 賭博師がもう一勝負しようと入り込んだ酒場では、小さな沈黙が落ちていた。

 床に倒れるのは椅子とカード、そして賭博師本人だ。

 倒れた身体には、賭博師の服の裾から零れ落ちたカードが、葬式の時に撒かれる花のように散らばっている。


 簡単に騙せると思ったのだ。

 
 床を這いながら、賭博師は思った。

 
 身形の良い身体は、どう考えても格好のカモだった。

 イカサマなど知らない身体だと、そう感じた。

 賭博など知らなさそうな指と眼は、自分の手腕についてこれるはずがない、そう確信していた。

 勝負を申し込んだ時、すぐさま乗った青年に、内心でほくそ笑んだ。

 徹底的に巻き上げ、泣かせてやろうと。

 先程の賞金首と保安官とのやり取りで、些か気分がむしゃくしゃしていた所為もあったのだろう。

 眼の前の青年を身ぐるみ剥いでやろうと企んだのだ。

 
 その賭博師の指を、端正な手先がそれに似合わない強さで掴んだ瞬間、賭博師の負けは決定していた。

 掴んだと思った瞬間、眼にも止まらぬ素早さで払われた腕。

 その裾から噴き上げたカードは、紛れもなくイカサマの証だ。

 あっと言う間もなく、顔に、その美しすぎる指が作り上げた拳がめり込み、床に引き倒された。


「俺にイカサマしようなんざ、百年早え。」


 勝負が始まる前に着いた決着。

 青年は自分の指を冒涜するように、その手で賭博師の髪を掴んで顔を引き上げる。

 浮かべていたのは悩ましいまでに皮肉っぽい笑み。

 吐き出す雑言は音楽の響き。

 賭博師の、その場しのぎの甘ったるい声音や仕草など足元にも及ばない気配が、何百年も染み込ませた香のように薫り立っている。

 保安官の気配が自分の存在を無視するそれならば、この青年の気配は自分の存在を切り捨てている。

 乱暴に賭博師の髪を離すと、くぐもった呻き声になど露ほどの興味も示さず、青年は身軽に息を殺した酒場から出て行った。








 

 本日二度目の顔に、保安官は表情には出さなかったがうんざりした。



 顔を赤く腫れ上がらせた賭博師は、いつものふてぶてしい態度は何処へやら、妙に悄然としていた。

 何事かと思い、店の者に聞けば、どうやら遂にイカサマを見破られたらしい。

 しかも、勝負に入る前に。


 痛ましい状態の賭博師を、しかしイカサマをしただけに誰も憐れんではくれない。

 他の賭博師達は冷たい眼で遠巻きに見ており、バーテンも介抱はしたがそれ以上の労わりを見せようとはしない。

 これまで彼の甘い口説き文句に酔っていた娼婦達も、醒めた視線を投げかけている――いや、視線さえ寄こさない。

 むしろ、賭博師のイカサマを見破った者への賛美を、うっとりとした顔で囁きあっている。

 

 身形の整った、見知らぬ青年。

 手が大理石のように綺麗で、髪と眼の色は夜空のよう。

 声は青銅の鐘が鳴り響くにも似て、この上なく音楽的。



 何やら金塊を求める鉱山の男以上に夢見がちな台詞が飛び出してきて、保安官は少し頭痛がした。

 お前達は大理石や青銅の鐘がどんなものなのか知っているのか、と危うく聞きかけて、止める。

 聞いたが最後、このサルーンを敵に回す事は眼に見えていた。



 寡黙な保安官は、とりあえず大きな事件にはなっていなさそうだと判断し、悄然とした賭博師と、小さな興奮にざわめく酒場を後に
 残した。



 
 

 





