その夜、砂で支配された荒野はいつもの乾いた顔を隠し、空が割れたかのような大雨に見舞われて
 
 いた。激しく走り去る幾筋もの稲妻は確かに亀裂のようであり、唸り続ける風の音は天蓋を引き裂
 
 く細く高い音を延々と奏で続けている。
 
 

 西部では雨は珍しい。しかし、珍しい雨がこうした豪雨になる事は珍しい事ではない。

 ただ、突発的な雨がこれほどまで長く振り続けるのは、それこそ滅多にない事だった。

 痛いくらいに振り続ける雨粒には獰猛な獣達も身を潜める。それと同じように、荒ぶるならず者達
 
 も大人しく女達の胸に抱かれているようだ。

 


 09. nine days' wonder









 驟雨に振り込められた酒場には、いつも暴れ回る荒くれ者どもは何処にもいない。ひっそりと静ま
 
 り返って灯りをぎりぎりまで落とした木の部屋には、仄かなアルコールの匂いがするばかりだ。そ
 
 れがいっそう外の湿気を吸い込んで、本来ならばもっと温かなはずのサルーンを冷えたものにして
 
 いる。
 
 

 もしも感じる者がいたならば、それが嘆きの温度である事に気付いただろう。異様に振り続ける雨
 
 音も、ひっそりと静まり返った街も、意気消沈した匂いを放っている。

 そしてその中央に、黒く潰れた人影が突っ伏している。



 酒場のカウンターに寄り掛かり、近寄っただけで分かるほどに酒の匂いで身を飾り立てた男には、

 常日頃の爆ぜるような気配は何処にもない。

 満ち満ちている魂が欠けた姿は、美しい切子細工の硝子が砕けた様よりも痛々しい。それ故に、そ
 
 れはそれだけで嘆きとなるのだ。
 
 こうして、暗雲を一身に集めるほどに。

 
 
 その様子は、サンダウンを見てもぴくりとも変わらなかった。
 
 うらぶれた黒い瞳は、薄くサンダウンをその視界に映しても、それ以上の反応を見せない。心が完
 
 全に誰かに連れ去られ、吸い取られてしまったかのように。

 普段の彼を知っているサンダウンとしては、その姿は少なからずとも衝撃だった。

 きちんと屋根のあるところで乾いた服を着ているはずなのに、マッドは今此処で雨に打たれて泥に
 
 濡れたかのように沈んでいる。 

 黒い髪と白い肌を薄汚れた茶の木目に擦りつけ、彼は酔いの混じった濡れた声で呟いていた。



「ふられた。」


 
 低い声は、甘い響きは何処にもない。粉々に打ち砕かれた硝子の鈴の音ばかりが、ひゅうひゅうと
 
 鳴り響いている。

 掠れた声が零した言葉の意味を受け止め兼ねていると、マッドは続けて囁いた。



「俺は、必要がないらしい。」

「…………。」


 
 思わず、まさか、と言い掛けた。

 この男が、誰かに拒絶されているところなど想像できない。つだって誰にでも傅かれ、その腕と足
 
 元に侍らせ、その全身を狙われている。

 若い身体と繊細な指先と、うっとりとするような声音と、絶望も希望も喜んで飲み下す熱量と。全
 
 てに求められ受け入れられるに値する彼を、必要ないと断じる人間がいるとは思えなかった。

 けれども、マッドはしっとりと濡れた身体で呟く。



「今までずっと愛してきたつもりだったけど、結局無駄だったらしい。俺は結局、その他大勢の一人

 だったみたいだ。」



 木目をなぞる指先は、ささくれだったように皮膚が白く粉をふいている。傷がいくつもある事は知
 
 っていたが、そんなふうに荒れているところは見た事がなかった。

 よくよく見れば、赤味を帯びた頬の上――眼元には薄っすらとだが隈が出来ている。
 
 

 それほどまでに、誰か一人に心を砕いたのか。お前が。

 そしてそれは受け入れて貰えなかったというのか。

 他でもない、お前が身を投げ打ったというのに。



 一体、誰が。



 当然のように、ぽろりと思った事。それはどうやら気付かぬうちに声に出ていたらしい。

 まさかサンダウンがそんな事をマッドも思っていなかっただろう。ほんの少し黒い眼が大きく見開
 
 かれ、しかし、すぐにうらぶれた歪んだ円を描く。



「……あんたに言って、どうなるってんだよ。俺の代わりに、恋文でも書いてくれるってのか?」

「……………。」


 
 かさついた声に微かな軽口が混ざった事に安堵し、しかしそれが直ぐにただの自嘲である事に気付
 
 いて顔を顰めた。こんなふうに笑う男ではないはずなのに。

 