 醜く聞き苦しい音と声が、路地裏に響いた。

 大した犯罪はしていないがその性癖――少年愛とでも言えば良いのか――により名前を知られている賞金首は、悲痛な声を上げた。

 恐らく彼は、肉食獣が獲物になり変わる瞬間を感じているのだろう。

 息一つ乱さず、自分の首根っこを引っ掴んだ、この青年が、今、掛け値なしに恐ろしかった。

 引き絞った腰も、線の細い肩も、造形美を極めた指も、何もかもが被捕食者である事を示しているが、

 その黒瞳に灯った光が、落ちかかるような怒りを持って賞金首を刺し貫いている。

 体躯に似合わず強い力で賞金首の身体を引き摺り、青年は低く嗤った。


「ま、いい。てめぇの首にかかってる賞金を足掛かりにでもするさ。」


 それで許してやる。


 荒く、しかし美しい声で言われ、男は身震いした。

 顔は腫れ、鼻からは血が流れ、恐らく骨も折れているだろう。

 荒波など知らないような身体を、いたぶるつもりが、あっさりと返り討ちにされた挙句、凄まじい報復を受けた。

 路地裏に引きずり込んで、壁に押し付けた瞬間に、腹部には膝がめり込んでいた。

 這い上がる吐き気の隙間に押し入ってきたのは、首筋への強烈な一撃。

 呼吸が止まった瞬間、地面に押し倒すはずだった身体に、逆に地面へと沈めこまれた。
 
 賞金首だという肩書きも、銃を持っているという脅しも、青年には効かなかった。

 逆に、冷ややかに銃を突き付けられ、言葉をなくすしかない。

 何も知らない飼い犬だと思っていたら、その中身はとんでもない狂い犬だったのだ。

 ごぽりと欠けた歯が混じった血泡を吐いて、賞金首は呻く。


「狂って、やがる…………。」


 独り言のようにぼそりと、しかも血が噴き零れて聞き取りにくい声に、青年は薄い笑みを孕んだ声で答えた。
 
 まさか返ってくるとは思わなかった声に、賞金首はぞっとした。


「それも、いいかもしれねぇな。」


 賞金首の首根っこを抵抗できないようにがっちりと掴み、ゆったりとした声で青年は呟いている。



「狂ったまま、どこまで行こうかね………。」












 保安官は、事務所までもう少しというところで不意に立ち止った。

 見知らぬ影が、事務所の前から立ち去ろうとしていたのだ。

 上背はあるが身体の線は細く、まだ幼さが残っている事を示す背中。

 それを包むジャケットは、安月給の多い西部では見られない真新しさを保っている。

 何よりも、突き抜けるように黒いその影が、眼を引いた。

 足早に立ち去っていく背に、咄嗟に思い出したのは、先程のサルーンで聞いた青年の姿形だ。

 彼らが口々に言っていた、眩しいほどの色合いがそっくりそのまま背中に描かれている。

 しかしそれを確かなものにする前に、その強い色は人ごみの中へと消え去っている。

 それでも、強く残っている残像。

 その残像から視線を離し、保安官は事務所の扉を開いた。


 開いた瞬間、助手の声が鼓膜を叩いた。



「あ、大変ですよ!賞金首が捕まったんです!」



 一瞬、嫌な予感がしたが、その予感は助手の言葉によって的中した事が知れる。

 本日二度目が二回目。

 賭博師とやり合った賞金首が、男に引き摺られて連れてこられたらしい。

 鼻血を出し、歯を欠けさせた酷い状態で。

 一体誰が、と問えば、若い男の人でしたという答えが返ってきた。


「身形の良い人でしたよ。本当に一人で賞金首を捕まえたのかって思うくらい。あ、あと、声が綺麗でした。」


 思い出されたのは、行く先々で聞いた、そして先程見た、あの後ろ姿。

 恐ろしいほど、きつい、色。 

 きっと、それは確証に近い。


「賞金で馬でも買いに行こうかって言ってましたけど、一人で大丈夫なんですかね?」

「…………。」

 
 心配そうに首を傾げる助手に、保安官は沈黙で返す。


 見たのは一瞬、それも背中だけだ。

 しかし、きっとあの身体は、この町の騒動を全て足し合わせて呑んでも、足りないだろう。

 この西部すべてを呑みこんでも、足りないかもしれない。

 心配など、無用だ。

 むしろ、心配は、彼のように自由なる事ができない者の嫉妬にすぎない。

 自分も含め、この町にいる者は全て何らかの鎖で繋がれているのだ。

 それ故、何の背負いもなく現れ、立ち去る身体が羨ましい。

 だから、眼を惹かれる。

 










 保安官助手から賞金を受け取っている間、青年は保安官事務所の中を珍しげに見ていた。

 最もそれ以上に、助手のほうが珍しげに青年を眺めていたのだが、それを青年は貴族特有の無関心さでやり過ごす。

 青年の知っている保安官事務所は、もっとごてごてと飾り立ててあったのだが、この事務所は違うらしい。

 木目が剥き出しの床も壁も、武骨なくらいシンプルだ。

 それが悪いとは思わない。

 むしろ、青年としてはこちらのほうが好ましいくらいだ。

 
「この町の保安官は、銃の名手なんですよ。」


 事務所内を見回している青年に何を思ったのか、助手が何故か得意そうに言った。


「早撃ちでは誰も負けないし、的を外す事だってないんです。」

「へぇ………。」


 興味なさそうに返事して、青年は用意された賞金を手にする。

 無造作に懐に突っ込み、無自覚に滑らかに助手に背を向けた。

 その背に、好奇心で満たされた助手が問い掛ける。


「これからどちらに?」

「さて………、とりあえず脚になる馬でも買いに行くかね。」


 返事は素っ気なく、それでも音楽的な響きを携えている。

 その声に未練があるのか、助手はなおも声を掛けた。


「名前を聞いても良いですか?」


 不意に立ち止った脚。

 青年は、小さく笑う。


 ――――狂ってやがる。


 たった今、牢屋にぶち込まれた男が言った台詞。

 そう、全てを見捨てるほどに自分は狂っている。

 ならば、この名は、それでいい。



 低い声だけ残して、事務所を後にする。

 玄関を出たところで、周囲の好奇の眼差しよりも強い視線を感じた。

 肩越しにちらりと振り返ったが、人が多くてよく分からない。

 気の所為ではない。

 だが、分からない以上、此処に留まっても仕方ない。
  
 青年は保安官事務所を背に、雑踏に紛れ込んだ。








 数年後。

 保安官は己の銃の腕が血を呼び込むと言って自らの首に賞金を掛けて賞金首に堕ち、狂気の名を冠した青年は西部随一の賞金稼ぎの
 座にのし上がる。




 二人の邂逅は、まだ、先。


 

 









全ての物事の始まりはちっぽけだ