「年上だよ、俺よりも遥かに。俺が生まれた時にはもう色恋沙汰の一つや二つ知ってたんじゃねぇの

 かな。だから、俺の事をガキ扱いしてんのかもしれねぇな。」



 その声に、緩く首を振る。まさか、という思いを込めて。

 子供扱いしようにも、若いながらも幾多の死線を潜り抜けてきたマッドは、同時に洗練された流れ
 
 を持っている。この西部では誰よりも大人じみた所作をするのに。

 だが、マッドはその言葉を受け止めない。



「動作だとか、経験とか、そんなんじゃねぇよ。もっと別の次元で、子供扱いされてんだろうな。」



 相変わらず、木目をなぞる指が悩ましい。中指から続く線の形は、彫刻のように秀麗だ。

 これとマッドの名声に靡かぬのは、きっと商売女ではないだろう。だが、麗しい所作が認められな
 
 いのならば、それは上流階級の女でもない。

 となれば、あとは神に仕える女くらいしか思い浮かばないのだが。



「眼が、さ。俺とは違って真っ青なんだ。青、と言うよりも、群青に近いんだ。強い強い空の色だ。

 きっと、海の底から空を見上げたら、あんな色なんだろうな。縁に行くにつれて濃さが増して、真
 
 っ只中に一点、白い光が浮かんでいるんだ。」


 
 湿った、けれどかさついた声で謳うようにマッドは愛しい人の事を告げる。カウンターを撫でる手
 
 の動きも、それに伴って優しいものに変わる。

 ゆったりと、愛撫とはまた違う、壊れる事を恐れるかのような微細に震える手つき。それとは打っ
 
 て変わった指先で、乱暴に自分の髪を掴む。



「俺は、ガキの頃、この髪の色があんまり好きじゃなかったんだ。何処にでもある色だろ?周りのガ

 キの中にはふわふわした金髪の奴がいてよ。どう見ても、大人も子供もそいつばっかりちやほやし
 
 やがるんだ。もしかしたら、だから俺は金髪に惹かれんのかもしれねぇな。」


 
 でもやっぱりあの金髪が特別なんだと続けられ、サンダウンはお前の髪もと言い掛けてそれ以上の
 
 言葉が言えずに終わる。

 お前の黒い髪も眼も存分に人を惹きつけるのだと言ったところで、マッドには何の慰めにもならな
 
 いだろう。



 しかしそれ以前に、お前に愛されて無自覚なその人間は、お前の髪や眼をそこらにある黒髪や黒眼
 
 と同じと判じているのか。ならば、お前に愛される資格など、微塵もないだろうに。

 金の髪や青の眼如き、生まれ持った飾り如きしか見えない者になど、お前は捕まるべきではない。

 マッドの内々に培われた熱は、生来のものよりも遥かに高い位置を飛んでいる。



 だが、それらは結局一言も口に出来ないままだ。

 何一つ口にできず、サンダウンは何処か遠くの誰とも知れない人間に思いを馳せているマッドの背
 
 を眺めるしかない。

 もしもマッドが何かの拍子にその人間の名を零したのなら、誰にも知られぬようにその命を消して
 
 やるのだが。けれど、したたかに酔っぱらっていても西部一の賞金稼ぎはその名を口にしなかった。

 代わりに、見当違いな方向に指を伸ばして、何かを掴もうとする。



 虚空を掴み続ける指先がいたたまれず、サンダウンはその手を掴んだ。その瞬間に、マッドの湿気
 
 た唇に思いのほか淡い笑みが浮かんだのを見つけて、更にいたたまれなくなった。

 だが、マッドはようやく捕まえた何かを手放す気はないらしく、ゆったりとサンダウンの手の線を
 
 なぞっていく。親指の付け根から肘へ、上腕の筋をなぞって肩へ。そして、肩に一房落ちた砂色の
 
 髪に辿りつくと、その感触を確かめるように何度もその白い指に絡めて梳く。

 

 有り得ないくらい優しい手つきで。

 何度も、何度も。

 お前は、そんなふうに愛しいものに、触れるのか。



 たゆたうように微笑んでいる黒い瞳は、濡れてしまって、何一つ映さない。

 次第に指先が髪の先から、根元へ、そして米神へと動いていく。眦にひたりと指を添えると、彼は
 
 不意に笑みを消した。代わりに、形の良い唇が別の生き物のように震え始める。

 雨に打たれて怯えた獣のようだ。



「なあ…………。」


 
 ぼろりと零れ落ちた言葉は、きっと本当に口の端から転げ落ちてしまったものだろう。

 それと同時に、稲妻が閃いた。

 マッドの白い顔に濃い陰影が引かれ、すっと瞼が落ちる。眩しかったのだろう。けれど、そのまま
 
 眠ってしまったのか、もう眼は開かない。

 次いで聞こえてきた雷鳴が、マッドの言葉を流していった。